空似の義兄

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鏡 短編小説

 きっかけは、テツヤ(あるいはナオキ、だったかもしれない)の一言だった。

 十年以上経った今でも、幸雄ゆきおは鮮明に覚えている。

『えっ、お前らって、双子じゃねぇの!?』

 彼は、幸雄と康之やすゆきの顔を交互に見た。

 小学校四年。十歳。成人の半分の年齢だから、お祝いをしましょう。

 くだらない理由をつけて、担任はその月に生まれた生徒を呼び寄せた。何もすることのない学活の時間を潰すための口実だった。

 お祝い、なんてそんないいものではなく、皆の前でやりたくもないスピーチをするという、拷問のような時間だった。

 親や教師、友人への感謝を適当に述べて、まばらな拍手をもらうだけのやる気のない会だった。

 連休明けの五月、教壇に上がったのは、康之だけだった。

 幸雄は、スピーチに興味がなく、消しゴムの側面を鉛筆で真っ黒にすることに、熱中していた。

 シャープペンシルは格好いいけれど、消しゴムに刺したらすぐに折れる。鉛筆の方が強いのかな。

 そんなくだらないことを考えながら、

『俺、七月生まれだし』

 と明かした。

 その頃にはすでに、保健の授業で、どうやったら男女の間に子供ができるのかを学んでいた。

 勿論、習う前からエッチをするんだということは知っていた。正式にはセックスというのだということを、幸雄たちは学んだ。学校で教えてもらったことは、堂々と披露していいことだ。

『計算合わないじゃん』

 母親のお腹の中に、子供はだいたい十ヶ月間いる。四月頭生まれの兄と、三月末生まれの弟ならば、同級生にもなれるだろうが、五月生まれの康之と七月生まれの幸雄では、同じ母親から生まれるのは無理がある。

 幸雄は一人で、母親の腹から生まれた。康之もまた、同じく一人だった。

 兄弟になったのは、小学校に上がる前。初めて対面したときに、幸雄は康之の顔をまじまじと見つめて、試しに手を挙げてみた。

 すると、康之も反射的に手を挙げる。思わず幸雄は、目の前の少年の頬に触れた。温かくて、びっくりしてすぐに離した。それが鏡に映った自分の姿ではないことに驚いたのだ。

『写真で見たときも似てると思ったけど、ここまで似てるなんてね』

 いい年をした、子連れ同士の再婚だから。

 そう言って、式を挙げなかった両親は、その代わりに、息子たちと一緒に初めての家族写真を撮りに行った。

 四人が収まったその絵は、そっくりな少年たちによって、とても自然な家族の肖像になっていた。

 それぞれ片方の親としか血が繋がっておらず、普通はそれが写真の内に軋みのようなものとして映し出されるはずなのに、最初からひとつの家族であったかのようだった。

 幸雄と康之は、二卵性の双子といっても通用する程度には、よく似ていた。

 他人の空似だった二人が、奇しくも戸籍上の兄弟になったのだった。

※※※

 店の窓の外は、小学校の通学路だった。まだ明るい時間であるとはいえ、繁華街。人通りも多く、徐々に飲み屋の呼び込みでの声も、大きくなってくる頃だ。

 ぼんやりしていると、姉妹とおぼしき赤いランドセルの子が、二人で手を繋いで帰宅しているのが見える。

 はぐれるものか、と互いの存在を確認しながら歩いている少女たちの姿は、微笑ましい。

 そんな時代もあったよなあ、と、幸雄は煙を吐き出した。マイペースな康之を、学校の息帰りに急かし手を引くのは、幸雄の役目だった。

 すでに灰皿には三本の吸い殻が載っていて、一番安いからという理由で注文したアメリカンは、冷めてしまっている。コーヒーは苦くて好きじゃないのに、格好をつけて砂糖もミルクも持ってこなかった。

「すいません。お冷おかわり」

 店員を呼ぶと、彼女は一瞬、嫌そうな顔をした。コーヒー一杯、いや、水のおかわりだけで長時間居座ろうとしている幸雄は、迷惑な客だ。自覚しているので、「……ください」と付け足した。

