それは、一人の女だった。私は棒立ちになり、一歩も動けないまま息を呑み、見つめていた。
彼女は豊満な肉体のすべてを露わにしていた。一糸纏わぬ女など、私は人生の中で母以外に見たことはなかったし、それすら幼い頃の記憶を掘り起こさなければ出てこない映像だ。
じっと見つめると溜息が知らず、漏れる。唇から吐き出された息のあまりの熱さに、私は密かに、この開けた場所で欲情しているのだということを悟った。
女は取り立てて美しいというわけではないだろう。乳房は大きいが、その分下腹も出っ張っている。
太腿は細い女のウェストくらいあって、それなのに足首だけ細いのがアンバランスだった。
クラスメイトが自慢げに「足首が細い女はアソコもきゅっと締まってるんだぜ」と聞きかじりの知識を披露していたのを、なんとはなしに思い出した。
顔の美醜は問題にはならない。なぜならば女には、顔そのものが存在しない。彼女は生きておらず、一枚の絵に過ぎない。
ボールペンで描かれたドローイングだが、黒一色ではなく、赤も使われていた。ただ一か所のみに。
赤い断面に私の目は釘付けになる。はみ出た白との対比で、赤い血潮の色は映える。
興味本位で一緒に行った友人たちは、すでに画廊を退出していた。表にある喫茶店で休んでいるという。
「お前、よくあんな悪趣味なところにいれんね」
私は何も答えずに、注文したホットドッグにかじりついた。ケチャップの赤が白い皿に付着していた。
画廊を借り切って展示を行っていたのは、友人の言葉を借りるならば、「悪趣味な」コレクターだった。
残りの期間中も、毎日放課後通っていると、コレクター本人に声をかけられた。品よく髭をまとめ上げた小柄な老人だった。
「絵がお好きですか?」
半世紀以上年下である私に対して、彼は丁寧な言葉を使った。いいえ、別にと答えると、彼は喜んだ。
「では、彼らの描いた絵や、手紙はお好きですか?」
その問いに対して私は何も言えなかった。勝手に老人は私の沈黙を解釈して、微笑んでいる。
「彼らは負のエネルギーは現実世界を傷つけ、損なってきました。そんな彼らの創り出す世界が私たちを惹きつけるのは、面白いことですね」
私は再び、例の女を見つめた。顔のない女。断面はよく見ると、歪な形をしている。
実際に切り落としたことがある人間にしか描くことのできないという、現実的な側面を、その切り口に私は見た。
老人、S氏と私の交流は続いた。集めているものが切手や骨董品であれば、彼の名前を明かすこともやぶさかではないが、彼の蒐集しているものを考えると、名を出すのは得策ではない。
S氏が集め、あの日私が画廊で感銘を受けた作品のすべては、シリアルキラーが獄中で描き、創り出したものだ。
世間の人々は眉を顰めるだろうが、ある種の人間を惹きつける力のある作品群。そのコレクターは、欧米には多いが日本にはあまりいない。
よく見ないと気がつかないことだが、S氏は左指の小指の先がなかった。
不躾にまじまじと欠損を見つめていた私に対して、S氏は気を悪くすることはなかった。
画廊に展示しなかった、より過激な、より暗い欲望を全面に押し出した作品の数々を、S氏は私に見せてくれた。私はそれらを何時間でも見ていられた。
殺人鬼たちの作品を一室に集めても、まだS氏の家には部屋がたくさん余っていたので、豪邸だったのだと思う。
それも今から思えばの話で、当時の私にとっては、禍々しい美術品を見ることが何よりも重要であり、入れ物には何の興味もなかった。
S氏はその立派な家に、一人で住んでいた。通いの家政婦はいたようだが、私は一度も見たことがなかった。
私にとってはS氏は師であり、優しい老紳士であったが、家族にとってはそうではなかったのかもしれない。そう思ったのは、S氏が亡くなったときだった。
彼の葬儀には私も参列した。資産家であるS氏の見送りには、多くの人々が集まっていて、驚いた。
私の知るS氏は孤独を愛する老人だった。こんなにも交流を持っていたことが、意外だった。
彼は一人暮らしであったが、天涯孤独という訳ではなかった。喪主を務めていたのは、S氏の長男だった。
五十歳は過ぎているだろう、髪に白いものが混じった長男は、S氏にはあまり似ていない、険しい顔をしていた。
眉間に寄せられた皺が悲しみによるものだとは、思わなかった。
見送りを終えて帰ろうとした私を呼び止めたのは、ふくよかな女だった。名前を聞いて、彼女がS氏の長女だということを知る。
私を見る彼女の目つきは鋭かった。学生服で、老人を見送る私を疑っていた。曰く、「あんた、父さんの隠し子?」と詰問してきたのである。
いいえ、と私は応えるが、彼女は憤慨を隠さなかった。
「なら、どうしてあんたみたいな子供がこんなところに来るのよ」
「趣味が合ったので、声をかけてもらっただけです」
