孤独な竜はとこしえの緑に守られる(41)

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40話

 誰もいなかったのである。

 全員が同じ時間に休憩を取るとは考えにくい。職務怠慢か。

 いや、人間生まれのシルヴェステルのことを軽んじてはいても、竜王の命令に背けば、怒りを買う。よくて失職、悪くすれば極刑に処される可能性もあるのに、全員が持ち場を離れるという大胆な違反を犯すだろうか。

「ベリル様。急ぎましょう。今が好機です」

 立ち止まってしまったベリルを現実に引き戻す。促されれば確かにそうだ、と頷くしかなかった。きっとおそらく、誰もいないのは「たまたま」なのだ。言い聞かせ、ベリルは要を足しにいくのだという顔で、一歩踏み出した。

 いよいよ本格的におかしいと感じたのは、後宮どころか王城の中にも、ほとんど人がいないことだった。いても、とてもじゃないが職務を全うしているとはいえない。

 秩序と治安を守るための衛兵は、武装解除してカードの博打に勤しんでいて、こちらに気づかない。すれ違った文官は、首と足に枷をつけたベリルを見ても、「ごきげんよう」と、まるで同僚に挨拶をするように声をかけるだけ。

「ナーガ。これはいったい……」

 彼は王の仕事を補佐していた。城で働く人々の異常に、気づかないはずがない。なのに彼は不思議な顔ひとつせず、「さあ、ベリル様。早く陛下のもとへ行かなければ」と言う。

「ナーガ?」

 見慣れた柔和な微笑みが、どこか得体の知れないもののように感じた。

 自分は何か、とんでもない思い違いをしているのではないか。

 誰よりも、今となってはシルヴェステルよりもジョゼフよりも頼もしく思っていた自分の世話係は、化け物じみた笑顔を浮かべている。

「さあ、早く」

 彼は自分が先に立ち、鎖を強く引いた。犬か家畜を先導する動きに、ベリルの脚がもつれて転ぶ。立ち上がる前に、また引かれる。ナーガを見上げ、ベリルは初めて恐ろしいという感情を抱く。

 彼の目が、開かれていた。夏の色濃い葉と同じ緑色は、脳裏にしばらく会っていない男を思い起こさせたが、それも一瞬のことだった。

 緑から赤へ、彼の目は瞬きする間に変化していた。体内を巡る血の色が、そのまま表に出てきたかのような鮮やかな赤色。

 ああ、あの日のことは、見間違いではなかったのだ。

「蛇……」

 思わず口に出した単語に、ナーガは「ようやくお気づきですか」と嗤った。

 蛇人族の幻術の源は目。術を使うときに、不気味な赤い光を発する。揺らめく炎とも違う、空に輝く赤色星の輝きに晒される。

 合点がいった。近衛が後宮からいなくなっていたのも、ジョゼフがナーガの言うことしかきかないのも、城がまったく機能していないのも、すべてナーガの幻術によるもの。

 ベリルはナーガから目を逸らさなかった。いつも巻いている包帯をほどいた彼の顔の右半面には、おそらく蛇の証の鱗が浮かんでいたのだろう。二度と再生できないほど焼かれ、左目は大きく開かれているのに、右目はほとんど開かない。

 手綱を握られた状態のベリルに、できることはない。じっと無言で見つめ合っていると、諦めたのはナーガの方だった。

「本当に、訳のわからない人ですね、あなたは……」

 首を傾げると、ぐい、と鎖を強く引かれた。上品な彼にあるまじき行儀の悪さで、ベリルの太腿に足を上げ、ぐりぐりと踏みにじった。

 まるで、自分がそうされてきたことへの仕返しのように。

「本当に、腹の立つ。あなたも、あの男も」

 あの男?

 該当するのは誰だ?

 ベリルはあれこれと思索を巡らせるうちに、赤い眼光を直視したにもかかわらず、自分が正気でものを考えていることに気がついた。

 以前、部屋で彼が包帯代わりの布を取り去り、目を開けたことがあった。その目は一瞬だったが、赤く染まっていた。あのときも、ナーガはベリルを術中に落とそうとしていたい違いない。

 なるほど、腹も立つだろう。蛇人族の彼にとって、自分の思い通りにならない相手は、これまでいなかったのだから。

 もうひとりの男というのも、自分と同じく幻術にかからない相手だろうか。

 シルヴェステル? 

 いや、通常の精神状態の彼ならば、ベリルの言い分をひとつも聞かずに監禁などするはずがない。すでに、蛇の魔の手に落ちたと考えてよさそうだ。

 ベリルと会話をしなくなったジョゼフもまた、ナーガの虜になっている。もともと一目惚れをした相手、油断もあるだろう。加えて、ベリルに対して罪悪感を抱くジョゼフを落とすのは、容易だったに違いない。

 ならば誰だ。ナーガと直接顔を合わせる機会があり、怒りの種になりそうな男は。

 すでに幻術の行使を諦めたナーガの目は、生まれ持った色に戻っている。夏の葉の色彩に、ベリルは真実を察する。

 そうか。そういうことか。頭の中で、すべてがひとつに繋がる。

42話

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