天使と羊飼い

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十字架 短編小説

「他に何か連絡事項のある人は?」

 日直の司会によって帰りのホームルームは進んでいく。しかし、誰一人として――ひょっとすると、担任でさえ――まともに聞いていない。

 高校に入学して、早ひと月が経とうとしている。最初はどこかぎこちなかったクラスの雰囲気が、徐々に緩み、馴染んできたところで、明日からゴールデンウィークなのだ。浮ついた、そわそわした空気になるのも仕方がない。

 帰宅部の朱音あかねは、学校に来る用事もなく、完全に休みだ。中学時代の友達と遊ぶ約束もしているし、母親と買い物に行く予定もある。

 ちょっと早めの夏休み。あるいは遅い春休み。早く家に帰りたい……隣の生徒は寮生で、今日の夜の電車で即帰省するのだと言っていた。朱音よりも一層、時間が過ぎるのがもどかしいだろう。

 日直が教室を見回して、「なければ……」と口にしたタイミングで、すっと最前列の生徒が手を挙げた。

「……里見さとみさん」

 あからさまにがっかりした顔の日直をよそに、里見真紀まきは立ち上がり、教壇に上がる。示し合わせていたのか、もう二人、登壇した。

 共通点はすぐにわかった。内部生だ。

 中高一貫の女子校だが、都会の進学校とは異なり、高校には外部から進学してくる人間の方が多数派だ。特に、普通コースと言われるこのクラスには、内部生は並んだ三人しかいない。

 真紀は両脇に控えた子たちに目配せすると、口を開いた。

「六月の合唱コンクールの曲を、決めたので発表します」

 一瞬の沈黙は、彼女が何を言っているのかわからなかったから。その後のざわめきは、意図がわからなかったから。

 合唱コンクールは六月の末頃の開催だ。市民ホールを貸し切ってのイベントで、市民ホールを貸し切っての大きな行事だが、約二ヶ月もある。そんなに前から曲を決めるものなのか。親しい上級生もいない朱音には、わからない。

「みんなで力を合わせて、最優秀賞を狙いましょう。一番の思い出になります」

 彼女は隣の子に視線で指示を出し、CDを再生させた。朱音は出だしを聞いた瞬間、「無理だ」と思った。

 まず伴奏がない。天使がどうとか羊飼いが、とかイエス様であるとか。ここがカトリックの女子校でなければ、選曲の候補にも上らない曲だ。

「この曲を歌ったクラスが最優秀賞を取ることが多いんです」

 真紀は教室を見回す。ばちっと目が合った。不服な気持ちが表れていたのだろう。真紀は朱音をじっと見て、

「文句がある人は、他の候補曲を上げてください」

 と、挑発する。

 いきなり言われても、思い浮かぶわけもない。朱音は唇を尖らせることしかできなかった。

※※※

 連休明け早々に、真紀による特訓は幕を開けた。ピアノが弾ける子に命じて、各パートの音取りをさせる。彼女自身は指揮者となって、耳を傾けている。

 朱音は音楽の先生から、アルトパートを言い渡されていた。主旋律を担うことが少ない分、難しい。

 決まってしまったことだから、朱音は粛々と従うだけだ。朝練だの昼練だの、放課後まで時間を拘束されるのは嫌だったが、仕方がない。

 朱音は自分が中心となるタイプではない。できる限り、皆と同じことをするロボットのような人間でありたい。

 それは、クラス全員同じ気持ちのようだ。真紀がせっかく全部を取り仕切ってくれているのだから、何も考えなくて済む。

 担任も音楽教師も、「このクラスはやる気があっていい」と評価するが、実際のところ、まやかしに過ぎない。朱音たちはよくわかっている。

 本気で取り組んでいるのは、内部進学の三人だけ。中でも、真紀の熱意は並々ならぬものがあった。

 朱音には、学校行事ごときでそこまで燃える意味がよくわからなかった。対外試合でもあるなら別だが、所詮は学内だけのこと。

『去年の中三って、合唱がすごく上手くて、高校生を抑えて最優秀賞取ったんだってさ』

 寮暮らしのクラスメイトが教えてくれた。なるほどね、と一瞬納得する。

 学校で一番の歌の実力を持っていた者たちが、今年は各クラスに分散している。去年の友は今年の敵。一年生の全クラスが、真紀にとってはライバルなのだろう。

 ただ、それにしても鬼気迫っている。

「もっと笑顔で!」

 と、歌うときの表情まで指導する割に、指揮者である彼女の眉間には、深い皺が刻まれている。

 アカペラ曲なので、指揮だけが頼りなのだが、どうもしっくりこない。真紀は自分が棒振りマシーンになっている自覚があるのかないのか。朱音たちには曲想を追求するように厳しく言うが、その実、彼女が一番、曲を理解していない気がした。

