兄のココア

スポンサーリンク
短編小説

「なんで美術部は、男が入らんのかね」

 本人も美大出身の男である顧問の先生は、美術室の鍵を手渡しつつ、ぼやいた。

「さあ、なんででしょう」

 とぼけるけれど、理由は明白。見学に来た男子たちを放っておいて、女子だけで固まって、ひそひそと話をし続けていたからだ。

 トイレにひとりで行けないのかよ。

 そんな風に男子に馬鹿にされるけれど、そっちだって、ちょっと疎外感を与えられれば、逃げ出してしまう。女子とちっとも変わらない。

 一階の職員室から、三階の美術室へ。

 文化祭も終わり、三年生は引退した。先輩たちは「ちゃんと絵を描け」とうるさかったので、ようやく私たちの天下になって、清々した。

 毎日描く必要はない。発表までに一枚、間に合わせればいいのだ。

「遅いよー、真美まみ

 廊下に暖房設備はない。オタク気質な美術部員、スカート丈はみんな校則通りだが、すうすうと冷たい空気を防ぐほどの防御力はなく、みんなブルブル震えている。

「ごめんごめん」

 言いながら、鍵を開ける。真っ先にヒーターの電源をオンにして、暖まるまでの間、しばらく部屋の中を、何かの儀式のように歩き回った。

 大きめの机が脇によけられて、中央は空いている。モデルを呼んでデッサンをするわけではないので、このスペースに意味はない。たぶん、雰囲気づくりとか、そういうこと。

 空いているからといって、真ん中を陣取る性質の集まりではない。必要なものだけ鞄から取り出して、椅子を部屋の隅に集めて座る。

「あれ、今日は手ぶら?」

 部長の花梨かりんに見咎められて、ちょっと言い淀む。

「うん……ちょっとね」

 昨夜までは、私もみんなと同じように漫画や小説、自分であれこれ書きつけたノートを鞄に入れていた。

 でも、寝る前に全部、ゴミ袋に突っ込んできた。ゴミの日じゃないから、まだ部屋の中に転がっているけれど、早く捨ててしまいたい。

 本当は今日、この場に来るかどうかも迷った。昨日まで楽しく喋っていた私と、今ここにいる私は別人なのである。

 そっと椅子を引いて、輪から一歩外れた。不審がられることもなく、みんなはいつも通り、話を始める。

「昨日のドラマ見た?」「見た見た」「キスシーン、めっちゃ萌えたよね~」

 優芽ゆめのスケッチブックには、みんながハマっているドラマのワンシーンが模写されていた。

「えっろ……才能の塊かよ」

「ねー。茉莉也まりやくんマジ美形。天使」

「そしてそれに負けていない、片岡かたおか様イケメンすぎ……」

 きらきらしい名前の若手イケメン俳優と、年齢よりも渋く見える大人の魅力の俳優。ふたりがロマンチックな口づけを交わした、その一瞬を切り取ったイラスト。

 優芽はリアルの人間をイラストに落とし込むのが上手い。コミックタッチなのに、名前が書かれていなくても、「この人だ!」と、わかるほど。

「見てよ、真美。めっちゃうまくない?」

 黙って三人のお喋りを聞いていた私に、紗友さゆが振ってきた。この中では一番私と仲がいい。クラスも唯一同じだし。

 彼女に「見て見て」と誘われれば、覗き込むしかない。少女漫画のキスシーンを脳内再生して予防線を張り、私は優芽のイラストを見た。

 お腹の底から湧いてきて、喉の奥にぞわぞわとわだかまる、何か。感情なのか、それとも物理的な症状なのか、とっさには判断できない。

 苦しみから逃れるためにも、私は吐き出さなければならなかった。

「気持ち悪い」

 そう、気持ち悪い。男同士のキスシーン、その先にある肉体的な繋がり。

 教科書では男女のものしか取り上げられないけれど、男同士の(あるいは女同士の)セックスは、フィクションの世界にありふれている。中学生の私たちが、カジュアルに手に取れるくらいに。

