王女様は本の虫

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本 ファンタジー

 天使の指先がページを捲るのを、エミールはしばらく眺めていた。装飾品などひとつもつけていないのに、真珠のように真っ白に輝いている。

 じっと、群青色に瞬く目を、手元の本に向ける。はらり、と額にかかったのは夜と夕の狭間の、淡い光を放つ藍の色をした前髪だ。鬱陶しそうに彼女は、細い指で撫でつけた。

「グレース」

 一度呼んでも反応がないのは、いつものことだ。エミールは溜息をついて、もう一度、最愛の妹の名を呼んだ。

 すると、ようやく彼女の目は現実を直視し始める。読みさしの本に、レースで縁取られた薄絹の栞を挟んで、机の上に置いた。それからゆっくりと立ち上がり、振り向いた。

「ごきげんよう、エミールお兄様」

 淑女の礼によって迎えられた兄は、苦笑した。貴婦人は、決して急いではならないもの。とはいえ、現在離れで暮らしている兄と、久方ぶりに会ったのだから、もう少し違う反応があってもよさそうなものだ。

「グレースは、元気にしていた?」

 ええ、と彼女は微笑んだ。真っ白な肌は、日の下に出ることが稀であるがゆえに、血が通っていない人形めいて見える。病弱だったのは子供のときだけで、今は健やかに過ごしているはずなのだが、彼女は滅多に外に出たがらない。

「今日は、何の本を読んでいたの?」

 エミールの問いに、待っていました、と彼女は、置いたばかりの本を取り上げ、表紙を兄に見せた。髪の毛と同じ、藍染めの睫毛に縁どられたグレースの目は、きらきらと輝いている。

 よく似た面差しだと言われる、優しげな女顔のエミールだが、このような目はできない。そう思う。純粋な本への愛情に、透き通った瞳。熱狂的な視線を送る対象は、いつだってよくできた、物語だ。

「庭師が伯爵の未亡人にしたためた愛の詩を元にした、恋愛小説ですわ。身分違いの恋に揺れる心が、切なくて……」

 ふぅ、と息をつくグレースは、普通ならばロマンティックな恋愛をしてもおかしくない年齢だが、それは夢のまた夢である。

 大陸の中央に位置する大国・リブリエール王国。エミール・リブレとグレース・リブレの兄妹は、王家の直系だ。

 特にグレースは、王位継承権第一位に座し、二ヶ月後には立太の儀を待つ身であった。リブリエールの王家は、女性の方が継承順位が上という、世界でも珍しい国だ。

 建国の王は、自分の子の中でも、男子を殺したり幽閉したりして、一人娘に国を継がせた。真の理由は彼にしかわからない。歴史家の中では、自らの血統を守るためだという説が有力だ。しかし、男の王が立っても短命で終わるという不思議な現象には、理由がつけられないため、まだ結論は出ていない。

 加えて、彼女の持つ髪と目の色彩だ。神格化された建国者は、夜の王と呼ばれていた。黒に近い色であればあるほど、尊ばれる。

 エミールは先に生まれただけ。男である上に、色彩も黒とは程遠い、赤銅色の髪と灰色の目だ。貴族や国民の関心も、妹にばかり集中する。

「ねぇ、グレース」

 グレースは、情熱的な恋の詩を、すらすらと暗誦している。いつまでも続きそうだったので、エミールは彼女の柔らかな唇に人差し指を押し当てて、黙らせた。グレースはぱしぱしと目を瞬かせて、頬を染めた。

「旅行に行かないかい?」

 用がなければ立ち入らぬように言われている、妹姫の部屋を訪れた本題を、告げた。グレースは、「旅行」と明らかに気乗りしないといった調子で、外をちらりと見つめた。

「王太子になれば、公務以外で外に出ることは難しくなる。その前に、僕は可愛いグレースと、秘密の旅に出たいんだ」

 まるで深窓の貴婦人を口説く、不届き者の庭師ように、甘い声でエミールは誘う。

「ひみつ」

 その言葉の持つ甘美な響きに、彼女は好奇心を隠せない。

「あちこちの史跡に行こうと思っているんだ。お忍びの旅だから、最低限の警護しかつけない。僕だって剣はかなり使えるからね。グレースが逃げる時間くらいは、稼げる」
「まぁ、お兄様。そんなこと言わないで」