 情熱に伴わない実力。そして朱音たちの仮初に過ぎないやる気。音取りのピアノが、日ごとに音を軋ませていくように感じていた矢先、とうとう事は起こってしまった。

「ねぇ、矢倉やぐらさん」

 名前を呼ばれたのは、ソプラノパートの小柄な少女だった。

「は、はい」

 びくりと身体を震わせて返事をする。審判を待っている気持ちなのか、彼女の目はすでにうっすらと涙の膜が張っている。

「あなたもう、歌わなくていいから」
「え……?」
「聞こえなかった? 歌わないでって言ってるの。あなたの歌に引っ張られて、一番目立つソプラノの音がずれてってるの」

 矢倉は端的に言って、音痴だった。校歌を歌うテストを少人数で受けたとき、朱音は彼女と同じ班だった。

 音痴には自覚のあるタイプとないタイプがいるが、矢倉は前者だった。すまなそうな顔で朱音たちのちらちらと見て、消え入りそうな声で歌う。「聞こえない!」という教師の叱責で、ボリュームを上げるが、耳まで真っ赤になっていた。

 矢倉にとって、合唱コンクールは地獄だ。それでもクラス一丸となって最優秀賞を目指すとあって、士気を下げるわけにはいかない。

 朱音は彼女が、放課後練習が終わってからも、自主的にピアノに触れながら、音を取る訓練をしていたのを見た。できないなりに一生懸命努力していた。

「そんな……」

 ひどい、とソプラノの子が呟くと、真紀の矛先はそちらに向いた。

「じゃあ、矢倉さんの下手くそな歌をカバーできるくらい、声を出せるっていうの、ソプラノのみんなは?」

 棘のある言い方だが、ソプラノパートは全員、下を向いた。調子はずれの矢倉の歌に、内心では困っていたに違いない。

 その空気を敏く感じ取って、矢倉は無理矢理微笑んだ。

「わ、わかった。私が歌うと、迷惑だもんね……私、音痴だから……」

 自分の言葉で追い打ちをかけて、矢倉の目からはとうとう、大粒の涙が溢れた。慌てて拭っても、どんどん零れ落ちてくる。

「ご、ごめん!」

 この場にいるのもいたたまれず、矢倉は教室から走り去ってしまう。

「やぐっちゃん!」

 彼女と一番仲がいい子が、名前を呼んで追いかけた。真紀のことをきつく睨みつけることも忘れず。

 真紀は突き刺さる視線をものともせずに、にっこりとクラス全体を見回した。

「さ、練習再開しましょ」

 邪魔者はいなくなった。すっきりとした朗らかな物言いだった。

※※※

 最初に練習をボイコットしたのは、矢倉の親友だった。

「やぐっちゃんは仲間じゃないっていうなら、私はクラスに協力しない」

 真紀に対して面と向かって主張して、彼女は朝早く来ることもなく、放課後は矢倉に付き添ってすぐに帰宅する。昼休みも二人で、どこか別の場所で弁当を食べているようだ。

 最優秀賞を目指して航海を進める船から、ぽろぽろと離脱者が出始める。まず、体育会系のサバサバ女子が、「里見さんのやり方は、間違ってる」と言って、練習に出てこなくなった。

 朱音のような人間は、クラスの動向を観察している。とかく、数に流されやすいのが人間だ。少数派になるのは避けたい。どのタイミングで船を降りるのがベストの選択なのか、見極めている。

 そもそも最初から、この船は泥船だったのではないか。

 どのクラスよりも先に取り組む曲を決め、練習を始めたはず。なのに、教室までの道すがら聞こえてくる歌声は、どこも自分たちより上手に聞こえる。

 憂鬱な気持ちで朱音は扉を開けた。おはよう、の声を不用意に発することがなかった自分を褒めたくなった。

 教室内の空気は、まさに一触即発。これまで率先して真紀のことを補佐してきた内部生の一人が、怖い顔をしていた。もう一人はどちらの立場に寄り添うべきなのか決めかねて、おろおろするばかりだ。