 昨日までは、好きだったBL。美術室でいつものメンバー、興奮と萌えで暴れて、先生が注意をしにくるくらい、夢中だったのに。

 世界が一変するのに、たいしたきっかけはいらない。夢から覚め、現実と向き合うことになった私は、もうみんなの世界と交わることができない。

 口にして、もやもやしたものを名づけた瞬間、お腹の中へと戻っていく感覚がした。口の中にはまだ苦い味が残るけれど、それでも本当に嘔吐するよりは、はるかにマシだ。

 だが、落ち着いたのは私だけ。

「あ……」

 どう捉えるべきか、三人は迷っている。

 自分たちが愛するBLを「気持ち悪い」と言うなんて、ありえない。でもまさか……という顔。

 普通に怒ってくれたら、と思う。「キモいってなに」って言ってくれたら、もう無理になったんだってことを、打ち明けられる。でも三人は黙ったまま。

 だから私は、逃げる。

「ごめん。具合悪くなっちゃったから、帰るね!」

 私は鞄をひっつかんで、美術室を退散した。三人の顔を見る勇気はなかった。

 家に着くと、一番会いたくなかった人と顔を合わせてしまった。「げ」と、声には出さなかったが、顔には思い切り出てしまっていたのだろう。

 その人は、「お兄様に向かってなんだ、その顔は」と、顔をしかめた。もちろん本気じゃなくて、冗談めかして。

「バイト行ってくるわ。ピンチヒッター」

 聞いてもいないのに、勝手に話しかけてくる。私は無視して靴を脱ぎ、彼の横をすり抜けて、家の中に入ろうとする。

 そのまま出ていけばいいのに、彼は私の様子に敏感だ。昔から、体調が悪いことを隠しているときに、「どうした?」と、尋ねてくれるのは、母親よりも彼だった。

「なんか顔色悪いけど、大丈夫か?」

 頭をぽん、とされた。家族の触れ合いだから、ギリセーフと思っていそうだけど、世の中、イケメンにしか許されていない動作ナンバーワン。

 この人は、顔はそこそこ整ってはいるけれど、万人が認めるイケメンではないし、何よりも心底、気持ち悪い。

「やめてよ! 触らないで! キモい!」

 手を強く振り払い、声を上げる。あまりに大声だったせいで、母親が居間から顔を出した。不機嫌丸出しの私と、困惑している彼の顔を見た母のジャッジは、私の敗北判定。

「あんたねぇ。お兄ちゃんにキモいはないでしょう、キモいは」

「キモいもんは、キモい!」

 言い放って、自分の部屋へと直行。背後から追いかけてくる、母の怒鳴り声を「まぁまぁ、中学生なんてあんなもんだろ」と、宥めているのも嫌。

 もっと、他の家の男兄弟みたいに、母や私に対して粗暴に振る舞ってくれたらいいのに。

 これまでは、優しい兄を自慢に思っていたけれど、優しいということは、女性的ということにもつながるから。

 階段を昇って、ようやくたどり着いた部屋の中は、家族の誰とも違う、自分だけの匂いがして、安心した。

 そのままベッドの上に倒れ込んで、すべてを拒絶してしまいたい。でもそれをやったら、明日の朝、制服のスカートを見て後悔するに違いない。

 天秤にかけた結果、私はおとなしく部屋着になった。小学校のときから着ている、襟首がよれているTシャツだ。くたくたになった生地が気持ちいいのだ。 

 準備万端にして、ベッドダイブ。枕に顔を押しつけて、ぎゅっと目をつむる。暗闇の中に見える残像は、兄の顔。でも、さっきまで見ていたあの人の顔じゃない。

 昨夜見た、私の知らないひとの顔だ。

 昔の中学生は、リビングにしかテレビがなかったし、配信なんてものは存在しなかったから、深夜番組を見るのは大変だったらしい。 

 今の時代でよかった。テレビと同時配信で見られるし、自室でスマホで見られるから、親のことなんて気にしなくていい。

 仲間内で流行っているBL漫画が原作のドラマ。本当は見逃しでいいや、と思っているけれど、話についていけないのは困るから、リアタイする。

 そういうところは、昔の中学生と変わらないかも。

 大きなあくびをしつつ、眠ってしまわないように落書きをする。お気に入りの先生のイラストを模写して、写真撮影をして、トークグループに流す。すぐにスタンプで反応が返ってくる。