 お兄様がいなくなったら、わたくし、嫌よ。 

 ふにゃりと眉を下げて、腕に纏わりついてきた妹姫の頭を、エミールは優しく撫でた。

「大丈夫。連れていく護衛は、信用のおける精鋭たちばかりだからね。君は勿論、僕のこともしっかりと守ってくれるよ」

 だから行こうよ、となおも食い下がる兄に、グレースは微笑んだ。

「それで、本を運ぶ馬車は、何台ですの?」

※※※

 お忍びの意味をわかっているのか、いないのか。エミールは、妹が旅に持っていこうと詰め込んだ本の大部分を諦めさせるのに、ずいぶんな時間を要した。

 最終的には、溜息をついて、

「グレース。君はこの兄と、物語と、どちらが大切なんだい?」

 と、いささか卑怯な質問をした。するとグレースは、すぐに「あら」と心外そうな声をあげ、目を丸くした。

「愚かな質問ですわ、お兄様。物語とお兄様の、どちらが大切か、ですって? そんなの、お兄様に決まっていますわ!」
「そう。じゃあ、冊数を減らしてね? 馬車一台に、僕とグレース、あと侍女が乗るっていうことを考えて」

 護衛は馬車の周りを馬に騎乗して取り囲めばいいが、侍女はそうはいかない。今も彼女は、本以外に興味を示さない主人の代わりに、地味な外出着を用意していた。その動きには、一分の隙もない。

 くすんだ金の髪を、後れ毛の一本も許さないとひっ詰めて、シニヨンにしている。美人には違いないが、無表情で何を考えているのか、まったくわからない。

 エミールの言葉に従って、グレースは渋々、鞄に入れた本をひっくり返して、厳選し始めた。ああでもない、こうでもないと悩んでいる妹姫に、エミールはもう一つ、質問をした。

「グレース。物語を捨てなければ、民を守れないとしたら、どうする?」

 グレースは、本から目を離した。兄王子に向き直り、胸に手を置いて、自信満々、堂々と宣言する。まさしく、女王の風格だ。

「決まっております。わたくし、民のためであれば、物語を捨てられますわよ。それが王位に就く者としての、当たり前の責務です」

 そう、とエミールは、目を伏せた。それからグレースは悩むこと数十分、再び本を詰め込んだ鞄を持ち上げた。

「お待たせいたしました」

 本以外のグレースの持ち物は、侍女によってすでに荷造りが終わっている。エミールは、言わずもがなだ。エミールは洋服の入った鞄よりもずしっと重い、本の鞄をさりげなく受け取る。

 グレースは、可愛らしく微笑んで、エミールの袖口を引く。幼い頃を思い出して、エミールは微笑んだ。

 馬車の中に、まずは本を積んで、エミールが先に乗り込む。

「グレース、おいで」

 手を差し出すと、彼女は自らの手を重ねて、馬車に乗り込んだ。次いで、侍女にも同じようにしたが、彼女はエミールの紳士的な行動を無視して、一人で勝手に馬車に乗り込んだ。

 呆気にとられたエミールであったが、「どうされましたの、お兄様?」と妹に首を傾げられて、小さく嘆息した。なんでもないよ、と扉を閉じて、エミールは御者に、出発の合図をした。