 朱音はこそこそと自分の席まで行って、鞄をそっと置く。それから「何があったの」と近くにいたクラスメイトに小声で尋ねた。

「うん。あのね、ソロパートなんだけど……」

 皆まで言わずとも、わかった。一方的な怒鳴り声が響いたからだ。

「どういうこと! 私をソロパートから外すって!」

 三パートの他に、ソプラノからはソロが選ばれる。ソロと言いつつ、人数バランスを考えて三人いるのだが。

「ソロは天使の声なの。だから、それにふさわしい歌声の人間がやるべきよ」

 真紀は冷静だった。冷酷にジャッジして、中学からずっと一緒にやってきた仲間を切った。淡々とした声は、友情よりも結果を取るという強い意志を感じられる。

 中学生ながらに最優秀賞を受賞したことは、プライドとなって彼女たちの中に高く積み上

 真紀に「お前の声は天使なんかじゃない」と宣告されて、頬を真っ赤にして抵抗する姿は、物悲しいと朱音は思う。

 どれだけ主張しても、真紀は自分の意見を翻すことはない。静かな湖のような目で、荒れ狂う感情を、ただ眺めている。

「なんで!? ずっと協力してやったじゃない!」

 とうとう本音が漏れた。三人は一枚岩ではなかった。

「しかも、私の代わりのソロが、こんな子だなんて許せない!」

 そこで初めて、朱音はソロを任された人間を知った。

 こんな子呼ばわりされたのは、朱音と同じ中学の出身者だった。オタクで、暗くて、クラスに馴染もうとしないタイプ。男子からはよくからかわれていた。だからだろうか。彼女はこの女子校専願で、推薦入試を受けて早々と進学を決めた。

 朱音は別に、彼女のことを好きでも嫌いでもなかった。ただ、知っていた。彼女の歌の実力は、当時から群を抜いていた。

 歌のテストで一人ずつ歌う場面でも、堂々としていた。普段の挙動不審さが嘘のようだった。身近な曲が、もっと荘厳なオペラか何かに聴こえたくらいだった。

 だから、「こんな子」扱いされるのは、心外だった。同じ中学というよしみは、朱音が思っていたよりも、ずっと深いものだった。

「それはさすがに、言いすぎじゃない?」

 眼鏡の奥で視線をさまよわせる子の前に、朱音は立った。苛烈な怒りを向けられて、一瞬身体が強張ったが、口を出してしまった以上、事態を収拾しなければならない。

「実際、澤口さわぐちさんはめっちゃ歌上手いわけだし。なんで最初からソロじゃないんだろうって、ぶっちゃけ思ってたよ、私」

 よくもまあ、こんなに口が回るものだな、と自分に感心する。考えるよりも先に言葉が出てくるのは、きっと、今まで何も言えず、悶々と練習に参加していたフラストレーションのおかげだ。

「それに里見さんも里見さんだよ。森田さんがソロやりたいなら、やらせてあげればいいじゃん。今ソロやってる人で、譲ってあげてもいいって人は?」

 該当者をちらりと見ると、小さく手が上がる。

「いるじゃん。澤口さんも森田さんもソロでよくない?」

「でも」

 真紀の反論は、勢いで封じる。

「森田さん下ろしたいなら、ちゃんとした理由を言いなよ。自分で無理なら、一緒に判断した音楽の先生に説明してもらって、森田さんが納得できるようにして。学校行事なんだから、優勝目指すにしても、楽しくなきゃ嫌じゃん。今の状態なら、私は参加しないよ」

