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<9話
部下に指示を飛ばしながら、海老沢は自分の作業を進めていく。パソコンの画面と向き合い、会議資料をまとめる。
いつもよりも集中できている。だが、前髪がはらりと落ちて額に触れる度に、キーボードの音が止まる。髪の刺激が、先日のキスを思い起こさせる。
あの日以降、海老沢はキャンディーの魔法を使っていなかった。口づけに浮かれていたが、家に帰ってよく考えたら、恐ろしくなったのだ。
もしも。もしもの話だが、優が本当に海老沢のことを好きになってくれたのだとして。
彼が愛しいと思った相手は、二十歳のエビくんだ。三十八歳のエビさんではない。
自分は彼を騙している。忘れていたわけではない。目を逸らし続けていた。罪悪感がほとんどわかなかったのは、決して優が応えてくれるはずがないと思っていたからだった。
見ているだけで幸せ。虚勢でもなんでもなく、言い切ることができた。
振り向いてくれたのなら、嬉しい。でも、彼は本当の自分を知らない。合わせる顔がないというのは、まさにこのことだ。
スマートフォンには何度も、優からの連絡が入っている。通知に流れる文面だけ読んで、トーク画面には入らず、既読すらつけない。
『驚かせてごめん』『返信して』『店で待ってる』
核心をつく言葉――好きだとか、愛してるだとか、そういう言葉はない。
直接会ったときに言いたい、ということだろうか。それとも、海老沢の勝手な勘違いなのだろうか。
「そういえば海老沢さん、ジム行くのやめたんですか?」
優と同じ年だが、彼ほど気が利くわけではない部下が、仕事が一段落したところでの雑談を投げかけてきた。
ジムへ行くと言い訳をしていた大荷物を、急に持ち込まなくなったせいだろう。海老沢はドキっとしたが、平静を装って、「二十四時間のジムにしたんだ」と応え、また一つ嘘を上塗りした。
大人は嘘つきだ、とはよく言ったものだ。自己嫌悪を抱える海老沢に気づきもせず、青年は相槌を打った。
「ジム通い始めてから、海老沢さんが頼もしくなったって、みんな言ってるんですよ」
「へぇ。それは……前は頼りなかったってことかな?」
言葉の綾を咎めると、部下は慌てて首を横に振った。冗談だ。海老沢は苦笑いする。
「頼もしいっていうか、俺らのこと信頼してくれてるっていうか……とにかく、今の海老沢さんと仕事するの、俺は好きっすよ」
誰かを引っ張っていく強さは海老沢には皆無だった。リーダーには向いていない。いつだって、自分ひとりで仕事を抱えて、唸り声をあげていた。
優に会う時間を作るために、海老沢は仕事を部下たちに多く割り振るように変えた。突然降ってわいた追加の作業を、彼らは文句を言うでもなく、楽しそうに受け取っていた。
「そうか。ありがとう」
どうせ僕なんか、が口癖だった。三十八歳のおじさんだし、年下しか好きになれないゲイだし。一番仕事ができるわけでもないのに、リーダーだなんて無理だ。
でも、優は自分を認めてくれる。どんなに手際が悪かろうと、仕事を任せてくれるし、終わるまで待っていてくれる。そしてできたら、「ありがとう。助かったよ」と必ず労いの言葉をくれる。
海老沢は、優に自然と感化されたのだろう。部下を信頼し、その思いに彼らは応えてくれるようになった。
こうして雑談をするようにもなったし。
「俺もジムに行こうかと思うんですけど、紹介特典ってあったりします?」
しまった。深いところまで突っ込んでくるんじゃない。海老沢は話を打ち切るべく、「ごめん。電話だ」と、スマートフォンに着信が来たフリをして、席を外した。
>11話
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