偽りの魔法は愛にとける(7)

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6話

「つ、疲れた……」

 どうしても残業をしなければならなくなった一日を、海老沢は憂鬱に過ごした。本当ならば今日は、店を手伝いに行こうと思っていたのに。すでに開店時間は過ぎてしまっている。

 昼の間に今日の残業はわかりきっていたため、海老沢は優に「今日は行けなくなりました」とメッセージを送っていた。そう、海老沢は彼の連絡先をゲットしたのである!

 ダウンロードだけしてまったく使っていなかったトークアプリは、優との連絡専用になった。

 返信は「気にしないで」という文字入りの犬のスタンプ一つで返ってきて、海老沢のやさぐれた心はほんのりと癒された。可愛い。可愛すぎる。あんなにイケメンなのに、このスタンプのチョイスはずるい。

 仕事が終わってから、にやにやとトーク画面を眺め、ふと、自分も若作りのためにはこういうのを用意して、積極的に使うべきなのではないか、と思い当たった。早速いくつか可愛い動物のスタンプを購入した。

 自分で購入、使用しているのだから、優は動物のキャラが好きなのかもしれない。彼の思いがけない可愛い部分に、頬が緩んだ。

 パソコンの電源を落とすと、ぎゅるる、と腹が鳴った。誰もいないのに恥ずかしくなり、室内を見回してしまう。

 帰って食事の用意をするのは面倒だ。かといってコンビニ弁当も、気分ではない。優のご飯が食べたい。

 ドリンクの提供に終始していた「ステラ」のときとは違い、「街のふくろう」では日替わり定食として、軽食も出している。優は料理上手でもあった。賄い弁当の味を思い出して、海老沢は決意を胸に顔を上げた。

 今日は客として、店に行こう。「ステラ」を辞めるときに、「遊びに来ていただけたら、嬉しいです」と言われたのは、社交辞令かもしれない。でも、客は一人でも多い方がいいはず。

 開店準備を手伝ううちに、客層について世間話ついでに聞けたことも大きかった。若い女性客も多いが、それ以上に、中年男性が多い。伯父が経営していた時代からの常連もいれば、身体を壊して酒が飲めなくなった人間が、新たな社交場として来店し始めたケースもある。これなら素のままの自分が行っても、大丈夫だろう。

 営業中の店に入るのは初めてで、緊張したが、海老沢は逃げ出さなかった。そっと扉を開けると、すぐに優は気がついて、「いらっしゃいませ」と声をかけてくる。

 おや、という表情を一瞬浮かべたのには、ドキっとした。まさか、バレている? そんなわけない。面影はあるかもしれないけれど、ほとんどまったくの別人だ。

 海老沢がハラハラしていると、彼はカウンターからわざわざ出てきた。先程よりも深い笑みを唇に刻み込み、「ようこそ。……あの、『ステラ』のお客様、ですよね?」と囁いてくる。

 耳元に直接吹き込まれた声と、あまりの距離の近さに真っ赤になって、コクコクと頷くだけの人形になってしまった海老沢を、彼はカウンター席に案内した。

「ウーロン茶もありますが、どうしますか? コーヒーはノンカフェインのものもご用意ありますよ」

 大のコーヒー党である海老沢は、「ステラ」でもコーヒーを注文していた。それを覚えていてくれたことに、喜びが胸の内に広がっていく。

「じゃあ、そのコーヒーがいいです」

「かしこまりました」

 しかも海老沢を喜ばせたのは、それだけじゃなかった。

「あの、エビさん、でしたっけ?」

「え、な、なんで名前……」

 突然名前を呼ばれて、海老沢はうろたえる。優は「すいません急に」と頭を下げ、

「ママがよく、エビさんと呼んでいたから」

 と言う。確かにママとは親しく……いや、一方的にからかわれる形で話していたが、まさか名前を知ってもらえていたなんて。

 提供されたコーヒーは、いい香りがする。好きなだけで、さして詳しいわけではないが、「ステラ」で注文したときのインスタントとはまるで違う。肺いっぱいに香気を取り込んでから、一口飲む。苦味の奥に、ほのかな甘さが隠れている。砂糖も一緒に出されたが、これはブラックで飲むのが正解だろう。