 つらつらと出てきた不参加宣言に、驚いたのは朱音自身だった。クラス全体の流れがそっちに傾いたわけでもなしに、船の外への一歩を踏み出してしまった。

 真紀は特別な反応を示さなかった。ただ無表情で、勝手にすればいいと無言のうちに伝えてくる。

 参加しないと言ったが、朱音は教室を出ていかない。

「今日はとにかく、練習一日休もう。里見さんも森田さんも、頭冷やした方がいいし。それに、みんな練習しすぎで喉を痛めてる」

 何せ連休明けからこっち、ずっと朝も昼も放課後も、週に二回は授業でも歌いっぱなしなのだ。

 事の成り行きを観察するだけだった同級生たちの空気が、朱音を応援するものにがらりと変わって後押しする。

 水を飲んだり、こっそりのど飴を舐めたり、皆どこか不調を抱えているのは同じだった。

 真紀は教室を見回して、強固に歌うべきだと主張しているのが自分だけだと悟ると、深く溜息をついた。

「わかった。今日は一日、休むことにします」

 あからさまに「わっ」と歓声を上げる者はいなかったが、沈黙のうちに伝わってくるのは、安堵の呼吸だった。

 朱音も肩の力を抜いた。

 一日の休養を経て、練習不参加が多数派になるきっかけを自分が作ったことには、まだ気がついていなかった。

※※※

 翌朝、朱音はギリギリの時間に登校した。

 参加しないと言った手前、練習している人間の前に姿を現すのは、なんとなく気が引けた。

 こんなにドキドキしながら扉を開けるのは、入学式のとき以来だ。そう思いながら手をかける。

 そのときふと、異変に気がついた。

 歌声が聞こえなかった。おかしい。毎朝、放送で執り行われる朝礼の時間ギリギリまで、合唱練習をしているはずなのに。

「お、おはよう」

 教室を見渡してざっと確認したところ、真紀と数名を除いたほぼ全員が、自由にお喋りに花を咲かせていた。

 朱音の登場に気づいた友人たちは、「おはよう」と清々しい笑顔で出迎えてくれる。

 驚くことに、室内には森田ともう一人、連休前から真紀に従ってクラスを引っ張ってきた内部生もいる。

 真紀の両脇を固めていた二人が、彼女を見限った。飛行機の両翼が折れて、空中分解してしまった。

 前の席の子が話しかけてくるのに、適当に相槌を打っていると、予鈴と同時に真紀たち数名が戻ってきた。

 どこかで練習をしてきたのか、真紀の手にはリコーダーが握られている。音楽室はこの時間、吹奏楽部が練習で使用している。ピアノのある部屋は他になく、仕方なしにリコーダーで音を取ったのだろう。

 一瞬にして、静まり返った。皆の視線が真紀に集中する。いや、突き刺していると言ってもいいだろう。

 朱音は気が遠くなる。

「えらそうにしちゃって」
「いい気味」

 ぼそりと呟かれた声の主は、わからない。真紀の耳にも届いただろうが、彼女は「誰よ!?」と騒ぐことはなかった。聞かなかったフリをする。

 朱音には、真紀に投げかけられる中傷の言葉が、クラスメイトの口から発せられたものだとは、信じられなかった。

 悪意そのものが、言葉に変じた。そんな気がするくらい、クラス全体の空気が、真紀を責めるものになっている。

 自分がいじめの端緒を開いてしまったのだろうか。

 朱音は胸が痛むのを覚え、机に突っ伏して泣きたくなる気持ちを抑え込んだ。

 クラスの空気は、あれ以来ギスギスしている。授業のときだけは真面目に歌うから、音楽教師はまだ勘違いしたままだが、担任は生徒の中にあったやる気が消え去り、諍いの火種がいたるところに燻っていることに、気がついているだろう。

 昼休みの空気は最悪だった。昼食後、真紀は席を立ち、ピアノの前に座り、一人で発声練習を始める。教師のやり方通り、最初はハミング。

「まーめまーめまーめまー」

 彼女は指揮者だ。歌う必要はない。けれど大きな声でウォーミングアップを入念に行う。後に続く者は、誰もいない。

 ピアノの音と真紀の声が響いているのに、聞こえなかったフリで、友人とのおしゃべりに夢中になっている。どっちつかずで迷っている子もいるが、ボイコット組は積極的に自分たちの仲間に引きずり込もうと話しかける。

 結果として、合唱コンクールへの情熱を燃やす人間は一人もいなくなった。

 意地になっている真紀も、彼女を排除しようとするクラスメイトにも嫌になって――そして何もしようとしない自分が最悪だ――、朱音は弁当を食べ終えて、すぐに教室を出た。

 どこに行こうだとかは、考えていなかった。廊下を歩いていると、どこのクラスからもピアノやCDの音源や、歌声が聞こえてくる。耳を覆いたい気分だった。学校全体が、楽しそうに歌っている。

 ようやく何も聞こえなくなったのは、裏庭に来たときだった。校舎のこちら側には、特別教室ばかり配置されている。音楽室もあるわけだが、開け放たれた窓から聞こえるのは、吹奏楽の演奏だけなので、ホッと一息つく。