 グレースと侍女は、エミールの向かい側に並んで座っている。早速、本を読もうとし始めた妹を、忠実な侍女は止めた。

「どうしてよ、リリィ?」
「畏れながら、姫様は、馬車に乗り慣れていらっしゃいません。そんな状況で読書に励まれれば、車酔いは確実かと存じ上げます」

 エミールは初めて、この侍女の名前を知った。リリィという愛らしい名前と、彼女の冷たい顔立ちはちぐはぐで、落ち着かない。

「リリィ、といったね。君は、妹のよき侍女のようだ」

 グレースのことを真剣に考えているからこそ、彼女は妹のしたいことを制限する。エミールの誉め言葉を、リリィはにこりともせずに、会釈で受け入れた。

「恐縮ですわ」

 そして再び、リリィは押し黙ってしまう。やれやれ、前途多難である。この調子で三週間の旅程を過ごすのは、なかなか大変そうだ。

 中に乗っている人間がわからないようにするため、馬車には窓がついていない。景色を見て気分を紛らわせることもできずに、グレースのできることといえば、眠るか、エミールと話をするかの二択である。

「お兄様、まずはどこへ行きますの?」
「それは内緒。知ってしまえば、つまらないだろう?」

 エミールは、唇に人差し指をあて、ふふ、と笑んだ。

 旅、とは言っても国内に限ってのことである。一人ではなかなか視察することの難しい、辺境の村々にある史跡を中心に、見学するようにエミールは手はずを整えている。

 この百年ほど、リブリエール王国は、近隣諸国とは友好関係を保っている。ただ、周縁の村や街は、それよりも前に戦争によって得た領地であるため、王家にあまりなじみがない。

 直系の王族が来訪するのは、それこそ十年に一度がいいところだ。エミールも、実際に史跡を目にするのは、初めてのことだった。

 一つ目の目的地は、王都から南西にある、小さな村だった。五日かかって辿り着いたその場所で、グレースはエミールの手を借りて、馬車を降りた。

「まぁ……!」

 目立たないように、藍糸の髪をフードで隠した彼女は、白い頬を上気させ、小走りになる。その後ろを、リリィは粛々と黙ってついてくる。

「ここは」

 と、エミールが説明しようとすると、グレースは興奮した口調で遮った。

「わかりますとも! 男装の騎士・レティシア嬢が、グランツ公国の兵士と、束の間の愛を語らった東屋ですわね」

 兄妹が見上げる建物は、戦争で激しい攻撃を受けたそのままの姿である。屋根は一部を残し崩れ落ちており、窓も枠だけになっている。毒を撒かれたせいか、草は周辺と比べて育っていない。

 ここで、レティシア嬢は敵国の兵士への恋情を抱いたまま、最期の命を燃やしたのだ。

 エミールは、涙で潤んだ目で東屋を見つめる妹に、話しかけた。

「君は、レティシア嬢の話を特に好んでいただろう?」
「ええ、ええ! お兄様! 何度読み返したことか!」

 史跡は無論、触れることはできない。エミールはグレースにそう注意すると、「わかっておりますわ!」と、彼の方を見ないで言った。

 近寄ることのできるギリギリの場所まで行って、グレースはうっとりと溜息をつく。彼女の空想の翼は、五百年前まで飛んでいく。エミールは彼女の邪魔をすることなく、黙って彼女を見守っている。