その場はそれで収まったのだが、S氏の遺言状を開いた後に、また彼女とは揉めた。S氏は私に対して、コレクションのすべてを寄贈すると遺したのだ。
S氏の長女、それから長男や彼らの家族はS氏の蒐集した美術品の数々に嫌悪感しか示さなかった。
それでも理解してくれればよかたのだが、強く反発し、否定した。いくつか捨てられた物もあるらしいことを、生前のS氏はほのめかしていた。
それなのにS氏の集めていた殺人鬼の作品群は高額で売れると知って、私に遺した彼の想いまで踏みにじろうとした。
恫喝し、かと思えば猫撫で声で三十以上年下の私に媚びる。
吐き気がする。他の遺産はすべて彼らのものになるのに、ささやかな贈り物まで奪おうというのか。
親に「絶対に渡すつもりはない」と相談し、間に弁護士を入れて、最終的にS氏の遺志は尊重されることになった。
「あの人は私たちに何もしてくれなかったわ! それなのに遺産まで……!」
喚いているS氏の長女の唇は赤かった。脂肪の塊に違いない肉体を揺らして去っていく彼女の足首を見ると、異様なほど細かった。
さて、S氏が遺したのは絵画作品だけではなかった。もっと大事なものを私に手渡していた。
譲り受けた絵の額の中に、何通もの手紙が入っていた。私に対するものではない。S氏が誰かから受け取ったものだ。
これも私に対する贈り物だと直感した。表記は英語であったが、私でも読み取れるような平易なブロック体であった。
送り主はジョー・ブルース。彼の住所は、アメリカにある刑務所だった。
私はインターネットで「ジョー・ブルース」の名前を検索した。簡単に彼の犯した罪は見つかった。
老若男女問わずに、数十名の人間を殺害した、正真正銘の殺人鬼だ。
ジョー・ブルース。逮捕時三十六歳。彼が最初の殺人に手を染めたのは、十の時だった。隣に住んでいた幼馴染の少女・メアリーの首を絞めた。
殺人はすぐに露見した。ジョーは動機をこう語った。
「とてもきれいだったから」
と。
病院送りになったジョー・ブルースはその後治療を行い、「まとも」になった。そう思われていた。
しかし彼は、高い知能指数によって、治ったと周囲に思わせていただけだった。
二十歳を過ぎた彼は殺人の旅を始める。西海岸から東海岸へ。名前を隠し、数か月住み着く間に人を殺す。
殺して四肢を切断して、滑稽な形に並び替える。そして必ず、死体の一部を切り取り、持ち帰った。
いけにえを選ぶ基準は明確だった。三つ子の魂百まで。彼は何も変わらない。
「美しいものは永久にとどめなければならない。けれど生きていれば老いて、美しさは失われてしまう。それは人類にとって、大きな損失だ!」
とは、逮捕後に弁護士に語った、彼の哲学である。
一般的には不細工に属するような顔立ちの女であっても、唇が肉感的で人々を誘惑する、誰よりも滑らかな肌をしている、そういう理由で彼は殺した。
一番好んだやり方は、銃殺だ。人当たりのよい笑顔で接し、ベッドルームへとエスコートする。
ジョー・ブルースは整った容貌だった。彼に誘われれば女性は勿論、その気のある男性も、簡単についていった。
ベッドに寝転んだ被害者たちの頭に、彼は枕を押し付けた。驚いた彼らが一瞬動きを止めた瞬間に、拳銃で二発、発砲する。
ジョー・ブルースはレイプはしなかった。死姦もしなかった。彼は頭がよかった。精液をはじめとした体液から脚が付くのを恐れていた。
その代わり、彼は死体の一部を持ち去ったのだ。目が美しいと思ったのならば、眼球を抉り、爪の形が愛らしいと思ったのならば、爪をはがして持っていった。
彼が性行為に耽るのはそれからだ。持ち帰った遺物を聖なる物として崇め、疑似的なセックスをして愛し合った。
けれど逮捕後、部屋からは彼の蒐集した肉の破片はひとつも見つからなかった。なぜか。
「彼らの美は私の中で永久に生き続けるのだよ」
この言葉に、その謎の答えは見いだせるだろう。
私はジョー・ブルースに熱中した。というのも、S氏が彼から受け取っていた手紙の隅には、いつも簡単なイラストが描かれていた。
時にはリアルな造形の人形の瞳。あるいはデフォルメされた惨殺死体。鳥を思い出して描いてみた、と言い訳された、簡略化したインコと思われる静物。
そのひとつひとつに私は興奮した。額装されるのが当たり前だと思っていた世界が、掌の中にある。
私はS氏のような莫大な資産を持つ家の生まれではない。通っている高校も有名ではなく、進学校でもない。
大学に進学し、就職をしたとしても、S氏のように次々と作品を購入できるほどの裕福な暮らしはできないだろうことは、明白だった。
だから新たなコレクションを増やすことは夢のまた夢であった。
だが、ジョー・ブルースと文通をして、素朴なデッサンを手に入れることならば、私にもできるのではないだろうか。