 制服で地面に座るわけにはいかない。校舎に寄りかかって、朱音は天を仰いだ。

 遅かれ早かれ、瓦解していたに違いないのだ。

 里見さんは独りよがりだ。他人の気持ちを考えないやり方では、私が何も言わずとも、誰かが強く反発したはず。そうだ。血気盛んなバスケ部のあの子あたりなら、ひょっとすると、手が出ていたかも。だから、私があのタイミングでキレたのは、むしろよかったんだ……。

 自分に言い聞かせるが、朱音は口の中にじゃりじゃりした砂があるような気がする。苦虫を噛み潰した表情というのは、こういう仕草をしたときの顔を言うのだろう。

「朱音ちゃん。こんなところにいたの」

 話しかけてきたのは、内部生三人組のうちの一人だった。

「河村さん。何か用?」

 真紀と森田が仲違いをして、板挟みになっているのは河村だった。もっとも可哀想な被害者といってもいい。

 それでも朱音にとっては、河村は三人セットのうちの一人だった。この状態を作り上げた張本人である自分に、いい感情を抱いているはずがない。自然と声に警戒の色が入り混じる。

 河村は頭を下げた。

「ごめんね」

 謝罪の理由がわからずに、朱音は「え」とも「は」とも取れない音で返事をしてしまう。随分と間抜けな顔もしていたに違いない。顔を上げた河村に、くすりと笑われてしまう。

「本当は、ああなる前に真紀ちゃんを止めなきゃいけないのは、私だった。泉ちゃんのことも、私が立ち会って、音楽の先生に話してもらうべきだった。全部朱音ちゃんに押し付けちゃったみたいだから」
「そんな」

 河村が謝罪する理由なんて、ひとつもない。真紀と森田の仲が勝手にこじれただけだ。

 河村は首を横に振った。

「真紀ちゃんを最初から止めていればよかったんだから。やっぱり私たちの責任だよ」

 そこだ。

「そもそもなんで、里見さんはあんなに合唱コンクールにこだわってたの?」

 体育祭でも文化祭でも、他のクラスと競う機会は二学期にもたくさんある。まだクラスの結束が生まれていないこの時期の合唱コンクールに照準を絞ってきたのは、なぜなのか。

「うん……由紀ちゃんがいるから、かなぁ……」

 由紀ちゃん?

