<1話
今年の実習生は十人。そのうち数学科は俊平だけだった。まずは全体説明を受け、それから手の空いている時間帯に、各教科の担当教員とミーティングを行う。
「数学科の瀬川です。新田先生は、中学の免許も取る予定だったね。今日から三週間、よろしく」
俊平は真面目な顔で、よろしくお願いします、と頭を下げた。手本になりそうな角度の丁寧な会釈を見届けて、要は彼に、塾講師の経験があるかを尋ねた。
「今はやってないですけれど」
「集団? 個別?」
「集団です。中学生相手で、理系科目をメインに教えてました」
教員免許を取得しようという学生は、だいたいが塾講師のアルバイトをしている。時給もいいし、授業経験を積むことができて、一石二鳥だ。要自身も、大学時代は個別指導塾で講師を務めていた。俊平が働いていたのは、東京では名の知れた進学塾だった。
「塾とは違うっていうことを、念頭に入れておいた方がいい」
特進科の高校生相手ならば、塾で身に着けたノウハウも活かせるだろう。しかし、聖明での事情は異なる。普通科のあまり勉強熱心ではない生徒や、中高一貫で入試もなく、気の抜けた中学生の指導もしなければならない。
「中学生は特に、数学を嫌いにならないような授業を心がけてほしい」
進学指導塾向けの指導方法とは異なるアプローチ、創意工夫が必要だ。要もいまだに、試行錯誤の日々を送っている。
「あと、君は数学の指導だけに専念するように」
「と、いうと?」
「生徒からは、英語や国語も質問されただろう?」
要の指摘に、俊平は頷いた。東京大学は理系であっても、二次試験で国語を課される。だから、下手な私立文系の学生よりも、国語や英語の成績がいい人間は、ごまんといる。
加えて、俊平の真っ直ぐな笑顔は、生徒から警戒心を奪う。担当講師の不在時に、また、講師に不信感を抱いているとき、生徒たちは話しかけやすい俊平に、質問をしただろう。
オールマイティな東大生にとって、中学生の質問など朝飯前で、さらに彼の人気は高まったに違いなかった。
「塾では便利屋として重宝されるかもしれないが、学校教育の現場では、それはNGだ」
自分が担当している教科に、教師はプライドを持って指導にあたっている。そこにぽっと出の実習生がやってきて、勝手に生徒の質問に答え出したらどうなるか。下手をすると、自分よりもはるかにわかりやすいやり方で。
それがわからないほど、俊平は人の心の機微に疎くはないだろう。
要には、教えてくれる人間がいなかった。実習で関わった教員は、皆自分の科目のプロフェッショナルで、要のようにオールマイティな教師はいなかった。
やってしまってから、「しまった」と気づいた。担当教員は庇ってくれたが、居心地の悪い三週間だった。そんな思いを、後輩にはさせたくない。
「あー……確かに、いい気はしないですよね。肝に銘じます」
東大生の中には、自らの知識を誇示するように、あらゆる場面に口を挟むような人間もいるが、俊平は違う。人間関係の和を乱すことをよしとしない態度は、要の気苦労を少しは減らしてくれるだろう。ほっと息をついた。
そもそも本来は、俊平の実習の担当は、数学科の主任教諭のはずだった。そのつもりで事前説明会では、彼が俊平にテキスト等を渡していたはずだし、要は同じ東大出身ということで、気にかけておいてほしいと教頭に言われただけだった。
しかし、地元の教育大学を卒業した数学科主任は、学歴に異様にコンプレックスを抱いていた。要にも、度々卑屈な態度を取ったし、「これだから東大卒は」と、他に東大出身の教師を知らないのに、口にすることさえあった。
ずいぶんと幼稚だと思ったが、教師なんてそんなものだ。新卒で採用されれば、なんの経験がなくても、「先生」と持ち上げられる。慢心してしまえば、それ以上の精神的成長は、まず望めないだろう。
教科主任としてのプライドと、東大生に対する萎縮の板挟みになった彼は、現在身体を壊して入院中である。
「本当なら主任が君の実習を担当するはずだったんだが、あいにく入院してしまって。同じ東大出身ということで、俺が担当することになった」
要は机の上に置いてあった名簿のコピーを、俊平に手渡した。
「これがうちのクラスの名簿だ。事前説明会で渡してある名簿は、返却してほしい。こちらで処分する」
電話番号や住所などは記載されていない、出席を取るためだけのものだが、個人情報の管理は徹底されている。小テストの結果すら、個人情報として扱うことになっているほどだ。
俊平から高校一年C組の名簿を受け取ると、要は処分ボックスに突っ込んだ。一日一回、職員室に持っていってシュレッダーにかけることにしている。
「今日、明日は基本、俺について授業見学。他の数学の先生の授業も、最低一回ずつは見てもらう。水曜日から少しずつ、教壇に立って授業をしたり、ホームルームの進行もしてもらうから」
「はい」
「部活はやっていたんだっけ?」
「受験のために高二までで退部しましたが、サッカー部に。今も時々、フットサルをやってますよ」
スーツの上からでも、俊平の肉体はそこそこ鍛えられていることが、よくわかる。思わず、要は自分の貧相な肉体を見下ろした。
「瀬川先生?」
不思議そうな声に、はっとして、要は咳払いした。
「毎回じゃないけれど、部活動の指導研修もある。そっちは部活の顧問から打診があると思うから、そのつもりで」
他に質問はあるか? と要が尋ねると、俊平は首を傾げて考えている。まぁ、いきなりまくしたてられても、質問なんて思い浮かばないか。要は青年を気遣って、自分から話を振った。
>3話
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