「お気に召しましたか?」

「はい。とても美味しいです! あと、日替わり定食まだありますか?」

 ここで再び、ぐるる、と腹の虫が鳴いたが、聞こえたのは自分だけだったので、セーフ。優は頷いて、作り置いている食事を盛り付ける。

 カウンターの一番端の席は、優に気づかれることなく、じっと彼のことを見つめていられる特等席だ。「ステラ」でもだいたい海老沢は、端にちょこんと座っていたものだ。

 夜遅くまで営業している店なので、定食は重くならないように注意をしている。今日は和食だ。具沢山の肉団子汁がメインで、漬物と七分盛りの雑穀入りご飯がヘルシー志向である。

 日々手伝っているからこそ、優がポリシーをもって店を切り盛りしているかがわかる。大抵の客は、この店の後は家に帰って寝るだけだ。休息のひとときを心地よく過ごしてもらおうと、彼は勉強を欠かさない。

 鶏肉の団子の旨みが汁に広がり、野菜の甘さと調和する。箸休めにきゅうりの糠漬けをつまむと、肩から力が抜けて、リラックスしていく。

 食事中も、優から目が離せない。コーヒーは、注文を受けつけてから、豆を挽く。ハンドミルを操作して、一杯ずつ抽出していく指先すべてに神経が通っている。丁寧な作業に思わず見惚れ、溜息をついた。

「前の店にいたときよりも、いきいきして見えますね」

 下膳のタイミングでハーブティーを注文し、海老沢は言った。「ステラ」では寡黙な仕事人というイメージだったが、ここでは彼がマスターだ。話をしたい客に応じるのもすべて、優がこなさなければならない。

「そう言ってくださると、嬉しいです」

 にっこり笑顔を向けた優だが、次の客がやっていたので、そちらに気を取られる。いらっしゃいませ、の声にかぶさったのは、女性の声だ。

「マスターぁ。お酒ちょうだーい」

 キンキンと耳障りな高い声は、すでに酒に酔っている。優が穏やかな口調で、「あいにくですが、ここはお酒はありませんよ。ご存知でしょう?」とやんわり拒絶する。

 優の口ぶりからすると、彼女の来店は初めてではないようだ。女はカウンターのど真ん中を陣取った。二十歳をいくつか過ぎた年頃だろう。いくら夏とはいえ、過度な露出をしている。ギャル、怖い。海老沢は女の方が見られず、下を向いた。

 酔い覚ましに冷水が出されると、彼女は一気に飲み干した。少し理性が戻ってきたのか、声のトーンを少し落とす。

「ねぇねぇ、店終わったら飲みにいこうよ」

「閉店作業も、明日の開店準備もあるので」

「いっつもそればっかり!」

 目の前で繰り広げられる攻防戦。どうにか優に勝ってほしい、とハラハラする。深夜に男女が二人きりで飲みに行って、最終的に行き着くのは……と考えると、恋するおじさんとしては、心苦しい。

 軍配は優に上がる。女の露骨なアピールをすべてスルーして、「いつも言ってますよね? 僕は若い女性には興味ないんです」と言い放ち、海老沢のハーブティーを持ってくる。

 彼は海老沢に向けて、「ねぇ?」と同意を得るように首を傾げる。うん、とも、ああ、とも言えない。どう反応するのが正解なのかわからない海老沢に、彼は微笑む。

「砂が落ちきったら、ティーバッグを取り出して召し上がってください」

 そう残して、彼は作業に戻っていく。

 海老沢は、細く長く、誰にも気づかれない溜息をついた。

 若い女性には興味がない、か。

 なら、アラフォーの男には、興味ありますか?

 戯言は胸の内に。若い子は若い子同士の方が、気楽でいいに決まっているのだ。たとえ年上好みだとしても、限度というものがある。一回りはさすがに、離れすぎだ。

 海老沢は、やはり客としてここに来るのはやめた方がいい、と結論した。優は誰が見ても格好良くて、モテるのだ。ナンパ目的の女性客に出くわすのは、もうこりごりだった。

8話

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