英語は不得手であった。彼からS氏にあてた手紙を辞書を引きながらすべて読んだ。
そして今度は和英辞書を引き、私はジョー・ブルースへの手紙を苦労して書きあげた。
『親愛なるミスター・ブルース。
あなたとずっと文通をしていたS氏は、先月亡くなりました。私はまだ高校生ですが、S氏とは趣味を通じて知り合い、遺産の一部としてあなたからの手紙も譲り受けた者です。
S氏と私の趣味は、殺人鬼の描いた絵を眺めることです。あなたのような、殺人鬼です。彼のコレクションはすべて、私が受け継ぎました。
もしあなたが嫌でなければ、S氏の代わりに私と、手紙のやりとりをしてもらえないでしょうか。
英語がへたでごめんなさい。私は英語が得意ではありません』
手紙を書きあげて、私は少し悩んで、住所は自宅のものにしたが、差出人の名前はS氏とした。
返事は一月半後だった。はやる気持ちを押さえられず、エアメールの封を手でちぎり取った。
『親愛なるA(私のイニシャルだ。私自身、殺人鬼の絵を集めるのが趣味というのは、世間から白い目で見られるのはわかっているので、名を明かすことは勘弁していただきたい)
初めまして。丁寧な手紙をありがとう。Sのことは残念だった。彼は私のいい友人だった。とてもね。
ぜひとも君とは、Sとの思い出話をしたいものだ。次からは君の名前で送ってきてくれ。必ず返事をしよう。
ジョー・ブルース』
それから私は一生懸命に辞書を片手に、手紙を送り続けた。
『親愛なるジョー
私は高校を卒業し、大学生となりました。あなたとの文通で英語が好きになったので、英米文学を学べる学科に進学しました。
S氏から譲り受けたあなたの絵に、女性の絵があります……』
手紙を書く手を止めて、私はその絵を見た。手紙の字と違う、ぎりぎり読めるかどうかという崩れた筆記体でのサインから、それが彼の作品だということを知った。
女は横たわっている。ギリシャ女神のドレスを着た、美しい女だ。ただし、その顔は、黒いクレヨンでぐしゃぐしゃに塗りつぶされている。
なぜ美しいとわかるか。明らかに異彩を放っているパーツがあったからだ。彼女の腕に抱かれた、白く、肉の筋のひとつひとつまで見えるような脚だ。
紛れもなく死んでいる。そして私は、彼の「美しいものは永久にとどめるべきだ」とう信念を思い出す。
『……あの、腕に抱かれた脚。とても美しい。街には太腿まで露わにした女性がたくさん歩いているけれども、あんなに美しい脚は、見たことがありません。
この女性は、あなたの想像ですか? それとも……ああ、ごめんなさい。余計なことを聞きました。
とにかく、あなたのアートの中に出てくる人物は、女性も、男性も非常に美しい。私の心を強く惹きつけてやまないのです』
『マイリトルボーイ(彼は時折、私のことをこう呼ぶようになっていた。彼は当時すでに五十を超えていたから、私のことをそう呼んでもおかしくない)
高校卒業おめでとう。日本はそういえば、四月に入学式があるのだったね。Sは桜の花が好きだと言っていた。君も好きかい?
私は花ならば、薔薇が好きだ。厚い花びらで、匂いの強い、赤い……真っ赤な……真紅の……想像するだけで、くらくらするような、ね。
ああ、あの絵か。あれは、デボラだよ』
デボラ。ジョー・ブルースの名とともに検索すると、すぐにそれが彼の殺した女だということがわかった。
欠損部位は両足だった。そして今も当然、見つかっていない。
私はもう一度、その絵をじっくりと見つめた。デボラ。名前を呼ぶと、彼女の抱えた脚は、より一層生々しく映った。
私は学生生活の折々に感じたことを、ジョー・ブルースへの手紙にしたためることにしていた。彼は学校へと通ったことがほとんどない。
連続殺人鬼の情報を載せているサイトによれば、義務教育すら怪しいという。
しかし、彼の手紙は間違った言葉の使い方をしていない。英米文学を学ぶようになって過去の手紙も見直したが、ウィットに富み、韻を踏んだ言い回しを好んでいて、知性に満ちている。
おそらく、私や、大部分の日本の学生よりも学問をするに値する人間だった。けれども彼は一生刑務所から出ることはないから、私が大学生活の詳細を送ると、とても喜ぶ。
『A。君は最高の友だ。Sも私にとっては大切な友人だったが、彼は私よりも年上だったから、少しばかり説教臭くてね。
私は君の顔を知らないが、きっと美しいのだろうと思う。そう、君の手紙には素直さが満ちている。そしてとても、知的だ。そういう顔をしているのだろう』
その手紙の最後に、想像の中の私なのであろう、少年の横顔が描かれていた。私は歓喜のあまりに、涙した。
ようやく、私だけのコレクションが手に入った。S氏からのおさがりではなく、私に対してだけ描かれた、ジョー・ブルースのアートワークだ。しかも、私の顔!