 返事が来なかったら、私も寝ようと思ったけど、無理そうだ。

「あ」

 楽しくお絵かきしていたら、シャーペンの芯がなくなった。筆箱の中から替え芯を探すけれど、間の悪いことに空っぽ。

 どうしよう。他のシャーペンでもいいんだけど、推しキャラのイメージカラーであるこれが、一番のお気に入り。これじゃないとやる気が出ない。

 他のやつから移そうか。でも、どれもこれも全然残っていなかった。タイミングが悪すぎる。

 隣の部屋にいるお兄ちゃんは、まだ帰ってきていないから、借りることもできない。

 ……うん、買いにいこう。明日でもいい気がするけれど、朝はギリギリまで寝てるし、忘れる可能性が高い。

 時刻は十一時過ぎ。コンビニは走れば一分もかからない。親に見つかれば怒られるだろうけど、父はもう寝室にいるし、母はドラマの録画に夢中になっている時間帯。なんとかなるはず。

 階段を音を立てずに下りて、スニーカーのかかとを踏み潰す。扉を静かに開けるのが至難の業だった。

 どうにか外に出て、コンビニまで走る。

 この時間帯にコンビニに来ることなんて、ほとんどない。夕方は感じのいいおばさんが立っているレジカウンターには、金髪ピアスのお兄さんが、あくびを噛み殺す気もなく、だらっと立っている。

 ちょっと怖い。でも、カウンターは動物園の檻みたいなもので、そこから出てきて襲いかかってくることはない。

 シャーペンの芯をゲットすると、安心したせいか、なんだかお腹が空いてきた。

 レジ前にはあたたかいフードが専用の機械に入っている。肉まんがフカフカで美味しそうだった。ドラマまでの時間つぶしに食べちゃおうか。いや、さすがに匂いで、親に外出がバレちゃうかもしれない。

 しばらく葛藤して、結局肉まんは買わなかった。その代わり、リプトンの五〇〇ミリリットルの紙パックを買う。ジュースみたいなマスカットフレーバー。秋限定のお気に入りだ。

 ストローだけもらって、コンビニを出る。帰りもなるべく急がないと。万が一、億が一、母親が私の部屋に様子を見に来る、なんてことも、ないとはいえない。

 小走りに家路を行く。チャプチャプと紙パックの中の液体が揺れる音がした。

 角を曲がると、駐車場がある。ちょうど車が入ってくるところで、ライトがまぶしくて立ち止まる。

 停まった車の中から出てきた人を見て、私は身を隠した。

 お兄ちゃん。

 日付はまだ変わっていないけれど、こんな夜中に出歩いたのがバレたら、いかに妹に激甘なお兄ちゃんでも、怒るだろう。

 普段優しくて、私に怒声を上げることのない兄に、完全に自業自得だとしても、怒鳴られたら心臓が縮こまってしまう。

 だから、隠れる。お兄ちゃんが家に入ってから、タイミングを見計らって私も侵入。

 よし。これでいこう。

 息をひそめて観察する。兄が運転手に手を振って、車から離れようとした。そっと後を追おうとしたけれど、「かおる」と、運転席の人物が兄を呼んだらしく、おっと、と身を翻す。

 窓を開けた運転手は、大学生の兄よりも年上の男の人だった。イケオジって感じ。

 どういう知り合いだろう。バイト先はチェーン店の居酒屋だし、上司でもなければ、お客さんでもないだろう。こんなオシャレな人と知り合う可能性は低い。

 兄は運転席の男の人と喋っている。距離があるのと、道路の車の走行音で、内容までは聞き取れないが、時折高い笑い声が聞こえるので、仲がいいんだな、と思った。

 それにしても、早く帰ってくれないかな。私がここから動けないんですけど。

 ぼーっと眺めているのも手持ち無沙汰で、私は紙パックにストローをさした。一口飲んで、甘さとブドウの爽やかな酸味が口の中を満たすのを感じながら、私は兄たちを見つめる。

 兄の無邪気な横顔が、ふと色を変える。口内の甘さが、紅茶の苦さに変わっていく。

 言葉にするのは難しかった。

 それは私が、恋をしたことがなかったからかもしれない。

 口を閉ざした兄は、じっと男の顔を見つめた。男の方も、よく見えないけれど、兄のことを、目を細めて見ている。

「えっ」

 一瞬の光景が、目に焼きついた。指先から力が抜けて、中身がたくさん入っていた紙パックを落とした。スニーカーが濡れるけれど、そんなことよりも。

 事故じゃない。故意だ。唇同士がくっついて、その行為の意味を理解できなかった。

 なんで? え? キス?

