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本格的な失恋に打ちひしがれても、朝はやってくる。仕事は待ってくれない。たとえ、まともに手をつけられなくても。
どんな顔をして士狼と仕事をすればいいのか、わからなかった。ぐるぐると脳内でこね回した結果、「そういえば避けられているんだった」という事実を思い出し、苦笑した。
どんな顔もこんな顔も、どうせ士狼は目を背ける。
メンタルがボロボロの状態で出勤した雪人は、始業時間になっても士狼が姿を現さないことに、しばらくしてから気がついた。
突然の有休らしいと知ったのは、昼休み、同僚女性たちの雑談を聞いたときだった。
「体調不良? 珍しいよね」
「ねー。前にインフルエンザで課内ほぼ全滅したときも、ひとりで出勤してたってくらいなのに」
確かに、士狼が体調を崩したのは見たことがない。ああ、超がつくほど健康体の士狼だから、今日の急な欠勤も、自分ではなく、妊娠中のつがいに、何かあったのかもしれない。
大切にしてもらえる彼が、うらやましい。どうしてもっと早く、士狼に出会えなかったのか。
「なに。春日井、具合悪そうじゃん」
喫煙室から戻ってきた先輩社員が、作業の手を頻繁に止めて溜息をつく雪人に、そう声をかけてきた。
言葉だけなら、体調不良の後輩を気にかける優しく気のつく先輩だが、そこにはからかう声色が滲んでいる。
「もしかして、ヤりすぎなんじゃねぇの? アルファの彼氏の腰大丈夫か?」
「おいおい、彼氏って決めつけんなよ。彼女かもしんねぇだろ」
「それって女にケツに突っ込まれるってことだろ? ゲロゲロ~」
好き勝手言う連中だ。自分だけじゃなく、同じくらい希少なアルファ女性に対しても差別的である。
いつもなら、うろたえてへらへらして、「そんなことないですよ」と言うところだが、今日はやけに癇に障った。
日に日にひどくなるセクハラを、士狼以外にも注意してくれる人が、ちらほら現れた。しかし、面と向かっての注意は、「男同士のノリだよ。なぁ、春日井?」と、ごまかされてしまう。
愛想笑いとともに「はい」とうなずいて、助けの手を拒んできたのは、自分自身だ。
「おい、聞いてんのかよ。お前の相手って男? 女?」
肩にかけられた手を、雪人は反射的に払っていた。そのままデスクをバン、と叩き、勢いで立ち上がる。
いらいらしていた。虫の居所が悪かった。士狼のことを考えたいのに、ごちゃごちゃとうるさい。寝不足も多分に関係していた。
普段なら絶対に出さない大声で、雪人は拒絶した。
「うるさい!」
叫び声によって、オフィスはしんと静まりかえった。おとなしく従順だった雪人の反撃に、周りは思考が追いつかない。
キッと今回直接攻撃してきた男を睨み上げる。それだけだと迫力不足だが、近づいていって、胸元に人差し指を突きつけて、怒りを伝える。
「いっつもいっつも! そんなにオメガに興味あるんですか?」
「そっ」
たじろぐ先輩に、反論の余地を与えない。
「仕事中にまで、性事情を尋ねてくるんですもんね。そちらこそ、欲求不満なんじゃありませんか?」
敵はひとりじゃない。課長を含めてぐるりと睨め回す。向こうは「そんなわけねぇだろ」「そうだ、俺らはただ……」と、ごちゃごちゃ言っているが、その表情から虚勢であることは、丸わかりだった。
「じゃあ、僕が誰とどんなセックスをするかが、先輩たちの仕事に関係あるんですか? どうぞ教えてください。納得できたら、いくらでも話しますよ」
仕事との関連など、一ミリもあるはずがない。取引先との世間話で、オメガの性事情を面白おかしく話したら、契約打ち切りになることまちがいなしだ。
いかにこの会社が、部署がおかしかったのか、雪人はようやく理解した。勢いまかせの行動によって、急に視界が明るくなり、何もかもが見えるようになった気がした。
セクハラ社員たちは、自分たちの庇護者である課長の顔色を、恐る恐るうかがっている。彼の出方を見て、次の行動を判断しようとしているが、課長はわなわなと拳を震わせるだけで、何も言わない。
ふぅ、と雪人は肩の力を抜いた。
最初から、こうすればよかった。
自分さえ我慢して、やりすごせばいい。他の女性社員たちが、直接標的にされるよりはマシだ。オメガとはいえ、自分は男なんだから……。
そう思っていたが、それは勘違いだった。
「コンプライアンス室に、報告します」
どのくらいの解決実績があるかは知らないが、一応この中小企業にも、コンプライアンス室が存在する。
「それでもダメなら、次はどこに訴えましょうか」
万が一にも負けるはずがない。
自信をみなぎらせ、じっと彼らをひとりひとり見据える。だが、最初に行動に移したのは、加害者たちではなかった。
「わ、私……春日井さんがどんなことをされていたか、証言できますっ」
「私もよ。こっちへのセクハラはなくなったけど、春日井くんひとりに背負わせて、無視して……ごめんなさい。罪滅ぼしさせてちょうだい」
人身御供に捧げてきた女性たち、それから同じように絡まれるのが嫌で無視を続けてきた、男性社員たち。彼らの援護射撃を受けて、ようやく加害者たちは、頭を下げた。
「す、すまなかった……その、男のオメガなんて初めて見たから」
言い訳すんな!
野次が飛ぶ。雪人を超えてやりとりが始まってしまい、もはや仕事どころではない。
こんな状態になっても、課長は何も言わなかった。謝罪もしない。怒鳴りもしない。
まあ、謝られたところで、もはや許す限界は過ぎているのだが。
雪人は最後に課長をひと睨みしてから、きびすを返した。そっと部屋を出て、そのままコンプライアンス室へと向かう。
途中、脱力して廊下の壁にもたれかかった。ずるずるとしゃがみ込み、頭を抱える。
今さらながら手が震えて、何度かぎゅっと握り直した。
「なんだ」
声に出すと、より一層、どうということはなかったのだと実感する。何もできない弱い男だと、うじうじしていた昨日までの自分が、馬鹿らしい。
「やれるんだ」
僕にも。
ずっと、士狼が励ましてくれていた。おとなしくて引っ込み思案で、会社の人間と上手くやれない欠陥人間の自分は、いつしか彼に依存していた。
でも、やれる。
士狼への恋心を封じても、生きていける。
なんだって、ひとりでできるのだ。
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