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<3話
ひらり手を振って教室を後にする。茅島さんは結局戻ってこなかった。たぶん、教室が無人になってから、こそこそと鞄を取りに戻ってくるに違いない。合わせる顔もないだろうから。
三階の教室を出て、早足で階段を降りる。一階の一番手前の教室に顔を出した。
「フーコ、お待たせ」
普通クラスの教室は、なんだかいつも、独特な匂いがする。花の匂いやシトラスの匂い、せっけんも混ざっている。
最初は、体育の授業後なのかと思った。制汗スプレーの種類まで決める校則はない。みんなが好きな香りのものを、好きなように使うので、なかなかカオスなことになって、窓を開け放たなければならない。
でも、それとは違う。甘くて、それでいて鼻につく、どこかで嗅いだ覚えがある匂いだった。
しばらく通ううちに、わかった。デパートの一階、化粧品売り場の匂いだ。子どもの頃は、そこを通るときには息を止めて早歩きをしていたくらい、苦手な空気だ。全身にまとわりついてくるような重さを伴う匂いだった。
風子はクラスメイトに囲まれていた。和気藹々とした雰囲気で、転校生だった当時の、ちょっと引かれていた風子からは、想像がつかない。
あの頃の風子は、一言で言うなら、痛い子だった。
小学校には登下校のための縦割り班があり、毎日じゃないけど、定期的に集団下校をしていた。
私と風子は同じ班。他にも友達が一緒だったし、隣の家に住む同い年の幼馴染みとも喋って歩いていたら、班長が「あれ? 天木さんは?」と、慌てて叫んだことがあった。
一緒に歩いていたはずの風子がいなくなっていて、低学年の子たちを無事に家に帰したあとで、四年生以上で探し回った。班長とはいえ、彼もまだ小学六年生。後輩が行方不明という事態に、半泣きになりながら探していた。
幸い、風子はすぐに見つかった。通学路から少し離れたところにある公園。事故防止のために撤去された、大きなブランコの跡地にしゃがみ込んでいた。
班長が声をかけても、彼女はずっと茂みを弄り回していた。その目はらんらんと輝いていて、真剣そのもの。そしてようやく目当てのものを「あった!」と、掲げた。
四つ葉のクローバーが握りしめられていた。それを見て、心配して探し回っていた全員が呆れ、脱力した。班長は、私がクラスで風子の面倒を見ていると知ると、全部を押しつけていった。
その後、風子の家に彼女を送り届けると、一緒に住んでいる祖父母は嬉しそうだった。ひとしきり感謝の言葉を述べたのち、「これからも風子のことをよろしくね」と頼まれた。
ほとんどの子どもが同じ学校に進学したため、中学でも風子は、遠巻きにされていた。彼女の祖父母に信頼され、学校生活のサポートをお願いされた私以外は、積極的に関わらない。
一歩間違えば、いじめ。そんな空気にも、風子はびくともしなかった。
ののちゃんがいてくれるから、学校は楽しい。
高校をここに決めたのは、風子の学力を考えた結果だった。普通科の偏差値は、特進とは十以上の差がある。
「ののちゃん!」
それぞれ色合いが微妙に異なる茶髪の子たちの間から、風子が顔を上げる。その有様を見て、私はぎょっとした。
「フーコ、それ……」
「えへへ。可愛い?」
にやにやしている風子は、いつもと違う。
唇はつやつやしたピンクだし、目元はラメでキラリと輝いて、まつげがいつもより長い。そんなわかりやすい変化だけじゃなくて、丸みを帯びた輪郭は、ややシャープになっている気がした。
どんな技術を使ったらこうなるのか。
私が絶句しているのを、プラスに解釈したのだろう。風子は何度も、私の口から「可愛い」と言わせようとするし、彼女のクラスメイトたちも、楽しそうにしている。
「フーコって、化粧映えしそうだなーって思ってたんだよね」
一仕事終えた、すっきりした様子の彼女たちに対し、私は風子をおもちゃにされたように感じて、気分が悪い。
「メイクは校則違反よ。あなたたちがルールから逸脱するのはどうでもいいけど、フーコを巻き込まないで」
凍りついた三人を放置して、私は風子を立たせた。鞄を代わりに持ってあげて、さっさと教室を出る。
「なにあれ!」
「感じ悪~」
背後でわぁわぁ言われても、痛くもかゆくもない。
ふん、と鼻息を荒くしつつも、平常心で立ち去る。
フーコが見上げてくる。いつもよりも大きな目が、しぱしぱ瞬く。黒く濃く縁取られている。
こんな顔の風子見たら、おばあちゃんは驚いて泣いちゃうし、おじいちゃんは怒るに違いない。
風子は自然な姿のままでいるのが、風子らしいんだから。
「コンビニ行ってメイク落とし買うよ」
「うん……ののちゃん、お化粧嫌い?」
潤んだ目に、ぷるぷるの唇が光る。転校してきたとき、美少女じゃないなんてそっぽを向いた連中が、今の風子を見たら、手のひらを返すだろうと思った。
私は明言を避けた。
「校則は、ちゃんと守らなきゃ。おばあちゃんが学校に呼び出しとかになったら、困るでしょ。最近、足も悪いんだし」
「……うん」
初めて買ったメイク落としシート。駅のベンチに座って、ゴシゴシと擦り落としていく。素顔の風子に戻っていくのを見て、安心した。
そう。風子はこうじゃなきゃ。
ちょっとぽっちゃりで、ほっぺたが丸くてふわふわ。美少女になれるポテンシャルはあるけど、地味で、ちょっと変わった女の子だからこそ、風子のことが好きなのだ。
帰りの電車に乗り込むときには、いつもの風子だった。顔がヒリヒリペタペタする、と言いながら触れて、笑う。
「化粧したことは、おばあちゃんたちには内緒にしておこうね」
風子はちょっと唇を尖らせたけれど、私がしばらく無言で見つめていると、微かに頷いた。
今日も一日平和でした。
おばあちゃんたちに、そう報告ができることに、肩の力を抜いた。
>5話
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