気弱なオメガの最初で最後、最高の選択(8)

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(7)

「あ、駒岡先輩……」

 出勤中、士狼の後ろ姿を見かけた雪人は、声を上げた。それほど距離が離れていない。

これまでならば、彼はすぐに気づいて、「おはよう」と並んで歩いてくれた。営業部エースの雑談力を遺憾なく発揮して、会社までの道のりが短く感じられるくらいだ。

 だが、今日の士狼は雪人の声を、聞こえなかったことにした。無視されたショックで立ち止まる雪人の隣を、人々が足早に通り過ぎていく。

 仕事が始まってからも、士狼の様子を常にちらちらとうかがった。

 彼は、普段通りに見えた。周りに声をかけ、職場の雰囲気がパッと明るくなるように心がけている。電話での営業がうまくいかず、イライラしている先輩社員にだって、士狼は物怖じしない。

 宥め、おだて、アドバイスをアドバイスと気づかれないような形で伝えて、「明日の昼飯は俺の奢りだ」と、背を叩かれている。

 まったくもって、いつも通り。けれどひとつだけ、違うところがある。

「おい、春日井!」

 鋭い叱責に、肩が跳ねる。慌てて立ち上がり、課長の前へおずおずと出頭する。課長はいつも以上に不機嫌で、これ見よがしに雪人の前で、紙をひらひらさせる。

「お前、さっき提出した資料の数字、一個違ってんぞ! どうなってんだ!」

「っ」

 投げつけられて散乱した紙の束を拾い集める。どこの数字なのかわからずに、おろおろしながら自分でも確認しようとするが、その間も課長の叱責は止まらず、ままならない。

 雪人はひたすら頭を下げ続ける。早く解放して、訂正をさせる方が早いというのに。

「も、申し訳ございません!」

 頭上を通り過ぎる怒鳴り声に、耳を塞ぎたくなる。同じ部屋にいるはずの同僚たちは、誰も助けてくれない。とばっちりがこないように、気配を消している気配がする。早く席に戻りたいのに、課長は雪人の頭に向かって唾を飛ばすのに余念がない。

 最後の捨てゼリフは、いつもの古臭いオメガ差別だった。

「ったく。会社休んで、アルファとヤることばっかり考えやがって」

 つがいのいないフリーのオメガは、行きずりの相手とセックスする、性欲の権化だという偏見を持たれている。

 忍び笑いが聞こえたのは、いつも課長のセクハラに便乗してひどい言葉を浴びせて来る連中だった。席に戻る雪人の尻に、勝手に手を伸ばして触れる。

 ベータの男同士なら、「尻を叩く」の慣用句通り、激励の一種だ。しかし、彼らの手つきはセクシャルである。一瞬揉みしだかれて、ひゅっと息を飲む。

「欲求不満なら、俺が相手してやってもいいぞ」

「馬鹿。ベータの俺らなんて……なぁ?」

 こちらから願い下げだ。

 雪人は心の中ではそう悪態をついたものの、ついぞ態度には出せなかった。

 いつもに増して嫌がらせがひどいのは、止める人がいないからだ。ここまでやられる前に、必ず士狼が仲裁に入って、場を平定してくれていた。

 今日は、来てくれなかった。

 資料を確認しながら、士狼のデスクに目をやる。いつのまにか、彼は姿を消していた。しばらくしてから、彼はコーヒーを片手に戻ってきた。給湯室に行っていたらしい。

 僕の分は? 

 落ち込んでいるときには、さりげなく自分の分も持ってきてくれるのが、常だった。咄嗟に湧いてきた浅ましさに、我ながら驚くし、気分が悪くなる。

 彼が笑いかけるのは、自分ではなく、他の営業事務の女性社員だ。士狼の手が、彼女の頭に伸びる。ゴミがついていたらしい。くすぐったそうに身をよじった女性に向ける目を見たら、もうダメだった。

「っ」

 呼吸が苦しくなって、雪人は静かにデスクを立った。課長の「おい、春日井ィ!」という罵声を背に受けても止まらず、足早にオフィスを出て、トイレの個室に籠もる。

 鍵をかけた瞬間、涙が滲んできた。

 もう、士狼は自分を助けてくれないのだ。先輩後輩以上、恋人未満のもどかしい関係を楽しんでいたのは、自分だけだったのだ。

「そりゃ、そうか……」

 ぼそりとつぶやく。

 助けてもらうばかりで、自分が士狼にしてあげられたことなんて、何一つない。オメガらしく、選ばれる努力をしなければならないのに、士狼の優しさに、あぐらをかいていた。愛想を尽かされるのも仕方がない。

 とうとう零れる涙を、拭う気力もない。

 落ち着くまで、ここに隠れていよう。どうせ今日は、残業だ。十五分くらい、どうってことはない。

「……でさ」

 話し声にハッとして、雪人は顔を上げる。

「そういやお前、春日井となんかあった?」

 自分の名前に驚いて、涙も引っ込む。息を殺して、「お前」と名指しされた相手の返事を待つ。

「いや……別に」

 こんな短い返答であっても、声の主が士狼であることは、すぐにわかった。個室の隙間から、彼の匂いが漂ってくる気がした。香水か体臭かわからないが、爽やかさとセクシーさが同居する、彼にしかない匂い。

ドキドキしながら、雪人はただひたすら聞き耳を立てる。

「別にぃ? あんだけ気にかけて、課長たちから守ってやってたくせに、突然そっぽ向いちゃって。あーあ、春日井かわいそう」

 士狼は少し沈黙したあとで、淡々と答えた。

「家族にもオメガがいるから、放っておけなかったんだ」

 そもそもかばい立てしたことにも深い理由はないのだと言って、相手は「ふーん」と、納得したような、していないような相づちを打った。

 ふたりが出ていってから、雪人はよろよろと個室から出た。

 オメガだったから、士狼は助けてくれた。

 誰でも、よかったのだ。自分が特別ではなかったのだ。

 もしも発情期の日、サロンから派遣されてきた、まさにそのときが初対面だったのならば、彼は、あるいは自分は、どう感じただろう。

 自分はそれでも、彼に惚れていたに違いない。

 けれど、士狼は? 知らぬ仲ではないし、雪人が人見知りだということも察している。かわいそうだし、たまたま暇だから、二回目以降も来てくれただけなのだ。

 運命?

 そんなもの、一部の本当に幸運な人間にしか、見つからないんだよ。

 ふらふらデスクに戻る雪人の顔は青く、仕事はなかなか進まなかった。課長たちのパワハラが何度も襲ってきたが、一切反応は返さなかった。

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