<<はじめから読む!
<(3)
ヒート明けの出勤日。
毎月恒例の課長や同僚たちからのからかいも気にならないほど、雪人はぼんやりしていた。
あの日、家にやってきた士狼とセックスした。前後不覚になるほど貫かれ、揺さぶられ、とにかく満たされた。
その後二日間は、士狼との一夜を思い出しながら、熱が落ち着くまで何度も何度も自慰行為に耽った。
(先輩、いや、士狼さん、すごくかっこよかったな……)
狙っている人間は多いが、ついぞ色っぽい噂話は聞かない。爽やかで穏やか、仕事のできる彼が、獣欲に支配されるまま、オメガの身体を貪り尽くすのだと知るのは、自分だけ。そんな優越感も相まって、ふわふわしていた。
仕事にも支障が出そうだったので、雪人は朝からマスクをしていた。そんなものでどうにかできるほど、ピンクのハッピーオーラは淡泊なものではなかったが。
幼なじみとセックスしていたときよりも、ヒート明けの身体の調子はいい。仕事もはかどるというものだ。士狼が褒めてくれた資料作成の精度をより高めようと躍起になっていると、あっという間に昼になった。
「春日井は自分で弁当とか作ったりしないのか? オメガなんだし」
とはしょっちゅう言われるセリフだが、ひとり暮らしの社会人男性らしく、料理は気が向いたときしかしない。
オメガだから家事が得意という言説は、いったいどこから来たのだろう。昔は専業主婦(夫)になるのが当たり前だったからか。
「外出てきます」
昼食はコンビニで調達してデスクで摂るのが習慣だった。立ち上がりオフィスを出ようとしたところで、「春日井」と呼び止められた。
三日前、耳たぶを囓るように吹き込まれたのと同じ声に、ぞわりとする。
発情もしていないし、ましてやここは会社だ。公の場所で感じてしまいそうになったのを隠し、雪人は振り返る。
「先輩」
「その……昼、一緒に行かないか?」
いつでも、誰に対してもはっきりとものを言うタイプの士狼にしては珍しく、歯切れの悪い誘い方だった。目も合わないし、絶えず手が動いていて、彼の焦りを表している。
雪人は了承し、コンビニまでの道のりを行く。最寄りの店に入ろうとしたが、士狼はずんずんと通り過ぎてしまう。開いた自動ドアと彼の背を交互に見て、雪人は追いかけた。
無言で歩く士狼には、話しかけづらい。ようやく彼が立ち止まったのは、とあるビルの裏手だった。人気がない日陰の中で、士狼は頭を下げる。
「会社には、俺があの店で働いていることを黙っていてくれないか?」
と。
もちろん、最初から報告するつもりはない。
風俗店で働いているからといって、彼の価値が下がるとは思わないが、会社の規則上、そうはいかない。雪人さえ黙っていれば、士狼はこれまでどおり、営業部のエースだ。
「あ、頭上げてください」
慌てた雪人の言葉に従い、顔を上げた彼は、じっとこちらの目を覗き込んでくる。
この瞳に射貫かれ、精を注がれたのは、たった三日前だ。身体にも頭にも、快楽は刻み込まれている。当然、今は彼の目に愛欲の熱はない。それでも、有無を言わさず引き込む力が宿っている。
士狼は、彼があの店で働いている理由を自分から明かした。
「実はあの店、親族が経営してて。俺は手伝ってるだけなんだ。給料もほとんどもらってないし。交通費くらいで」
「そうなんですね」
表情から、その親族というのが、彼にとって近しい大切な人間なのだということがわかる。
「ああいう店だから、ばれるとあれこれ言われてうるさいだろ。だから本当に、誰にも言わないでほしいんだ。なんでもするから」
なんでも、する?
両手を合わせた「お願い」ポーズとともに、最後に付け足された一言に、雪人は反応した。
本当に、なんでもいいのだろうか。
例えば、自分のパートナーになってほしい、だとか。
そこまで考えて、雪人は自分の愚かな欲望を打ち消した。
選ぶのはオメガじゃない、いつだってアルファだ。幼なじみが自分をパートナーにしてくれたのだって、雪人が男で、珍しかったから。自分から頼んでいたら、スムーズに了承されたかどうか。
彼が自分を抱いてくれたのは、たまたまタイミングが合っただけだ。
士狼に彼にパートナーになってもらえればこの上なく幸福だろうが、風俗店の手伝いで、他の人間ともセックスをする彼を許せなくなるに違いない。
つがいでもないのに、浅ましい独占欲を抱きわがままを言う自分を、士狼には見せたくない。
「えーっと……それじゃあ、今度、食事にでも連れて行ってください」
このあたりが無難なラインだろう。実際に一緒に食事に行くことはなくても、かまわなかった。どうせ社交辞令だ。
へらりと笑った雪人を、士狼はまじまじと見つめてくる。
「本当に、そんなことでいいのか?」
彼の質問(というよりも、独り言のようなものだった)の意図がわからずに、きょとんとしながらも「ええ」と頷いた雪人に、士狼は気を取り直したように、スマートフォンを取り出した。
「じゃ、連絡先交換しようか」
「え?」
同僚は全員、会社だけの付き合いだから、個人的な連絡先を知らない。ここで初めて、雪人は士狼の「なんでもする」が口先だけではなく、本気なのだということを知った。
あたふたとスマホを取り出す雪人のことを、士狼は黙って、温かい目で見守っていた。