 彼女が水を注ぎ、わざと音を立ててグラスを置いて立ち去ったところで、ようやく待ち人がやってきた。

 彼は煙を嫌い、ハンカチで鼻と口を覆っている。眼鏡が曇っているのが、滑稽だった。

「よぉ。悪いな。呼び出して」

 遅れたのは相手だったが、まずは幸雄が自分から謝った。だが、彼は恐縮する素振りも見せなかった。

 ツンと澄ました顔で、康之は向かいの席に座り、メニューも見ずにブレンドを頼んだ。

「で、何、話って」

 僕も疲れてるんだから、実のない話はしたくないんだよ。

 眼鏡を拭きながら、康之は挨拶抜きに本題に入った。

 疲れてる。そう言う割には、彼の着用しているスーツは皺ひとつなく、ワイシャツの襟や袖も黄ばんでいない。

 幸雄は思わず、自分の服装を見下ろした。Tシャツの襟首はだらしなく緩み切っていて、間抜けな顔の名もなき犬のキャラクターが、笑っている。

 膝に穴の空いたジーパンは、ダメージデニムだのヴィンテージだのと粋がっているけれど、その実、擦り切れただけの年代物だ。

「なぁ。DNA鑑定、受けてみねぇか?」

 唐突な幸雄の申し出に、本当に疲弊していたらしい康之は、口をぽっかりと開けた。

 康之の反応が遅れたのをいいことに、幸雄は捲し立てる。

「昔はさ、子供のうちだけだろって思ってたけど。大人になってもこんだけ似てるって、やっぱ、おかしくね? 俺とお前って腹違いのキョーダイって奴なんじゃねえかと思ってさぁ。お前のコネで、ちょちょいとどうにか安くできない?」