 東屋を訪れた観光客は二人の他にも多くいる。彼らを寄せつけないように、兄妹の背後には、数人の護衛が、そうとはわからないように立っている。

「ねぇ、お兄様」
「なんだい?」

 夢中になっていたグレースが、不満げに唇を尖らせた。

「どうしてこの東屋は、こんなにボロボロなんですの? 国には修繕する、財がないとでもいうのでしょうか?」

 エミールは、笑いを消した。どうしてだと思う、と逆に静かに問い返した。グレースは考える素振りをひとかけらも見せずに、

「お兄様、質問に質問で返すのはいけませんわ」

 と、頬を膨らませる。エミールは、後ろにいるであろう護衛たちに、目配せした。それからすぐに、表情を和らげて、グレースに向き合う。

「この旅の間、考えてごらん。最後の観光場所で、答えを聞こう」

 どうしてすぐに教えてくださらないの、お兄様の意地悪。

 グレースは可愛らしく、不平を述べ立てた。しかし、それもすぐに忘れたかのように、朽ち果てた壁を見つめ始めた。

※※※

 その後も、エミールが選んだ場所はグレースが好んだ物語の舞台となった場所だった。恋愛だけではなく、グレースは荒々しい戦記物も読むし、おどろおどろしい幽霊譚も読む。

 三か所目は、投獄された男が憤死した塔だ。彼は最期まで自らの無実を訴え、自身を貶めた一族を呪って、その血筋を絶やしたという。

 中に入れるようになっており、かの男が収容されていた監獄跡には、「ここから出してくれ!」という叫び声が聞こえてきそうな、爪痕がくっきりと、生々しく残されている。

 グレースは怖がることもなく、興味津々の目で見つめている。きゃ、と小さな悲鳴を上げたのは、いもしない幽霊に怯えたわけではなくて、床に開いた穴から、ネズミが出てきたのに驚いたせいだった。

「おっと」

 その拍子に、グレースは自分のドレスの裾を踏んで、転びそうになった。エミールは彼女の身体を支える。

「大丈夫?」

 グレースはドレスを整えて、肩を怒らせる。

「もうっ! ネズミがいるなんて、汚らわしいわ!」

 森に遊ぶリスは、「可愛い可愛い」と愛でるのに、同じような形状をしたネズミは駄目だと喚く。ネズミがいかに恐ろしい病原菌を媒介するか、グレースは得意そうに披露した。

「とにかく、ネズミは殲滅すべき敵なのです!」

 グレースは将軍のように、力強く演説した。エミールは、

「そのためにはどうしたらいいと思う?」

 と尋ねる。兄にそんなことを聞かれるとは思ってもみなかったグレースは、言葉に詰まった。

「一匹一匹退治しても、ネズミの繁殖能力は、人間よりもはるかに高い。それじゃあ、根本的な解決にはならない。それに、ネズミを絶滅させたときにどんな影響があるか、考えたことはある?」

 エミールは柔らかな口調で、しかし、容赦なく妹姫を詰問する。それは、兄と妹の和やかな語らいなどでは決してなく、為政者と彼女に政を問う、宰相の姿だった。

 現在、兄妹の母が女王位にある。そして、叔父は公爵家に婿入りし、宰相として姉女王を補佐している。エミールもまた、同じ道を辿るに違いない。リブリエール王家ではなぜか、男きょうだいを他国へと婿に出すことは、ほとんどない。

 叔父は母の言うことに、唯々諾々と従っている。ありえない政策を打ち出しても、叔父は何も言わない。母の命令を実行し、否定する者に対しては、罰を与えることも厭わない。

 それは、健全な国家とはいえないと、エミールは思う。抑止力として誰かが機能しなくてはならない。そうしなければ、いかにリブリエールが大国であったとしても、滅ぶ。

 だから、エミールはグレースを旅に連れ出した。

「お兄様、どうしてそんなことをおっしゃるの?」
「君が、女王になるからだよ。グレース」
「わからないわ」
「わからない、じゃない。考えようとしていないだけだ」

 存外、声に冷たい響きが乗った。グレースに疑われないように、エミールはすぐに微笑んだ。今はまだ、時ではない。

「変なお兄様」

 エミールは、グレースの背後から肩を押して、先へ行こうと促した。リリィが捕まえたネズミが、チュウ、と哀れな声を上げた。

 最後の見学地は、リブリエール王国の領土でありながら、王家の土地ではなかった。王都からはるか東の果て、そこはカンゲン自治区と呼ばれる場所だ。

 百年前、最後の大戦でリブリエールが手に入れたのが、この土地だった。今は滅亡した、カンゲン国という小さな国が、ここにはあった。

 彼らはリブリエールの民とは、大きく違っていた。金髪碧眼が圧倒的に多い自国民とは違い、カンゲンの民は、黒髪に黒い瞳……そう、リブリエール王国が敬愛してやまない、建国者と同じ色を纏っているのだ。

 王家にとって、彼らの存在は都合が悪かった。好戦的なカンゲンの民に攻められれば、リブリエール国民は、黒色に動揺する。天罰だ、と恐慌状態になる。それを恐れ、国はカンゲンを攻めあぐねていた。そして今に至っても、彼らをないがしろにすることはできず、「自治区」として特別扱いをしている。

