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<30話
「それではベリル様、参りましょう」
差し出された手を取ろうとしたら、見送りにやってきたシルヴェステルによって阻まれた。彼の手は、人間の手より断然大きく、力強い。ぎゅう、と思いきり力を込めて握られて、ジョゼフは悲鳴を上げた。
「陛下。それ以上すると、骨が折れてしまいます」
ベリルが助け船を出すのも気に入らないとばかりにジョゼフを睨みつけ、ふん! と、シルヴェステルは不機嫌そうに、渋々手を離した。真っ赤になった手を振りながら、ジョゼフは悶絶している。
ジョゼフも一緒に街に下りると知った瞬間のシルヴェステルの憤怒といったら、思い出したくない。ギラギラと目を光らせ、風もないのに長い髪が逆立っていた。
あの男が行くなら私も行くと主張したが、さすがに竜王がお忍びで城下町に遊びに行くとなると、警備体制の見直しをはじめ、準備が必要である。とてもじゃないが一日でどうにかなるはずもなく、シルヴェステルをどうにか宥め、諦めてもらった。
ジョゼフは下町の案内係である。今でこそ不測の事態に対応できるように、後宮のすぐ横の使用人屋敷の一室に暮らしているが、彼は上京してからずっと、下町のぼろ長屋暮らしであった。観光すべき場所も、危険だから近づかない方がいい場所も知り尽くしている。
「陛下。お小遣い、ありがとうございます」
「なに。本来組まれている予算が余っているからな。存分に使ってくるといい」
後宮に妃がいようがいまいが、予算は毎年計上されている。妃の趣味に合わせて調度品を揃えたり、女性であれば競うように購入する宝飾品やドレスの類を購入するための費用だが、ベリルはどちらも興味がなかった。
庶民の金銭感覚も、知識としては頭に入っている。下町の買い物にはどう考えても多いだろうという小遣いを持たされた。おそらく使い切ることはできないだろう。
「お土産買ってきますね」
思わず、「いい子にしててくださいね」と言いかけて、慌てて口を噤む。尖った唇に何を考えたのか、シルヴェステルがキスをしてきた。人前でなんて、はしたない。離れた瞬間にジョゼフを振り返ると、何も見ていません! という顔でそっぽを向いていた。
名残惜しそうにしているシルヴェステルから離れ、ベリルは今度こそ、馬車に乗り込んだ。
王都・ドランと一口に言っても、城の近辺は貴族たちの邸宅が並んでいる。変わり映えしない、どれも似たり寄ったりの屋敷ばかりで、見るべきものは何もない。
「ベリル様、朝食は?」
「抜いた! ジョゼフがお腹減らしていけって言うから、もうペコペコだ」
馬車の中でも、ジョゼフは饒舌であった。一応、カミーユの目がある手前、主人に礼を尽くす口調である。彼の語り口は具体的で、一度も味わったことのない屋台グルメの味が、ありありと舌に蘇ってくるような気さえしてくる。
わくわくを隠せないベリルたちの一方、カミーユは寡黙であった。早くも馬車に酔ったのかと気遣うと、彼は首を横に振ろうとして、やめた。その動きが頭を揺らし、気持ち悪くなってしまうためである。
「平気ですよ」
そう言ったきり、再び黙りこくってしまう。
ベリルはジョゼフと顔を見合わせた。今日はカミーユの久しぶりの休暇である。そこにベリルが便乗させてもらったわけだが、よく考えなくとも、彼の気は休まらない。面倒な子守を任されたようなもの。
ベリルは自分たちとカミーユで二対一に分かれて散策しようと提案したが、彼は頑として聞き入れなかった。
「今日は護衛を連れておりませんので」
ベリルが出かけるということで、今日は近衛が馬車に並走している。事故や事件に遭遇したとき、ミッテラン侯爵家の手の者が同伴していると、責任の所在がわからなくなってしまい、無用のトラブルが起きる。
カミーユも大貴族の次期当主であり、単独行動は許されていない。かといって、護衛の数は二つに分けるには不足している。
淡々と諭されて、ベリルは黙りこくった。ジョゼフも空気を読んで口を閉ざしたため、重苦しい沈黙の中、馬車は貴族街と下町の境目にさしかかる。
>32話
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