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「ここか……」
看板を見上げて、スマホの地図を閉じた。
リラクゼーションサロン「セレネ」。士狼が手伝っている店だ。
周辺には、もっと直接的な名称と刺激的なデザインの看板の店舗がある。挿入側の人間を顧客とする風俗店とは、やや趣がちがう。
いつもはネット予約で済ませているから、店に来るのは初めてだ。恐る恐る入店する。
アロマの香りが、鼻を掠めた。花を煮詰めた奥にスパイスが隠れる香は、いつまでも記憶に残りそうなくらい、濃密だ。
「いらっしゃいませ」
受付で立ち上がった、黒服を着たスタッフの名札には、「店長」と書いてあった。この人が、士狼の親族なのだろうか。思った以上に若い。
笑顔でほとんど目がなくなっていて、いかにも人がよさそうだ。そういうところは、士狼の親族と言われれば、納得できるものがある。ただ、あまり顔そのものは似ていなかった。
「あの、僕、春日井と申しますが……」
少し考えて、店長は目の前のパソコンをいじった。顧客のリストが管理されているのだろう。ああ、と納得して、再び接客用の笑みを浮かべる。
「春日井様。本日はいかがなさいましたか?」
発情期でないことは、誰の目にも明らかだ。なのに自ら来店した雪人を、店長が性欲の塊だと思ったのではないかと冷や汗をかく。
「えっと、あの」
うまく言葉が出てこない雪人を、「落ち着いてください」と、店長は待合のソファに座らせた。それからすぐに、温かいほうじ茶を持ってくると、雪人が落ち着くのを待った。
「熱いので、気をつけて」
一口ずつちびちびと飲んでいくと、ようやく頭が冷えてきた。
よく考えれば、セックスするための店の人間が、客を馬鹿にすることはないか。むしろ性欲旺盛な方が、稼ぎに繋がるのだし。
飲みきる頃には、話ができるほど、心が凪いでいた。
「春日井様。それで、本日はどのようなご用件で?」
タイミングを見計らうのが上手い。雪人は勇気を出して、訪問の目的を告げる。
「あの! 士狼さん……士狼さんを、指名したくて……」
会社では、話すことができない。内容的にセックスについて触れるし、副業問題もある。
そもそも士狼とふたりきりになるタイミングがない。スマホからメッセージを飛ばしても、既読スルーされる。
急に冷たくなった理由を知りたい。ヒートのときのパートナーになってほしいなどと、贅沢は言わない。周囲もさすがに、自分たちの変化に気づき、おかしいと思い始めている。
自分の悪いところがあれば直すから、これまでどおりの先輩、後輩の関係に戻りたい。そのためなら、自分の恋心なんて、諦めるから。
店長は首を傾げた。
「シロウ……という名前のセラピスト、当店には所属しておりませんが」
そんな馬鹿な。
なおもしつこく食い下がる雪人に、店長は、「もしかしたら、春日井様には当店で使用している源氏名とは違う名前を名乗ったのかもしれませんね」と、そこそこの厚さのあるファイルを持ち出した。
なるほど、源氏名か。この手の店で本名を名乗る人間は少数派だということに、今さら思い当たった。
客が雪人だったから、源氏名を教える必要もないと思ったのだろう。
「いかがでしょう。お客様のお目当ての『シロウ』、この中におりますでしょうか?」
捲っても捲っても、駒岡士狼は出てこなかった。加工のことを考慮しても、それでも似ているレベルの人間すら出てこない。
昼の会社員としての顔は柔和なのに、夜、自分を食い尽くそうとする顔は、獰猛な獣だ。そんな男は、この冊子の中にはいない。
首を横に振った雪人に、店長はことさらに明るく、「せっかくいらしたのですから、マッサージはいかがですか? こちらの者なら今すぐにでも」と、勧めてくる。
セックス目的ではないし、士狼以外とする気はさらさらない。
雪人は首を横に振り、礼を言って退店した。
「またいつでもいらしてください」
次のヒートまでは、まだ二週間以上ある。この店で予約を取っても、もう二度と士狼は家に来てくれないだろう。
曖昧に笑んだ雪人は、外に出て、ぐるりと裏に回った。たいていの店には、裏口があって、スタッフはそこから出入りするからだ。
物陰に隠れて、こっそり見張る。
もしも店長が、何か意図があって士狼の存在を隠しているのだとしたら、きっと裏口から士狼を逃がすにちがいない。土曜日だし、今日も手伝いに来ているはず。
五分、十分……さすがに十五分が経過したところで、無駄だったかと落胆した。あと十五分待ってみて、何事もなければ、帰ろう。士狼と話すための、また別の手を考えなければならない。
さらに五分後、果たしてそのときは来た。
裏口が、やや錆びついた音を立てて開いた。こっそりと建物の陰から顔を出す。
赤の他人であれば、そのまま知らん顔をして去るし、士狼だったら、逃げ道を塞いででも、話をする。
士狼の横顔が見えた瞬間、一歩踏み出していた。けれど、その足は、すぐに引っ込められることになる。
士狼以外のパターン、士狼がひとりだったパターンしか想定していなかった。建物の中を振り返った彼は、後方の誰かに手を差し伸べた。
自分の頭を撫でて褒めてくれたり、ベッドまで運んでくれたその手を、いったい誰に。
士狼の手を取ったのは、髪の長い男だった。顔はよく見えないが、華奢なオメガである。一目でオメガとわかったのは、士狼が必要以上に気遣っているのと、明らかに肥満とは違う理由で膨らんだ腹。
アルファとオメガが手を繋いでいて、オメガは妊娠している。
導き出される答えは、ひとつ。
士狼がオメガに何事か囁くと、彼は声を上げて笑った。幸せなカップル。いや、腹の子を含めて彼らはもう家族なのだ。
雪人の胸に、苦いものがせり上がってくる。足早に、けれど足音を極力立てないように、雪人はその場を立ち去った。
つがいがいるアルファのくせに、親戚の店だからという理由で、他のオメガとセックスできるものなのか。
「あんなに必死になっていたのに」
雪人は自分のうなじを押さえた。傷跡ひとつ、わずかな痛みすらない、処女地だ。
食らいつこうとしていたのは、独り身オメガの自分への、同情?
そういえば、聞いたことがある。パートナーが妊娠中の浮気が、一番多いのだ、と。
「そういうことか」
身をもって、噂は本当のことなのだと、実感した。笑いすらこみ上げてくる。
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