 先週のドラマのクライマックスシーンを思い出す。年上の彼氏とすれ違った主人公が、かんしゃくを起こして涙をこぼしたところで、キスをされていた。

 兄と運転手は、ドラマと同じことをしている。

 ドラマから、原作漫画に連想が飛ぶ。キスのその先も、ばっちり描かれていた。みんなとは、「エロいエロい」と盛り上がったし、ドラマではどこまでするんだろう、って議論を闘わせた。

「う」

 兄のそういうところ、しかも男同士なんて、想像したくなかった。吐き気がして、私は熱烈なキスを交わすカップルの横を猛スピードで通り抜け、家に駆け込んだ。

「ん? 薫……じゃなくて、真美? あんた、こんな時間に何してんの!」

 音を立てて扉を開け閉めしたせいで、母が居間から出てきてしまった。叫ばれたけれど、無視して立てこもった。

 本棚に入っている、カラフルで可愛い背表紙の漫画や小説が全部、気持ち悪くて気持ち悪くて……夜遅い時間だというのに、ゴミ箱の中に全部突っ込んだ。

 部屋の外では、兄が帰ってきたようで、母と喋っている。

「真美にもいろいろあるんだろうからさ、今日のところはそっとしておいてあげようよ」   

 と、母に言い聞かせている。

 キスしたばかりの、その口で。

 ゴミ箱に放り込むだけじゃ足りなくて、ページを破った。本当は、背表紙のところから引きちぎってやりたかったけれど、非力な私には、できなかった。

「昨日はごめんね。急に帰っちゃって」

 美術室に集まったいつものメンバーに、私は頭を下げた。

 思わずこぼした「気持ち悪い」は、実写BLドラマについてじゃなくて、体調不良。そう解釈してくれた三人は、むしろ昨日の今日で登校してきたことを、心配した。

「無理しないで、今日も早く帰りなよ?」

「うん」

 花梨の言葉に、私は頷く。彼女たちは、今日も飽きずに、きゃいきゃいと漫画に描かれていないシーンを妄想して盛り上がる。

 やっぱり私は、BLに拒否感が出てしまって、薄目で相づちを打つだけにとどめていた。あんまりたくさん言葉を発することはなくても、体調が万全ではないのだと勝手に思い込んでくれるので、ありがたい。

 しばらく元気がないフリでもしようか。いや、フリではなく、本当にどうしたらいいのかわからないから、これからも黙るシーンは、必然的に多くなるのだろう。

 この間までは、私もこの輪の中に入っていたのにな。どうしてBLでこれだけ盛り上がることができるのか、今は不思議で仕方ない。

「ねえ、もしもさぁ」

 黙って笑っていた私が、今日初めての話題を提供したため、みんなの目が集中する。

 いや、そんな風に見られても。たいした話じゃなくて、興味本位で聞いてみようと思っただけだし。

 私が兄のことを許せないのは、BLオタクとしてのレベルが低いせいなのかもしれない。こうやって盛り上がっている友人たちならば、知り合いが男同士でキスしたりしていても、平気なのかも。