無論私はこんなに鼻も高くないし、頬にはニキビの跡が残って消えない。けれどもジョー・ブルースに美しいと思ってもらいたくて、反論をしなかった。
美しいということは、彼に殺してもらえるということ。彼の作品になれるということだ。
以来彼は、S氏宛の手紙と同じように片隅に簡単なデッサンを描きつけて送ってくるようになった。破れないようにラミネート加工を施した。私だけの宝物だ。
それから私は大学を卒業し、就職をした。コレクションのための金が欲しくて株取引に手を出したら、才能があったようで、オークションでいくつかの作品を落札するための資金となった。
自分の力で手に入れた絵画は勿論愛しい。S氏から譲りうけたものよりも。けれど一番はやはり、ずっと文通を続けているジョー・ブルースの私に対してだけ宛てたイラストだった。
ジョーの描く世界は私のすべてだった。悩み事も、すべてジョーに相談をした。彼は私を肯定してくれる。それが心地よかった。
三十を手前にして、私は会社を辞めた。株だけで生活をできるようになった。コレクションのための部屋を借りることもできるようになった。
けれどどこか、物足りなかった。オークションサイトを覗いてみても、気乗りしなかった。日曜芸術家の域をはるかに超えた素晴らしい作品であっても。
『ジョー・ブルース。教えてください。あなたは元々、絵画に優れていたのですか? それとも、収監されてから、その才能を目覚めさせたのですか?』
『私は別に、今でも素晴らしい画家ではないよ、A。プロから見れば素人のお遊びさ。筆を執ったのは、刑務所に入れられてからだ』
ジョー・ブルースの作品は、緻密だ。特に彼が最も美しいと思ったパーツに至っては、まるで生きているような瑞々しさがある。
そのパーツひとつひとつに、私の目は釘付けになる。
『それではジョー・ブルース。あなた方は人を殺したことによって、芸術的才能を開花させたということですか? 人を殺せば殺すほど、色彩豊かに、表現力豊かになっていくのですか』
『それはどうだろうね、A……私には答えることができない問いだ』
日本の刑務所は欧米諸国の刑務所のような自由さはない。勤労以外の自由な創作活動など、許されていない。
『ジョー・ブルース。日本にはあなた方のようなアーティストはいません。日本の刑務所は規制が厳しいのもありますが、もしも自由にアートを創作できたとしても、アーティストは存在しないと思います。なぜでしょうか』
『A。すでにその問いに、君は答えを出しているのだろう?』
ジョー・ブルースは私のことをすべて、見透かしている。喉の奥から引きつった笑いが漏れる。
日本には殺人者は多くいても、殺人鬼、シリアル・キラーと呼ばれる存在はほとんどいない。無差別殺人者はいても、たいていは「死刑になりたかった」という身勝手な理由で犯行を行っている。
アーティストになれる殺人者には、独自の美学が必要だ。
『親愛なるジョー・ブルース。
私は絵など描いたことはない。いや、あなた方の絵を見て絵筆を執ったことはあるが、まるで物にならなかったのです。
そんな私でも、偉大なアーティストになれるでしょうか』
『A。大丈夫だ。自信を持ちなさい。最初はみんな、下手だ。けれど、芸術とはもはや、技術ではない。
私は君の絵を、楽しみにしているよ』
ジョー・ブルースからの返事を見て、私はナイフを手にした。目を閉じて美しいものを思い浮かべる。
真っ先に見えたのは、女の細い足首だった。
『ジョー・ブルース。あなたに感謝します。そして、あなたと会わせてくれたS氏にも。
あなたのようなアーティストが日本にいないのは、美学を持った人間がいないからです。
今、私は長年のあなたとの文通によって、自分なりの美学を持ちました。見ていてください、ジョー・ブルース。
私はあなたと同じもの』
三十以上年下の日本人のペンパルからの、最後の手紙を読んで、私は笑った。
同房の男が「ジョー? 何か楽しいことでもあったか?」と声をかけてきたので、こう答えてやる。
「私のコレクションに、新しい作品が加わるんだよ」
願わくは、長く捕まらないでいてほしいものだ、A。たくさんの美を永遠のものとして蒐集しておくれ。
私の代わりに。
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