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金曜日の会社終わりに、約束どおり一緒に食事に行った。
半個室になっている店は落ち着いた雰囲気で、居酒屋といえば学生時代に行ったチェーン店しか知らない雪人は、物珍しくきょろきょろと見渡した。
そわそわするのは、オレンジの温もりある照明の下、真正面から見る士狼が、いつもよりも柔らかく、どこか甘い表情に見えるせいだった。
「はい。好きなの飲みなよ」
手渡されたメニューを開き、これ幸いと顔を隠す。飲酒する前からほんのりと赤くなっていても、気づかれないだろう。
最初は顔を隠すためだったが、なるほど、士狼が言っていたとおり、日本酒の品揃えが豊富である。産地や味の説明に、じっくりと見入ってしまっていた。
「決まった?」
メニューは一部しかない。自分が独占してはいけないと、雪人は目についた酒を指す。すっきりと辛口の味わいと書いてあるのを見て、
「……意外と強いんだ?」
と、士狼は目を丸くした。
「先輩は、何を?」
「あー、同じのでいいや」
彼はどうやら、あまりこだわりがないらしい。逆に、雪人は食べるものについては好き嫌いもないし、「どうしてもこれ」というものもないので、食事はおまかせだ。
お通しをつつきながら、雪人は後輩らしく、この場を盛り上げなければならないのでは? と、気を回す。
「あ、僕が注ぎます」
トークスキルのない雪人にできるのは、酌をすることくらいだ。いやいや、と士狼は遠慮するが、雪人の真剣な目を見て、「頼むよ」と、グラスを持った。
震える手で、酒を注ぐ。それから自分のものに。
「じゃあ、乾杯」
「か、乾杯」
口止め料代わりの飲み会は、和やかに始まった。選んだ酒は辛口も辛口、カッと喉を焼いた。直後にクリームチーズを使ったつまみを口に入れる。洋酒のイメージだったが、よく合う。
運ばれてくる料理は、和食がメインだ。ちびちびと飲んで食べてを繰り返す。
「うまいか?」
「はいっ」
人見知りの恥ずかしがり屋はどこへやら、満面の笑みで返事をした雪人に、士狼は目を細める。
いつもひとりで飲んでいるから気づかなかったが、どうやら自分は、適度にアルコールが入ることによって、口が滑らかになるタイプだったらしい。
いつしか雪人が愚痴を言う席へと変わっていた。
仕事のことから始まって、性にまつわる悩みが派生するのは、自然な流れだった。人目も気になりにくいつくりだし、何しろ相手は、すでにすべてをさらけ出した男である。
「僕は、オメガだからといって、エッチが好きなわけじゃないんですよ」
「……へぇ」
士狼の変な間には気づかずに、雪人は自分の思いの丈を捲し立てた。
そりゃ確かに、他のオメガやアルファは、セフレとかいっぱい作ってるけど、でも僕は、本当はひとりの人とゆっくり関係を育みたいタイプなんです……。
雪人の恥ずかしい打ち明け話を、士狼は真剣な顔で聞き、ときには「お前はよく我慢してるよ」と、頭を撫でて慰めてくれた。やっぱり気持ちよくて、目を細める。
ひとしきり言いたいことを言って、雪人は黙々と食べ、飲んだ。
雪人と比べ、士狼のペースはゆっくりだった。自分ががっついているようで恥ずかしいと、一度箸を置く。よく観察してみれば、食事はしているものの、彼のグラスの中身は、ほとんど減っていない。
「もしかして先輩、あまりお酒得意じゃないんじゃ……」
「ああ、いや……そんなことは」
ない、と笑って、それまでちびちびと傾けていた杯を、一気に飲み干した。
この酒は、そういう飲み方をする酒では……!
と、慌てて止めようとしたときには遅かった。
「う」
途端に真っ赤になった士狼は、口元を押さえた。
「先輩!」
「うん……ら、いじょぶ……」
全然大丈夫じゃない!
飲み会も久しぶりで、酔い潰れた人間の介護をするのに慣れていない雪人は、そのままずるりと座席に横になり、目を閉じた士狼に、慌てふためいた。
ずっとここで休んでいるわけにもいかず、雪人は店員を呼び、会計をする。おごってもらうつもりでいたけれど、仕方がない。カードで支払いを済ませ、店の外へ。
「うう……先輩、ちゃんと立って……」
体格差のある相手を肩に担ぎ支えるのは、至難の業であった。今が一番、オメガである自分を呪った瞬間かもしれない。駅まではそれほど離れていないが、電車に乗ってひとりで帰らせるのも心配だ。
雪人はタクシーを拾った。居酒屋に引き続き、痛い出費ではあるが、仕方ない。会社から二駅のところにマンションを借りていてよかった。
運転手の手を借りて、後部座席に士狼を押し込んで、そのまま隣に乗り込む。住所を告げて、ようやく一息ついた雪人の肩に、士狼の頭がもたれかかってくる。
酒臭いし、汗の臭いもする。けれど、決して不快ではないのは、雪人が士狼に恋をしているからだ。
深呼吸をして、ふと気づく。
士狼以上に飲み食いした自分の方が、よほど臭いのではないだろうか。
そっと士狼の頭を押しやるが、「うーん」と呻いた彼は、いやいやと言うように、雪人の肩に擦り寄ってくる。普段の凜々しく頼れる姿とのギャップがすごい。
うっかり「かわいい」と零すと、嬉しそうに唇を緩める。
「先輩、大丈夫ですか?」
「ん……いー匂い……甘い」
すりすりと寄せる顔は、雪人の首にほど近いところにある。
寝息を立て始めた士狼の邪魔をしないよう、細心の注意を払って、うなじを押さえる。
発情期ではないから、フェロモンなんて放出するはずがない。
もしも何かを感じ取れるとすれば、それは「運命」の……?
いいや、そんなわけない。ひどく酔って、前後不覚になっている男の感覚を信じてはいけない。だいたい、自分は何も感じていないのだし。
愛しい男の吐息を至近距離に感じながら、雪人は士狼を視界に入れるまいと、窓の外を眺めていた。
翌土曜日、目を覚ました士狼は、自分がどこにいるのかわからず、奇声をあげた。寝ぼけたのと驚いたのとで、ベッドから転げ落ちる。
意外とドジなところがあるんだな、と、コーヒーを淹れていた雪人は逆に冷静になった。
「大丈夫ですか?」
「うー……春日井? ここは……?」
一度来たことのある部屋だが、記憶にないようだ。
「僕の部屋です」
言いながら、自分のためのコーヒーを、彼に渡した。きょろきょろと見回して、士狼は昨夜の醜態をいくらかは思い出したのだろう。「ごめん! 迷惑かけた、よな?」
雪人の機嫌をうかがう視線に、酔っ払って家に帰れなくなったことは思い当たっても、タクシーの中で犬のように甘えてきたのは、なかったことになっているようだ。
仕事のできる頼れる先輩であろうとする彼に、わざわざ情けなくも可愛らしい酔態を報告することはない。
「まあ、多少……タクシー代が痛かったですね」
「わー! すまん! 本当に、すまん! 奢るって言ったのに!」
雪人が取っておいたレシートを確認して、代金を出す。それでも士狼は気が済まない様子で、
「この埋め合わせは、また来週! な!」
と、雪人の両手を握りしめ、力強く迫った。
まさか二度目があるとは思っていなかった。雪人は目を白黒させながら、「今度はアルコール抜きにしましょう」と、精一杯冗談めかして言った。
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