トークアプリに送られてきた店の情報をつぶさに確認して、雪人はひとり、ぐふふと不気味に笑ってベッドの上をゴロゴロした。
『日本酒がいろいろあるらしいんだけど、酒、大丈夫?』
誰かと飲みに行くのは学生時代以来だが、実のところ雪人は酒が好きだ。普段の晩酌は、家でひとり、チューハイやハイボール、発泡酒がほとんどだから、日本酒をあれこれ飲み比べできるのは、楽しみだ。
そう返信すると、「飲み過ぎるなよ。笑」と即座に返事が来る。
自分の酒量はきっちり把握しているが、緊張と喜びが相まって、いつもより回りが早い可能性はある。しっかりと気を引き締めなければと思うものの、アプリの文章を追う目は、でれっとにや下がってしまう。
(先輩はどんなお酒飲むんだろう……)
酒の席では周りの気も大きくなる。いつも以上に不愉快な言葉を投げつけられるから、歓送迎会など、全員参加のイベントにしか出席しないことにしているから、飲みの席での士狼のことをまったく知らない。
きっと彼は、飲み会でも中心になって、周りに気を配っているのだろう。
仕事が終わって直行する予定だから、おしゃれはできないけれど、会社を出る前に、さっと髪の乱れくらいは整えておこう。香水は邪魔になるかな。
などと、当日のことを考えてわくわくしていると、手に持ったままのスマホが音を立てた。士狼かと思ったけれど、画面に表示されているのは幼なじみの名前で、少し残念になりながらも、通話ボタンを押す。
「はい、もしもし」
声がやや沈んだ。しかし、電話向こうの相手はエスパーではないから、雪人の落胆など気にせず、一方的に喋り出す。
幼い頃から彼はおしゃべりで、雪人は聞いてばかりだったな、と思い出す。しかも、生返事をすると、怒り始めるのだから厄介だ。
幼なじみのせいばかりにする気はないが、自分の意志表示をはっきりできずに、相手の言葉をすぐに真剣に受け取って思い悩む性格は、そういう経験も影響しているのかもしれない。
つがいとの幸せな結婚生活の自慢話が延々と続き、「いいなあ」「うらやましい」と発する言葉は、いつも以上に本気だった。
「それで、丈は僕にのろけ話を聞かせたくて、わざわざ電話してきたの?」
一応、用があるんじゃないかと聞いてみれば、「あ、そうだった」と、案の定、思い出した思い出したと言う。
あきれて言葉を失う雪人に、丈はやや声をひそめる。
『いや、こないだの発情期、俺、相手してやれなかったじゃん? だから、大丈夫だったかな、と思って』
割と迷惑をかけられてばかりの幼なじみだが、こういうところがあるから、雪人は嫌いになれない。
「うん。大丈夫」
『ってことはお前も?』
とうとうつがいができたのか、とひとつ飛ばしに結論を出した丈に、違う違うとすぐに訂正を入れる。彼が勘違いして、親にまで言いふらされたら困る。
この男は、両親からはなぜか絶大な信頼を得ているのだ。実の息子よりも、よほど密に連絡を取り合っている。
「その、さ。そういう店があるじゃない? うん。それで、家に来てもらって」
自宅を訪ねてきたセラピストが知り合いで、片思いの相手だということは、さすがに言えなかったし、すべてをさらけ出した元パートナーとはいえ、もはや他人の夫となった男に、自分の性事情をあけすけに話すのも違う。
「その人が、すごく優しい人でさ……」
ごにょごにょと濁すが、とにかく平気だったということを伝える雪人は、ふと、あれだけうるさい男が沈黙していることに気がついた。不思議に思って「丈?」と名を呼べば、「ああ」と、なんだか言いづらそうに返事をした。
『いや、俺が人のこと言えた義理じゃないってのはわかってんのよ?』
「うん」
『俺も相当ヤリチンだけどさあ、金もらってするってのは、ちょっとチガウんだよなあ』
端から見れば、どちらも不特定多数と行為をしていることにかわりないし、何なら店の方がよほど安全衛生面では気を遣ってすらいるのに、丈はセックスワーカーを見下した。
『そいつって、アルファだった?』
「……そうだけど」
嫌だな、話したくないな。
そう思ったけれど、雪人の心は弱い。丈と切れたら、本当に友達がいなくなる。
渋々頷くと、彼はやっぱり馬鹿にして鼻で笑った。
『アルファのくせに、金でセックスしなきゃならないとか、そいつはいくら優しくてもド底辺だぞ。騙されんなよ』
士狼は大切な親族の店を、ほぼ無給で手伝っているだけだ。金に困って働いているわけではない。雪人は反論しかけて、「誰にも言わない」と彼と約束したことを思い出し、口を噤む。
愛想笑いの相づちしか返さなくなった雪人に、丈は案の定、怒った。ご大層な「アルファってやつは」を並べ立てるが、つがいが姿を見せたらしく、急に通話を打ち切られた。
大きな溜息とともに、雪人は自己嫌悪に胸が苦しくなるのを感じた。
本当は、あそこで怒らなきゃいけなかった。馬鹿にするのはやめろ、と。彼らに救われるオメガがどれほどいることか、と。
焦ったりどもったりしなくても話ができる唯一の相手であっても、本音を言えなかった。
こんな自分と一緒にいても、士狼は楽しくないだろうな……。
雪人は悔しくて、スマホを握りしめたまま、ベッドに横になり、目を閉じた。
>(5)
コメント