 それは、元々は、あれこれ考えてしまう気弱な性質タチであった康之が言い出したことだった。

『僕たち本当に、血は繋がってないのかな』

 と。

 幸雄は鼻で笑って言ってやった。

『よく考えてみろよ、お前。俺とお前が血ぃ繋がってるってことは、母ちゃんが、お前の実の父ちゃんを裏切ったってことになるじゃねぇか』

 康之は少しの間考えて、首を横に振った。

『絶対、ない!』

 康之の実の父親は、病気で死んだ。足繁く病院に通う母の姿を傍で見ていた康之は、母が浮気をしたとは、信じがたい。

 幸雄の側は、母親の浮気が原因で離婚した。父は、「頭が固い」と、元妻に罵られるような生真面目な男で、こちらも浮気というのは考えにくい。

『血が繋がっていてもいなくても、俺とお前は兄弟だろ!』

 そう言って、頼りない手をぎゅっと握りしめた。

 ほっとした笑顔を浮かべて、嬉しそうにしていた少年は、今や幸雄の前では決して、笑顔を浮かべることはない。

 幸雄がにやにやしながら食い下がると、康之は、むっつりと結んでいた唇を、少しだけ開いて、そこから長い長い溜息を吐き出す。

「……金もどうせ、立て替えておけっていうんだろ」
「さっすが康之お兄ちゃん。話が早い」
「誰がお兄ちゃんだ」

 冷たい目で康之は一瞥するが、幸雄はただひたすら、へらへらと笑う。

 ついに耐えきれなくなったのか、康之は伝票を手に、席を立った。俺の分も払ってくれるのか、ラッキー。幸雄はそう思う。

「あ、そうだそうだ。母ちゃんが、いつ家に帰ってくるんだーって言ってたぞ」

 ふん、と康之は鼻を不満げに鳴らした。

「幸雄が家にいる限り、帰らないって言ってるだろ」

 目が充血し、潤んでいるのは、慣れない煙草の煙に晒されたせいだろう。まさか憎しみのせいだなんて、怖いことはあるまい。

 康之がいなくなってから、幸雄は新しい煙草に火をつけた。会って話すのがストレスになるのは、お互い様だった。

 それから電話を取り出して、その場で通話をする。

 隣の女性客が、じとっとした目つきで睨んできたが、康之の視線に比べれば、どうということはない。

「あ? ユメコ? そう、俺俺。今日アパート行ってもいい?」

 義兄は医大を卒業した研修医、そして義弟の自分は、しがないフリーターの実家暮らし。

 康之と顔を合わせる度に傷つく自尊心を回復させる方法を、幸雄は一つしか知らない。

※※※

「なんでユメコなのよ。たまには昔みたいに、ちゃんとマイって呼んでよ」

 食後、膝枕をしてもらってテレビを見ている幸雄の頭上から、拗ねた声が降ってくる。くるくると髪の毛にじゃれつかれて、くすぐったい。

「バカ。康之に、まだ俺らが切れてないってばれたらやべえだろ」

「でもぉ……それにしても、なんでユメコ?」

 出会ったのは高校時代。あの頃から、恋に恋する夢見るユメコだった。

 幸雄は腹筋を使って起き上がり、ユメコの唇を塞いだ。項を指でタッチして、首筋をなぞる。

「ユメコ、いいだろ。可愛いじゃん?」
「んん……幸雄がいいなら、それでいいけどぉ」

 髪の毛に口づけて、そのまま腰を抱く。

 セーラー服を着ていた時代は、ゴボウのような女だったが、今は豊満な肉体にエロスを漂わせるようになった。

(こんな女にしたのは、俺だ。康之じゃない)

「……ね、しよ」
「いいけど、ピル飲んだのか?」
「大丈夫。安全日安全日」

 蕩ける笑顔で股間に手を伸ばしてくるユメコを、幸雄は止めなかった。

 安全日なら、いいだろう。消耗品のコンドームを買う金も勿体ないし、何よりもユメコは、ゴムなしでするのが好きだ。

 ベッドに行くのも面倒で、その場で押し倒した。水風船のように柔らかな乳房を揉みながら、幸雄は傷だらけになった自分のプライドが、癒されていくのを感じる。

 元々は、ユメコ……マイが一目惚れしたのは康之の方だった。

 通学時に度々一緒の車両に乗る男子高校生に、少女が淡い恋心を抱くことは、ありふれたことだ。

 だが、運の悪いことに、康之と同じ学校には、そっくりな顔をした幸雄がいた。マイは幸雄の存在を知らなかった。

 意を決して告白をしようとした日に限って、康之は風邪を引いて学校を休んだ。その代わりに、普段はバイク通学の幸雄が、マシンの故障のせいで、駅に現れた。

 そのタイミングの悪さが、彼女の最大の不幸だった。今となっては、人生最大の幸運だった可能性もあるけれど。

『すすす、好きでしゅ!』

 駅で呼び止められて、いきなり見知らぬ女に告白をされた。さらにその女が、噛み噛みの状態だったので、幸雄の目は点になった。

『ごごご、ごめんなさい! いきなり、迷惑ですよね……』

 人前で、頬を染めて恥じらっている姿は、少女漫画のヒロイン気取りだ。

 幸雄は断る気でいたが、よくよく話を聞いていると、マイが本当に好きなのは、康之だということがわかった。

『電車の中で、あなたのことよく見かけてて……えっと、あたしのこと、見たことないですか?』

 一度もあるわけがなかったが、幸雄は「確かに……見覚えはあるなあ」と返した。

 幸雄はマイを利用することにした。

 幸雄が優位に立っていたのは、小学校までだった。勉強なんてしなくても、小学校のテストは満点を取れるのが当たり前だったし、身体も大きい幸雄は、体育の授業でも活躍した。