「兄弟や友達が、そういうことしてたら、どう思う?」

 指さした漫画は、私もすでに読んでいた。今はゴミ箱の中に眠っている。

 表紙のふたりは服を着ているし、ベタベタきわどいところに触れているわけじゃないが、中身はけっこうエロかったことを覚えている。

思い出したらまた吐き気がこみ上げてきそうなので、なるべく思考をパッと散らす。

 真っ先に反応したのは、優芽。

「えー? リアルBL? 根掘り葉掘り聞いて、ネタにするわ」

 ペンをさらさら走らせる彼女は、「早く高校卒業したい」が口癖だ。中学すら出ていないのに。漫画を読んだり書いたりが好きで、自分でも同人誌をつくりたい、と思っている。

「ネタにするのは、ちょっとまずいんじゃない? 少なくとも許可を取らないと」

 紗友が軽く注意すると、優芽は「もしもの話でしょー?」と、返す。私にとってはリアルの話だ。

 兄とその恋人がモデルになったBL漫画……そんなもの、この世にあってはいけない。燃やす。

 私の顔色を読んだ花梨が、不愉快そうに眉を寄せている。

「ねぇ、真美。あんたもしかして、リアルゲイは気持ち悪いと思ってるの? ダメだよ、差別は」

 そこからは花梨の独壇場だった。

 曰く、BL愛好家は実在のゲイについてもあれこれ知るべき。その苦しみや悩みに寄り添ってあげられるのは、ノンケの男友達よりも、私たちBLファンだ、とのこと。

 私に反論の余地を与えることもなく、延々と語り続けるため、私は「うん、そうだね。差別はよくないよね」と、棒読みで賛同して、満足するのを待つだけだった。

 そんな感じで五時になるまで過ごして、チャイムに背中を押されて帰ることになる。優芽と花梨は、帰りに本屋に寄っていこうと盛り上がっている。後ろからついていく私の袖を、紗友が引っ張った。

「どうしたの?」

「うん。さっきは言えなかったんだけど」

 紗友は言いづらそうに、けれどはっきりと言った。

「私もね、三次元BLには興味ないんだよね。どんなにイケメンでも。やっぱりBLは、二次元に限るっていうかさ」

 花梨の手前、口を噤んでいた。

「だから本当は、ドラマもあんまり……ね」

 あくまでもフィクションだから、いくらイケメンとはいえ、実写はいらないと思っている彼女。

 実際こういう状況になるまで、どんな気持ちで私たちの会話に入ってきていたのかなんて、考えることもなかった。

「そっか……」

「うん。まぁでもほら、自分の萌えは他人の萎えって言葉も昔からあるしさ。真美も自分の萌え、貫けばいいんじゃないかな」

 慰めてくれる紗友には悪いけれど、違うんだ。

 ドラマに乗り気になれないことを悩んでいるんじゃない。

 でも、「例えば」の話から始めたことを、ムキになってあれこれ反論するのはボロが出そうで、私は「そうだね」と、頷いた。

 私が兄のキスシーンを見て、「気持ち悪い」と感じたことは、どうやら世間では悪と言えるらしい。花梨の過剰な説教もそうだけど、SNSではLGBT差別と戦う人たちがたくさんいる。

『信じて打ち明けた友達によって、勝手にばらされた』

『ゲイだとカミングアウトしたら、迫られたと嘘を吹聴された』

 経験談を、「それはひどい」「いけないことだ」と感じることはできる。けれどそれは、他人事なせいだ。

 血の繋がった兄の話は、当事者ではないけれど、知らない誰かの話でもない。

 身内がLGBTだった……という視点で書かれた体験談も、なくはない。でも、私みたいに気持ち悪いとネガティブな意見を持つのは、少数派。

『マジでキモい。なんであんな風に生まれたの?』

 さすがにひどいが、「気持ち悪い」という点では、私と同じ意見だ。

 当然、コメントで叩かれていて、その言葉ひとつひとつが、私の心にも刺さる。

 明日も学校なのに、眠れない。ベッドの中で目を閉じても、睡魔はやってこない。

 私は頭をかきむしって、ひとまず部屋を出た。深夜二時。さすがに母親も、眠りについている。

 ホットミルクでも飲めば、眠れるだろうか。いや、むしろコーヒーで一晩中起きていた方がいい?