 沈黙したグレースの前には、ただの穴がある。大きな虚だ。柵で囲ってあり、落ちたらきっと、グレースはおろか、エミールでさえも、上がってはこられない。

「カンゲンの王の、一番の過ちだよ」

 静かなエミールの言葉に、グレースは振り返った。過ち、と小さくおうむ返しにする。

「最後の王は、ここに学者を生き埋めにして、彼らの書いた本を、焼いた」

 荒々しいカンゲンの血を、最も色濃く注いだ男は、自らを諫める人間を殺した。残忍な欲望のために、生き埋めにした。

 周囲にはおもねる佞臣のみ。市井の人々に知識や知恵は伝わらず、文化は根づかない。そんな隙だらけの状態は、攻め滅ぼす絶好の機会。リブリエールは逃さなかった。

 グレースは再び、大きな穴に目を向けた。風がびゅう、と吹く。この土地でなら、彼女の夜色は目立たない。長い髪が、流れる。

「どう思う、グレース。カンゲンの最後の王の、この行動を」

 お兄様はこの旅の間、質問ばかりですわね。

 グレースは、振り向かなかった。

「愚かだと思います。学者の先生方を、埋めてしまうなんて、本当に、恐ろしいこと!」

 ああ、とエミールは、目を閉じた。やはり、彼女は。

「本を焼いたことに対しては、何も言わないんだね」

 エミールが、王太子となる妹を旅に連れ出したのは、彼女の資質に疑いを持ったからだった。

 最初にその疑惑を抱いたのは、歴史学の教師だった。幼い姫君は読書が好きで、手のかからない生徒だと思っていた。しかし、彼は気づいてしまったのだ。

 それは、ふとした時に口にした、彼女の言葉がきっかけだった。

『先生。歴史を作り替えることって、とっても簡単なんですね』

 まるですでに実行したように語る彼女に、教師は恐怖した。歴史書をすべて確認して、その痕跡がないことにほっとしたが、彼はその後彼女を教えることに自信を無くし、半ば狂った状態で王宮を辞した。泣きながら、兄王子に対して、グレースの恐ろしさを告げて。

 グレースは振り返った。先ほどよりも強く風が吹き、彼女の前髪を揺らしたせいで、表情がよく見えなかったが、エミールには、妹が笑っているような気がした。

 果たしてそれは、正しかった。春になると、野原一面に咲く、サクラソウの色をした唇の端は、持ち上がっていた。

 エミールは、そんな彼女に最後の質問をする。

「グレース。君の好きな物語や、今日ここまでに見てきた遺跡の数々は、いったい何のためにあるんだろう」

 風がやみ、グレースは髪の毛を払いのけた。ぞっとするくらい美しく、明るい微笑を浮かべて、

「お兄様。何の意味も、ありませんわ」

 と言った。

 歴史は、そして史実を元にした物語は、教訓である。同じ轍を踏まぬように、どうしたらいいのかを考えるべきものである。

 戦争の愚かしさ、過去の過ちを伝えるために、東屋や塔はわざわざ高い費用を費やして、当時の姿をのままに留めているのだ。

 歴史から学べない為政者は、国を亡ぼす。その前に、エミールは、次の宰相として……グレースの兄として、彼女を止めなければならない。愛しているからこそ、エミールがやらなければならない。