 対して康之は、身体が小さくて、気が弱かった。幸雄の後ろをついてくるのが常で、一人では何もできなかった。

 中学に入り、それが逆転する。幸雄はそれまで努力した経験がないから、難しくなった勉強についていけなくなった。

 康之は、コツコツ努力をすることを苦としないタイプだったので、徐々に成績が伸びていった。

 焦りがあった。誕生日は遅いが、幸雄は自分の方が立場が強く、兄という気持ちでいた。

 だが、高校に入学する頃には、康之に勝てるのは、調子のよさくらいになった。無論、自慢できるようなことではない。

『いいよ。俺は康之。あんた……君は?』

 幸雄と名乗らず、康之を騙ったのは、溜飲を下げるためだった。目の前の女を、康之から奪うというシチュエーションに、ぞくぞくした。

 康之は女にモテる。幸雄の倍はモテる。一人や二人、幸雄が奪ったって、かまわないだろう。

 そんな些細な気持ちで、幸雄はマイと、康之として付き合うことになった。

 あのときは、自分が。そして今は、マイの方が偽名で付き合いを続けているのだから、笑ってしまう。

 挿入し、果てるときには念のため、外に出す。それが不満なのか、「ねぇねぇ」とユメコは抱きつき、ねだってくる。

「もう一回しようよぉ」

 甘えた声が誘惑してくるが、それよりも睡魔の方が強い。

「中に出していいからさぁ」
「……お前、本当に安全日だろうな?」
「大丈夫大丈夫。どうせ生理不順だし」

 その言葉に、高校時代も乗せられた。

 マイの両親が家に怒鳴り込んできたのは、高校二年のときだったか。血相を変えて康之を呼べと言い、姿を現した彼の頬を、マイの父は思い切り殴った。

 訳がわからないという顔で、突然の暴力に怯えた康之は、「うちの娘を妊娠させておいて、その面はなんだ!」と怒鳴られて、呆然とした。

 当時、康之は童貞だった。身に覚えのない嫌疑をかけられて、彼はうろたえた。

 その後、マイと対面した康之は、「彼女のことなど知らない」と発言して、再び殴られる羽目になった。

『康之! ちゃんと責任取らなきゃ……!』

 ヒステリックに叫んでいた母に、「でも僕は、本当に、身に覚えがないんだ!」と康之は何度も何度も弁明する。そこでようやく、両親は気がついて、幸雄を呼び出した。

『あなたが付き合っていたのは、こちらでは?』

 じっと幸雄の顔を見つめ、はい、とマイは頷いた。

 あーあ。バレちまったのか。

 幸雄はマイに、自分の本当の名前を明かした。彼女は少しだけ、ショックを受けたのか、沈黙していた。

 もうすでに、彼女の父親は殴ったり怒鳴ったりする気力を失っていたので、幸雄は無傷だった。

 結局、息子が彼女を妊娠させたことには変わらず、両親は相手の親に土下座をする勢いで、謝罪をした。幸雄も頭を押さえつけられた。

 この事件をきっかけに、康之の態度は硬化した。それまでは、どんなに馬鹿なことをしていても、幸雄のことを兄弟として認めていた。

『幸雄がそんなことをするような男だとは、思わなかった。彼女が可哀想だ』

 一ミリも面識のないマイに同情する康之に、イライラした。思わず、可哀想なもんか、と反論した。

『お前じゃ、あいつを満足させてやれねぇだろ。童貞だもんな』

 頬に痛みが走った。殴り返そうとは思わなかった。

 ただ、この男も暴力に訴えることしかできなくなる、渦巻く感情のマグマを抱えているのだということを知って、驚いた。

『……幸雄は、責任を取るつもりがあるのか?』
『責任?』

 幸雄は首を傾げる。責任も何も、高校生が産むわけがない。中絶費用なら、両親が出すと約束した。

『お前が取らないなら、僕が取る』

 そして康之は、マイの家に日参して、頭を下げた。幸雄の考えなしの行為を謝罪し、「マイさんの心と身体を傷つけた責任は、僕が取ります」と繰り返した。

 マイの両親は、最初は怒り、それから戸惑った。弟のやらかしたこととはいえ、兄の君がそこまでする必要はないだろう、と。

 やがて、その熱意が本物だとわかると、彼らはマイのことを康之に委ねた。

 それ以来、康之は浮気をすることもなく、別れを切り出すこともなく、今日までマイと付き合ってきた。

 夢うつつの状態の幸雄の身体を、マイ……ユメコは弄り倒す。

 康之と付き合うようになったマイだったが、彼女はすぐに、幸雄の元に舞い戻ってきた。

『康之くんって、お堅いのよ。二十歳になるまでエッチしないんだって』

 唇を尖らせたマイの肉体は、幸雄に仕込まれて、淫らに育っていた。

 マイが一年以上も待てるはずがなかったし、二十歳になり、ようやく結ばれても、その行為は彼女の満足のいくものではなかった。

『康之くんって、優しいだけなのよね』

 マイは鼻で笑い、幸雄とのセックスに溺れた。

 康之には決して悟られてはいけない。だから幸雄とセックスしているのは、マイではなく、ユメコでなければならない。

 ユメコが、マイとして康之と別れないのは、彼の将来性ゆえにだった。

 三流大学にしか進めなかった幸雄と、現役で医大に合格した康之と、結婚相手として選ぶなら、間違いなく後者だ。研修医の期間中は激務に薄給だろうが、それさえ我慢すれば、その後の生活は安泰だ。