 台所に入った瞬間、息が止まるかと思った。

「真美? 寝れないのか?」

 心配そうな声に、「お兄ちゃんのせいだよ」とは、言えなかった。

 だんまりになった私に、手を伸ばそうとした兄は、すぐに動きを止めた。昨日、触れられてキレた私のことを思い出したんだろう。

 伸ばして引っ込めて、なんだか大昔の芸人の一発ギャグみたいだ。

 まともに顔を見ることのできない私に、それでも兄は優しい。

「ココア飲むか?」

 首を横に振る。

「自分でやる」

 本当は、作ってもらいたかった。お兄ちゃんのつくるココアは、自分がつくるのとは違うのだ。同じ森永なのに、マグカップの底に残らない。

 少し寂しそうな顔をした兄は、私が横に立つと、微笑みを浮かべた。カチャカチャと食器が音を立てる。突然の深夜のお茶会に、兄は鼻歌混じりでご機嫌だ。

 どうして兄は、ゲイなんだろう。そういう人たちって、みんな東京に行くもんじゃないのかな。

 別に家から出さない! って、父が反対したわけじゃない。兄は学校の成績がよかったから、どこにだって行けたはず。

 この辺は、県内では栄えている方だ。住宅地として売り出されたのは、兄が生まれた頃のことらしいから、そこまで田舎っぽくはない。

 それでもやっぱり、古い価値観に支配されている土地だということを、中学生の私であっても、思い知らされることがある。

 例えば、女の子がそんなに勉強してどうするんだ、とか。

親は何も言わないけれど、開発前から住んでいるらしい地主っぽいおうちのおばあさんは、面と向かって言う。

 就職して家を出て。結婚して子どもを産んで、たまに実家に戻ってくる。

 これができてこそ、一人前だという風潮が、確かにこの場所には根づいている。

 男なのに男が好きだとか、そういうことはとうてい、受け入れられない。私が「キモい」と思わなくても、兄は異分子として排除されることが、決まっている。

 できあがったココアを一口。やっぱりなんだか味が違う。表情を読んだ兄は笑って、私のカップと自分のものを交換してくれた。

「ねぇ、お兄ちゃん」

 久しぶりに呼んだ。椅子に腰を下ろし、嬉しそうに、「ん?」と、先を促す兄に、私は残酷な質問をする。

「どうして、男の人じゃないとダメなの」

 ぽかん、と口を開けた。そしてみるみるうちに、青くなる。

 ああ、あんなに近くを横切っていたのに、私が見ていたって、気づいていなかった。滑稽な兄に、緊迫したこの場面に、なぜか笑いそうになる。

 言い訳のひとつやふたつ、あるだろうと思った。

 大学にいる間だけだよ。興味本位だよ、ほら、お前の部屋に男同士で付き合う漫画あっただろ。本気なんかじゃないよ。おじさんにお金出してもらって、ラクしてるだけ。本当は、本命の女の子が別にいるんだ……。

 でも、何も言わなかった。顔色は悪いし、一生懸命に言葉を絞りだそうとしている。

 深呼吸をして気持ちを落ち着けた兄は、背中をぴん、と伸ばして胸を張った。強がりだということが、丸わかりの態度だった。

「どうしてだろうね」

 ああ、本気なんだ。

 お兄ちゃんは年上のあのひとのこと、本当に本当に、大好きなんだ。

 私のまだ知らない、「愛している」という感情で、兄は少しずつ、覚悟を決めているところなのだ。

 二度とこの町に、この家に戻ってこられないかもしれないこと。私たちと縁を切ることになるかもしれないこと。

 一生、自分の生まれもった性質と付き合っていかなければならないこと。

「気持ち悪くてごめんね」

 お兄ちゃんに謝罪されて、私は鼻がツンとして、目が熱くなるのを感じた。

 どうして、兄が謝るのか。悪いのは、「気持ち悪い」と思ってしまう、私の方。女の人と結婚できないからって、冷たい目を向ける人の方なのに。

 首を横に振る。私は「こっちこそごめん」の一言すら言えずに、ただ涙を我慢するだけ。

 ここで泣いたら、本当に、お兄ちゃんを一方的に悪者にするだけの、ダメな妹になってしまう。

 許してほしいと、兄は言わない。許すも許さないもないのだ。恋愛は、自由。頭ではわかっていても、感情はついていかない。

 私は兄のつくってくれたココアを、一口飲んだ。舌に残らない、滑らかな液体の甘さは、前からお兄ちゃんがつくってくれるものと、まるで変わらなくて、それがまた一層泣けた。

                 

 

ランキング参加中!
にほんブログ村 BL・GL・TLブログ BL小説へ
にほんブログ村 小説ブログ 小説家志望へ
にほんブログ村 BL・GL・TLブログ BL小説家志望へ



コメント

タイトルとURLをコピーしました