 新たな人物の名前を聞き返そうとしたが、河村は「私、真紀ちゃんたちをもう一度説得しなきゃならないから!」と、勢いよく駆け出していった。

 由紀ちゃんとはいったい誰なのか。由紀ちゃん、真紀ちゃん……と考えながら教室までの道のりをゆっくり歩いていると、ちょうど真紀を見かけた。

「あれ、里見さ……ん?」

 河村が説得してくると言っていたので、一緒にいると思っていた。が、彼女は朱音の知らない誰かと談笑していた。振り向いた彼女の顔には、ピンク色のフレームの眼鏡がある。

 里見真紀は、眼鏡をかけていない。少なくとも朱音は見たことがない。まじまじと見つめていると、とてもよく似ているのに、なんだか違和感を覚える。

「もしかして、B組の子?」

 なんだか変だ。真紀だって同じ、B組なのに。

 朱音が頷くと、真紀はふふっ、と笑いだした。

「あの子、自分の妹のこともクラスメイトに話してないの?」

 ということは、目の前にいるのは真紀の妹? 妹と「あの子」という言葉がそぐわなくて悩んだけれど、あまりにもそっくりな顔を見て、納得した。

「双子?」
「そう。私は桜組の里見由紀。真紀の双子の妹」

 朱音も名乗ろうと口を開いたが、由紀はそのまま、友人たちと連れだって、教室へ戻ってしまった。

 残されてぽかんと口を開けてしまった朱音だが、やがてどんどん腹が立ってきた。ずしずしと肩で風を切って歩き始める。

 なんなんだ、あの態度は。まるで話す価値もないというような一方的な言葉。桜組ということは特進科。十以上偏差値が低い普通科のことは、見下しているというわけか。

 あれなら真紀の方がいくらかマシ……と考えたところで、朱音は足を止めた。

 家族に対する親愛の情というものを、由紀の口ぶりからは一ミリも感じられなかった。馬鹿にしているニュアンスが声音や表情から読み取れた。

 内部生は無試験、通知表だけで進学先が決まる。真紀が普通科なのは、つまりそういうことだ。

 そうか。だからか。

 朱音は自分の教室の扉を開けた。予鈴が鳴るまで、あと五分ある。

「里見さん」

 クラス中の注目を浴びて、朱音は真紀と対峙する。電子ピアノの前に座っていた彼女は、のろのろと立ち上がった。今更何の話がある、と顔に書いてあった。

「今さっき、里見さんの双子の妹に会ったよ」

 ざわりとした。森田と河村以外は、彼女が双子だということを初めて知ったようだ。

「……それで?」

 慎重な真紀に、朱音は自分の感情をぶつける。

「ようやく里見さんの気持ちがわかった。合唱コンクールで最優秀賞取って、妹のプライドぶっ潰してやりたかったんでしょ?」

 優しい言葉の選択? できるわけがない。

 特進への進学基準を満たさなかった真紀は、由紀を見返すには合唱コンクールしかないと思った。だから、同学年のどのクラスよりも先に曲を決め、トップを狙うと厳しい練習を始めたのだ。

 彼女自身に、指揮をして指導をする才能はなくても、やり遂げようとしたのだ。

「だったらそう言いなよ! みんなで思い出だとか、きれいごとじゃなくてさ。一人で無理して抱えて突っ走って、だからこんなことになってんでしょ!」

 真紀は逃げなかった。正面から朱音の言葉を受け止めている。朱音はそんな彼女の身体を抱き締めずにはいられなかった。

「みんな、みんな一緒だよ。ここにいるのは全員、特進の連中にコンプレックスがある」

 公立高校の滑り止めで入学した人間がほとんどだ。元同級生からは同情を寄せられ、ひどい場合は親や塾の講師から、「努力不足だ」と面と向かってなじられた人間もいる。

 教室の棟まで違う。特進ばかり特別扱いされているように感じる。学力では勝てない。体育祭はむしろ、向こうはあまり乗り気ではないだろう。

 お互いにやる気を出して真剣に戦えるとしたら、合唱コンクールだけ。

「そういう連中を見返してやりたいって言えばよかったの!」

 肩が濡れるのがわかった。真紀は静かに涙を零している。彼女の頭をしばらく撫でて落ち着かせると、真紀は泣きながらも、皆の前に進み出た。

 すでに予鈴は鳴っている。次の授業の担当教師は、空気を読んだのか廊下で待っていてくれているようだ。

「ごめんなさい」

 小さな声だが、静まり返った教室の隅まで謝罪は届いた。

 真紀はずっと辛かったのだという。双子という最も近しい関係の人間から馬鹿にされ、親からも「由紀はできるのにねぇ……」と、溜息をつかれる日々。

「私だってできるんだってことを、合唱コンクールで証明したくて、みんなを巻き込んだの」

 それから真紀は教壇を降りて、矢倉の前に行った。

「矢倉さん」
「は、はい」
「ひどいこと言って、ごめんなさい……あなたが、あの後も一人で練習しているの、知ってる。ずっと努力してきたのに、私、本当に……!」

 泣きじゃくる真紀に、矢倉もまた涙目になって、「わ、私が下手なのは事実だし」と無理矢理微笑んでみせた。

 真紀は首を横に振る。それから今度は、森田のところに向かう。

「泉……」
「いいよ、真紀。私も冷静じゃなかった。それにこないだ、先生んとこに話を聞きに行ったんだ」

 森田は中学時代はソプラノで美しい声を披露していたが、本人も気づかないうちに声が低くなっていた。男子ほど劇的ではないが、女子にも声変わりがある。

「ソプラノパートにいること自体に本当は無理があるんだ、って言われちゃあ、仕方ないわ」「泉……ちゃんと説明しないで、ごめん」
「こっちこそ」

 二人が仲直りする様子を、河村が見守っている。朱音は真紀の肩を叩いた。ほら、指揮者。そんな気持ちで。

 中心になって何かを始めるのは、朱音の領分ではないから。

 真紀は深呼吸をして、皆に頭を下げる。

「私は、みんなで、やればできるってことを証明したい! 納得できないことはちゃんと話し合いましょう。至らない指揮者ですが……よろしくお願いします!」

 戸惑いの後、パラパラと上がった拍手が、やがて教室中に広がる。

 真紀は今、由紀には負けない大切な物を手に入れたに違いない。

 朱音はそう思い、目を閉じた。

 市民ホールで喝采を一身に受ける真紀の誇らしげな顔が、ぽわりと浮かんで弾けていった。

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