 マイは結婚前提の付き合いを康之と続けながら、自分の欲望を満たすため、ユメコとして幸雄と身体の関係を持ち続けている。

 自分の上で身体をくねらせるユメコの中に、射精した。精子が彼女の子宮の中に送り込まれる。

 中絶すると、その後の妊娠が難しくなるという。ユメコはその話を鵜呑みにしている。

 また子供ができたとして、今度は殴られることはないだろう。その子は康之との間の、祝福されるべき子だ。

 幸雄は信じていた。

※※※

「知り合いが法医に進んだから、DNA検出の練習ついでに頼んだ」

 康之はそう言って、鑑定キットを寄越した。幸雄は綿棒を口の中に突っ込んで、粘膜を剥ぎ取る。鏡を覗き込み、康之もこんな風に間抜けな顔をして、綿棒を突っ込んだのだろうかと思うと、喉の奥が震えた。

 練習用にぜひと乞われ、毛根付きの髪の毛も小さなポリ袋に入れて、康之に渡した。無言で受け取った彼は、幸雄とは関わりたくないと背を向けた。

 三週間の間、幸雄はどこか、落ち着かなかった。コンビニでのアルバイトの最中も、上の空の接客になってしまって、とうとう客に怒鳴られた。

 平謝りする店長は、あの日の両親の姿に重なる。そんなにペコペコする必要もないのに。きっとこのおっさん、虫の居所が悪かっただけだ。

 クレームを受けている間、幸雄は冷たい視線に晒されていた。同じアルバイトの主婦は、レジに一人にされて殺気立っていたし、待たされる客の列もピリピリしていた。

 一通り怒鳴り散らすと、気が済んだのか、年配の男性客は店を出て行った。

「あざーしたー」

 背中に声をかけると、店長に尻を叩かれた。ちゃんと挨拶をしろというのだろう。一応軽く、頭を下げておいた。

「もう、レジ戻って」
「へい」

 後でまた、説教なんだろうな、と幸雄は思った。面白くない。

 アルバイトを面白いと思ったことは一度もないが、今日は一層、その思いが強くなる。

 俺だって、いい大学に進んで、一流企業に入社して、デスクワークをバリバリこなしていたかもしれない。そう、運さえよければ、そんな未来もあったに違いないのだ。

「三浦くん、ちょっと」

 仕事が終わって、タイムカードを切る。それから着替えて、今日は憂さ晴らしに飲みに行こうか、と考えていた幸雄を、店長が呼び止めた。

 にやにや笑いと、それにそぐわない下がった眉毛。言いにくいことを言い出さなければならないというのが、その表情から読める。

 今までの経験上、「あ、クビだな」とすぐにわかった。最初のうちは猫を被っていても、次第に幸雄は厄介者として扱われ、最後には辞職を促される。

 ここのコンビニでの勤務は、それでも続いた方だった。だからこそ、店長の顔は渋く、残念だとありありと書いてある。

「三浦くんね、お客さんとのトラブル、多いじゃない? でね、うちみたいな住宅街のコンビニのお客さんって、地元の人ばっかりなんだ……だから、その」
「こういう店員は困るってことですよね。わかりました。辞めます」

