偽りの魔法は愛にとける(9)

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8話

「う……えぇぇ……」

 今食べたばかりの食べ物が、形を保ったまま喉を通り抜ける苦痛に、海老沢は倒れ込んだ。皿の上に全部吐き戻してしまう。まだエビフライが残っているのに。

「エビくん!」

 優は慌てて海老沢の背中を摩り、介抱する。

「ご、ごめんなさ、い」

 胃の中には他に何も入っていなかったので、残りは胃液が喉を焼くばかりだ。吐き気はするのに、出す物がない苦しみに喘ぎながら、海老沢は目の端から涙を流して謝罪する。

「喋らなくていいから! 大丈夫?」

「で、でも」

 嘔吐してしまった。ウィルス性の病気でないことは自分でよくわかっているのだが、優には判断がつかない。徹底して消毒するまでは店を開けられない。今日は休業しなければならない。

 肉体的な苦しみよりも、自分自身の情けなさに涙が止めどなく流れていく。うええ、と嗚咽する海老沢に、優は何も言わずに付き合ってくれた。

 吐き気が治まったところで、海老沢はテーブル席のソファに連れていかれた。ぐったりと背もたれに身体を預ける。自分の出した汚物を片付けたい気持ちはあれど、身体が動かない。

 優は手早くビニールの手袋を用意して、吐瀉物の後始末をした。「ステラ」ではまれなことではあったが、それでも酔客はやってくる。手慣れたものである。

 消毒液を撒いてから、優は海老沢に水を差しだした。口に含むと、普通の水ではない。生理食塩水というやつだ。少しずつ身体を慣らしながら、水分補給をする。

「もう吐き気はない?」

 時間をかけて一杯飲み切って、海老沢は頷いた。口の中はまだ痺れているが、何とか話すことはできる。

「本当、ごめんなさい……ぼ、僕のせいで、店が……」

 止まったはずの涙がまた落ちる。泣くな。謝るのならば、泣いてはいけない。本当の年齢は、三十八歳なのだから、ここは泣く場面じゃないことくらい、わかるだろう。

「気にしないで。調子が悪いときは、無理しちゃダメだ。それに、気づかずに食べるのを勧めた俺の方が悪い。エビくんが、俺の料理を食べてくれるのが嬉しくて」

 ごめん、と謝る優に、海老沢は首を横に振る。

 そもそも、年齢をごまかすために自分で墓穴を掘ったのだ。たった一言、「胃腸があまり強くないので」と言えばよかったのに。

 一つ嘘をつくと、さらに別の嘘を呼ぶ。その結果が、この醜態だ。

「ごめんなさい……」

 今日はもう、ここにいたくない。いたたまれない。ぐすぐすと鼻を鳴らしながらも立ち上がると、肩を引き寄せられ、止められた。

「本当に、大丈夫だから。辛いのは君の方でしょう? また、店に手伝いに来てね」

 もっと怒ってくれていいのに、軽蔑してくれていいのに。

「どうして、そんなに優しくしてくれるの?」

 どこまでも優しくしてくれる。でも、その理由がわからない。今の海老沢は、客ではない。押しかけでやってきた、下働きに過ぎない。

 優の真意を知りたくて、海老沢は彼の目を見つめる。身長差があるので、自然と見上げる形になる。

 視線は間近で絡み合って、目が離せない。真摯な瞳の輝きは、弱くて愚かな海老沢を包み込むような温かさに満ちている。

 不意に、優が唇に笑みを浮かべた。営業スマイルとはまた違う。その違いがわかるくらいには、自分は彼に近づくことができた。

 泣いたのと体調不良と、それからただただ目の前の好きな人の笑顔に心を持っていかれて、海老沢はただ、ぼんやりと彼の行動を見つめていた。

 ずい、と近づいてくる。ハリのある肌につい見惚れた。羨ましい。若いっていいな。若返ったときのためにスキンケアを始めたが、天然物には敵わない。

 何をしようとしているのかわかったのは、彼が実行してからのことだった。

「っ?」

 額に柔らかな感触。勘違いじゃないことを教えるように、ちゅ、と濡れた音がした。

 キスをされた。実感は時間差で襲ってきた。泣いた目元だけではなく、顔全部が熱を持ち、赤く染まる。

「あ、え、え……っと?」

 触れるだけの、唇でさえない場所への口づけ。子供を慰めるためのものによく似た。海老沢は小さな子供ではないから、このキスの意図はいったい?

「わからない?」

 わかりません。

 そう言ったら、次はどこに、何をされる?

 海老沢は、密かな期待に口を開こうとした。その矢先、

「!」

 ピピピピピ、と大音量でアラームが鳴る。ズボンのポケットに入れたスマートフォンが、制限時間が間近だと告げた。

「僕、帰らなきゃ……!」

 はっと我に返った海老沢は、カウンターの中に駆け寄って、荷物を回収する。

 扉の前で、一瞬振り返って、優を見つめる。何を言えばいいのかわからず、ただ会釈をして、外に出る。

 出来る限り、離れなければならない。疲弊した身体をふらふらさせながらも、海老沢はそっと店を後にする。

 十二時の鐘を聞いたときのシンデレラは、こんな気持ちだったのかもしれない。ガラスの靴はないが、魔法のキャンディーはある。

 落とし物をしないようにだけ気をつけて、海老沢は駅までの道のりを急いだ。

10話

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