「君は、カンゲンの王と同じことをしようとしている」

 問いかけではなく、断言した。グレースは、悪びれもせずに首を傾げた。王太子になるには、あまりにも幼い態度だった。

「同じ? 同じではありません。私は、本を独り占めしたいだけ。私以外に、誰かが本を持っていることが嫌なだけ。だから、私のもの以外の本を、焼くの」

 澄んだ目の美しさに、純粋さに、エミールは絶望する。心の内に、目の前の大きな穴と同じような闇が広まっていって、狂いそうになる。

「だいたい、無学な者が本を読んでも、私の百分の一も、話の内容を理解できませんわ。そんなものは、物語に対する冒涜です!」

 グレースは拳を握り、兄に力説する。その姿は、母によく似ている。議会で理解を得ようと演説をする、母に。

 頭の中身はどうあれ、彼女たちは実に、女王に向いていた。聞く者を魅了する声に、煽動する身振り手振り、表情。

 だが、エミールは彼女に丸め込まれるわけには、いかなかった。生まれた国、愛する民を守るために、彼は一度、目を閉じた。

 妹と国を天秤にかける。旅に出る直前に、エミールは彼女に問いかけた。民と本と、どちらを取るのか、と。彼女は民を取る。そう言ったはずだった。

 グレースは、嘘をついたわけではない。

「民は無知である方が、幸せなのです」

 民が読書を通じて知識を蓄えることは、自国の王に疑いを持つことになる。国を、王家を信じることができない国民が増え、内乱が起きれば、多くの人間が命を落とす。だから、グレースは本を焼くことで民を救う。そう詭弁を弄しているのだ。

「学者の先生方は、私のために、本を書くの。新しい物語を綴るのよ」
「それが、できなくなったら?」

 グレースは、「生き埋めにはしないわよ。野蛮だし、穴の中からずっと声がして、不気味だもの」と言った。首を切るか、絞めるかだろう。エミールは思った。役に立たない人間、歯向かう人間に、彼女は容赦しない。

「ねぇ、お兄様」

 最愛の妹は、いつまで経っても妹のはずだった。だが、今目の前で喋っているのは、誰だ。

 唇が動く。お兄様、と。ああ、妹が、喋っているのだ。

「だって歴史は、物語でしょう? いくらでも、書き換え可能な」

 城にある歴史書の矛盾点から、グレースは何者かによって、歴史の改竄がすでに行われていると気づいた。歴史学の教師も気がつかないほど、徹底的に行われた改竄だった。

 歴史は決して、事実とは言えない。ただのおとぎ話で、物語。だから、好きよ。

 もう無理だ。完全に天秤は、妹が乗った方を掲げた。民を、国を守るためには、やはり、最初からこうするしかなかった。三週間という猶予など、必要なかった。

 エミールは深呼吸して、右手を上げた。声が震えないように注意しながら、「やれ」と短く言った。

「お兄様? それで?」

 可愛らしい笑い声が、虚ろな場所に響く。何も。何も、起きなかった。エミールが連れてきた護衛たちは、彼の意志に同調した、同志たちだった。軌道修正が不可能だとわかったときには、妹姫を暗殺する。そのために、連れてきた男たちだった。

 気配を消して、こちらを監視しているはずだ。エミールの一声で、グレースに襲いかかる、予定だった。

「なぜ、だ……」
「お兄様は信頼のおける護衛だとおっしゃいましたが、わたくしには、まったく信頼できませんでしたので……」

 わたくしも、自分の信頼できる「護衛」を頼んでおりましたの。

 グレースは慈悲深い笑みを浮かべて、天使のような手を、挙げた。

 その瞬間、エミールの腹部に熱が広がった。遅れて、痛みがやってきた。何事かと、恐る恐る見ると、腹を刃が突き刺していた。

「なに、を……」

 口を開くと、真っ赤な血が溢れた。どさ、と倒れこみ、無理矢理どうにか視線を背後に向けると、淡い金色が、太陽の光を反射していた。

 リリィ。彼女は、短剣をエミールの腹から抜き去った。相変わらずの無表情で、消えゆく命を見つめている。

「お兄様が連れてきた方々は、みんなリリィがやっつけましたのよ。ふふ、残念。お兄様とは、わたくしが女王になってからも、ずうっと仲良くしていきたかったのに。そう、お母様と、叔父様のように……ね。うふふ」

 身体が痺れていく。血が失われていく。意識も霞んでいった。土に沁み込んでいく自分の血を、エミールは呆然と見つめていた。

 最後にエミールが聞いたのは、遠くからやってくる軍靴の音。それから、女の断末魔の幻聴だった。

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