<<はじめから読む!
<4話
勝弘が白坂家に家庭教師をしに行くことになったのも、岩田がきっかけだった。
当時彼が付き合っていた彼女が、家庭教師を一日でクビになった。
『最低よ、あのガキ!』
と喚く恋人を慰めるのに忙しかった岩田は、勝弘に「お前、代わりに行く気ない?」と軽く言った。
家庭教師を辞めさせられたのは、彼女だけではなかった。直樹の家庭教師は、コロコロと変わった。そのせいで、家庭教師の斡旋業者もお手上げ状態であった。当然、いい結果に結びつくことはない。
ちょうどアルバイトを探しているところだった勝弘は、岩田が彼女から聞き出した白坂家の電話番号に、直接連絡を取り、面接を経て採用された。
白坂の家は、都内でも有数の高級住宅街の一角に立っていた。
どの家も塀が高く、庭は端正に整えられ、初夏の花々が咲き乱れている。
物干し竿すらなんだか洒落た雰囲気を醸し出していて、勝弘は呼び鈴を鳴らす段階で、すでに緊張していた。
白坂家は、その中でも、特に立派な邸宅だった。
個人経営の総合病院の院長という立場である直樹の父は忙しく、勝弘の面接も、病院で行われた。
そのため、家庭教師初日の今日、初めて自宅に足を踏み入れることになった。
塀からちらっと覗いた庭には、陶器製の大型犬の置物が見えた。本物と見まごうばかりの精巧さで、勝弘はぎょっとした。
薔薇の花の香りに鼻をひくひくさせると、大きなくしゃみが出て、思わず辺りをきょろきょろと見回した。
完全に、挙動不審である。
「はい、どなた?」
上品な女性の声に、勝弘は慌てて取り繕う。
「家庭教師に参りました、井岡と申しますが」
自動でロックが解除されるのかと思いきや、女性が自分で出迎えに来てくれた。
朗らかで、それでいて年相応の落ち着きを持った直樹の母に、大病院の院長夫人と聞いて、勝手に高飛車な人物を想像していた勝弘は、ドラマの見すぎだと反省した。
通されたリビングは、実家の何倍も広かった。座るように促されたソファも、座り心地がよく、素人でもこれらの調度品がいいものだということがわかる。
各所に花が飾られており、シックな家具とは対照的な色彩で、目にも鮮やかだった。
「どうぞ。直樹ももうすぐ帰ってくると思うから、お待ちくださいね」
出された紅茶に、勝弘はおそるおそる口をつけた。
普段飲む機会があるのは、ティーバッグの安物、せいぜい喫茶店でワンコインで飲めるものだ。それとは全然違う匂いがする。
一口飲んだところで驚愕に固まった勝弘を、直樹の母は、「お口に合わなかったかしら」と不安そうに見つめていた。
彼女の曇った顔は見たくない。
「あ、いえいえ。こんな高い紅茶飲んだことなくて。すごくおいしいです! えっと、語彙力不足ですいません」
「あら。おいしいっていう素直な気持ちが一番ですよ」
勝弘は口角を上げ、快活な表情を自然と浮かべていた。直樹の母はよく笑った。笑顔には笑顔で返したくなる。
こんな素敵な女性の息子なのだから、生徒になる直樹も、本当はいい子なのだろう。家庭教師が長続きしないというのも、何か理由があると信じたい。
息子のことを聞いておこうと思って口を開きかけたとき、扉が開く音がした。
「ただいま」
軽い足音とともに、少年がリビングに姿を現した。
「おかえりなさい」
ふおお、と声を出しそうになった。顔を見せた直樹は、感動するほどの美貌の持ち主であった。
先日公開になった映画の主人公を演じた、アイドル俳優に似ている。いや、彼よりも目の前の少年の方が、より現実離れした、おとぎ話の王子様のようだった。
目はきれいな二重をくっきりと刻まれ、すっと鼻筋が通っている。まごうことなき美少年だ。
「こちら、新しい家庭教師の井岡先生。今度こそ、ちゃんと教えてもらってね」
母親の紹介に、勝弘は慌てて立ち上がって会釈をした。
「井岡勝弘です。よろしく」
にこやかな母親に対して、息子はとても、不愛想だった。ちらりと勝弘のことを一瞥するが、微笑みすらせず、無言で直樹はスタスタと自室に向かう。
「ちょっと! ……ごめんなさいね。愛想のない子で」
「いいえ。中学生男子なんて、みんなあんな感じですよ。僕だって、反抗期はそうでした」
口ではそう言うが、内心ではどうしたものかと悩んだ。
とにかく話をしてみよう。母親に会釈をしてから、勝弘は少年の後を追った。彼の自室前に辿り着き、ノックをする。しばらく待つが、反応がない。
埒が明かないので、「開けるよ」と一声かけ、勝手に開けた。
直樹は制服から、楽な部屋着に着替えるところだったらしい。ブレザーを脱いだ少年の肩は薄く、全体的に華奢だった。
直樹は勝弘を無視して、そのままシャツを脱いでいく。
自分でも何故かわからないほど、勝弘は動揺していた。目が離せない。
肩甲骨がくっきりと浮き出ているその姿は、天使が翼をもがれて堕ちてきたようだ。無表情も人間味が消え去っていて、雰囲気を創り上げるのに一役買っている。
白く透き通る肌に、触れて確かめてみたい。どんな質感だろう。
「何見てんだよ」
ギロリと睨まれて、勝弘は、はたと正気に戻った。彼は彫像ではなく、生きた人間だ。半裸をじっと見つめられれば、その意図が気になるだろう。
「あ、ごめんごめん。君の肌を再現するなら、どんな素材を使えばいいかなって考えてた」
馬鹿正直に言ってしまってから、理系丸出しの気持ち悪い思考だということに気がついた。
案の定、直樹は変な生き物を見るような目を向けている。
「あ~、と。人形の素材って、ソフビとかあれこれあるんだけど、生身の人間にしかこの色や肌ざわりは、出せないんだろうなあって」
説明をすればするほど、墓穴を掘っている気がする。だが、何かがツボだったらしく、直樹の口から控えめな笑い声が漏れた。
「変な人」
きれいな人は怒ってもきれいだというが、やはり笑顔が一番きれいだと、勝弘は実感した。
そして、もっと彼の笑顔が見たいと思った。
>6話
コメント