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<4話
元はバーとして営業していた店舗は、「ステラ」より少し広い。カウンター席は六席。テーブル席の用意もある。カジュアルな雰囲気で、一見の客も入りやすく、それでいて大人の社交場であるバーの空気感を壊さないように工夫がなされている。
テーブル席に海老沢は座らされ、冷たいおしぼりを手渡される。熱中症だと思われたようだ。
「スポーツドリンクは、あいにく用意していなくて」
注がれた水を一気に飲み干すと、優は目を丸くしながらも、黙ってもう一杯用意してくれる。
「あの、ありがとうございました」
眩暈も治まってくると、恥ずかしさが勝る。居住まいを直した海老沢の向かいの席に、買い出した品を冷蔵庫に入れ終えた彼が座る。
「これも何かの縁だから」
店で会っていたときと違い、敬語は抜けている。同世代や年下相手の対応だ。自分が若返ったと思ったのは、気のせいじゃない。海老沢はホッとして、はたと気づく。
バーテンダーとして勤務していた「ステラ」とは違い、今の彼は私服だ。襟もついていないサマーニット。完全なるプライベートの格好。海老沢はストーカーではないので、勤務終わりを待ち伏せる、という趣味はない。よって、彼のオフの姿は初めてだった。
途端に緊張して、海老沢は青年を直視できなくなり、視線を動かして店内を一周、見回した。
「えっと、ここは喫茶店、なんですよね?」
沈黙は居心地が悪い。何か話さなくては、と考えた結果、馬鹿げた確認をしてしまった。反省モードの海老沢の心の内をよそに、彼は微笑み、頷きを返す。
「そう。バーの雰囲気は好きだけど、アルコールはちょっと、っていう人向けの喫茶店。だからオープンは夜なんだ」
店のコンセプトはすでに知っているが、「ステキですね」と言い、視線をあちこちに向けて、初耳であったかのように振る舞う。
「ありがとう。今度はぜひ、店が開いているときに、お客さんとして来てくれたら嬉しいな」
テーブルを挟んだ距離なのに、彼の声は耳元で囁かれていると錯覚する。甘く掠れた声は、海老沢の恋心を刺激する。「ステラ」でも聞き上手だった。隠していた「好き」という気持ちを喋ってしまいそうになったのは、一度や二度じゃない。
本当に、いいのか? せっかく若返りの秘薬を手に入れたのに、「ステラ」のときと同じ、店の人間と客の関係で。常連にはなれるだろうが、その先はない。三十八歳のおじさんのままでも、十分だ。
もっと近い関係になりたい。カウンターの中と外ではなく、隣に立ちたい。外向けの営業スマイルじゃなくて、もっと砕けた笑顔を見てみたい。
スマートフォンのアラームが警告を発した。あと十五分で、魔法は解けてしまう。うるさい電子音が、海老沢の背を押した。
「あの、僕をここで働かせてもらえませんか?」
考えるそばから、言葉にしていく。将来、喫茶店をやりたい。この店の雰囲気に惹かれたから、弟子にしてほしい。
早口になる海老沢とは対照的に、彼は黙り込んだ。硬い表情は、困り顔にも見える。
「迷惑、ですか?」
「迷惑というか……うーん」
曰く、夜遅くまで営業する店だから、未成年を雇うことはできない。どんなメニューを出すのかもわかっていないのに、弟子になりたいと言い出す理由がわからない……もっともなことである。
「年は二十歳だし、他に仕事もしているので、無給のボランティアで構いません」
本当に若い頃だって、ここまで無謀なことは言い出さなかった。魔法のキャンディーに、性格を変える効果はまさかないだろうが、勇気を手にした海老沢は、必死だった。
「お願いします!」
何度も頭を下げる海老沢の熱意に根負けして、彼は「そこまで言うのなら……」と受け入れた。
そのときすでに、効力切れまであと五分となっていた。最終通告のアラーム音を止めた海老沢は、慌ただしく立ち上がった。
「ありがとうございます! 今日はもう帰らなければならないので、明日……と明後日は定休日か、えっと、火曜日! 火曜日にまた伺います!」
一方的に宣言して、店から逃げ出す。できる限り離れた場所で、元の姿に戻らなければならない。そう考えて走っていたが、若返っていたのは見た目だけだった。
「はぁ、はぁ……あっ!」
肩で息をしながら、元の年齢に戻った海老沢は、彼の本名を聞くのを忘れたことに、ようやく気がついたのだった。
>6話
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