 あっさりと見切りをつけることにも、慣れてしまった。幸雄はあからさまにほっとしている店長に、「今まで世話になりました」と淡々と告げた。

 新しいバイト探しを始めるのは、DNA鑑定の結果が出てからにしよう。それまでは幸雄は、家でだらだらと過ごした。

 決まった時間に出かけなくなった幸雄を見て、両親は、またバイトを辞めたのだとすぐに察した。

 父は呆れを隠さずに、幸雄とは一切喋らなかった。なさぬ仲の母の方は、逆に心配して、あれこれと世話を焼いた。

「幸ちゃん、新しいお仕事は探さなくて大丈夫なの?」

 寝転んで、漫画雑誌をぺらぺらと捲っている幸雄に、母が声をかけてくる。

 大病を患った夫を看取った後、母は一人息子の世話に集中した。再婚してからは、その対象が三人に増えた。

 やがて、子供は成長する。康之が立派な大人になってしまった今、母の矛先は、いつまで経ってもふらふらしている義理の息子・幸雄に向けられている。

「んー。ちょっと休むわ」

 背後から、そわそわしているのが伝わってくる。

「どのくらい?」
「んー。あ、そうだ。俺、学校行って勉強しようかなって思ってんだよね。しほーしょしとか、ぎょーせーしょしとか? そういうの」

 母は歓声を上げた。学生という身分なら、幸雄の世話を焼くのも当たり前。父に文句を言われる筋合いはないとでも、思っているのだろう。

 自分もたいがいだが、母のせいも多分にある。

「予備校に入るってことよね? じゃあお金もいるでしょ?」

 いつの間にか部屋を出て行っていた母が戻ってきて、幸雄に封筒を渡した。厚みから、中身が二枚や三枚ではないことを知る。

 まさか小遣いをもらえるとは思っていなかったので、幸雄は驚いた。

「ありがとう、母さん」
「頑張ってね」

 母は、うふふと笑った。

 あまりにも嬉しそうだったので、本当に学校の類に通うのも、ありかもしれないと幸雄は思った。

※※※

 そして三週間。

 待ち合わせは、幸雄が呼び出したのと同じ喫茶店だった。今回は、康之の方が先に来ており、禁煙席に座っていた。

 幸雄は胸ポケットの煙草の箱に触れた。あと、三本というところか。

 康之は、一刻も早く立ち去りたいという表情で、一枚の用紙を取り出し、単刀直入に告げた。

「ここにも書いてあるけど、僕と幸雄との間に、血の繋がりは、九九.九パーセント、ありえない」

 幸雄はがさりと音を立て、紙を手にした。康之の言ったとおり、幸雄たちの血縁関係は、完全に否定されていた。

 文字のひとつひとつを、指でなぞって確認しても、変わらない。

 兄弟では、ない。そう、最初からわかっていたはずなのに。

「これでわかっただろ、幸雄。お前は、僕とは違う人間なんだ。他人の空似なんだよ、所詮」

 それから、と席を立ちながら、康之は付け足した。

「マイが妊娠したから、籍を入れる。落ち着いたら式を挙げるけど、来ないでほしい」

 DNA鑑定の結果以上に、幸雄を動揺させた。マイが、ユメコが、妊娠? 誰の子供だ、それは。

 康之は、彼女の浮気を疑っていない。避妊はしていたが、百パーセントではないし……とでも考えているのだろう。

 呆然としている幸雄のスマートフォンが、メッセージの着信を告げた。のろのろと確認をすると、ユメコからだった。

『妊娠しちゃった』

 文字からは感情が読めないが、付け足されたスタンプは、無邪気に舌を出している。ユメコに似ていると思った。

『だから、康之くんと結婚するね。幸雄がパパじゃ、この子がかわいそうだし』

 じゃあね。

 今度はスタンプなしだった。既読マークがついたことを確認してからだろう、すぐにユメコは、幸雄をブロックした。康之との幸せな未来のために、幸雄は邪魔だ。

 結局、夢を見ていたのは、ユメコではなく、幸雄の方だった。

 もしも、康之と血が繋がっているのならば、もっと明るい未来が切り開けるような気がした。

 康之に出来たことを、自分が出来ないなんてこと、あるはずがない。

 マイよりもイイ女と付き合って、金にも困らない、薔薇色の人生。

 でも、すべては幸雄の夢想に過ぎなかった。

 幸雄は康之のようには、なれない。なれるはずもない。

 煙草がすいたいと思った。胸に巣食う虚無感は、物では埋まらない。それでも、手っ取り早く、ごまかすためには、今は煙草しかなかった。

 上手く動かない手で、胸ポケットを探った。潰れかけた箱の中から、煙草を一本取り出し、火をつける。

「お客様、こちら禁煙席ですので……」

 ガツン、と先ほどまで康之が座っていた椅子を蹴り飛ばした。注意をしに来た店員が、固まり、怯える。

 その姿を鼻で笑い飛ばし、幸雄は席を立った。今日は、康之は支払ってくれなかった。レジで金を払い、店を出る。

 ふと、先日母から臨時収入を得たことを思い出した。幸雄は同類の友人に電話をかけた。

「あ、俺俺。暇? うん。金入ったから、ぱーっと飲みに行こうぜ」

 空がオレンジ色に染まっている。いい天気だった。小学生の女子が二人、手を繋いで歩いていた。先月見かけたのと、同じ子供かどうかはわからなかったが、彼女たちの顔立ちは、どことなく似通っていた。

 だが、自分たちの方がよく似ている。

 マイの腹から生まれてくる子供も、他人の空似であるように。

 幸雄はそう呟いて、煙を吐き出した。

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