やってきたバスに乗り込んで、ほっと一息ついた。
東京から新幹線で、三時間弱。そしてさらに、地元の電車に乗った。だいぶ北にやってきたので、涼しいと思っていた。なのに、真夏の太陽は容赦なく、俺のことを焼き焦がす。
ガラガラの車内の、一番後ろの座席を確保する。どこに座ってもいいだろうが、余所者の俺が目立たない場所となると、ここが最適だった。
背負ってきたリュックの中から、ペットボトルを取り出す。ターミナル駅の売店で、食料とともに買い込んでおいて正解だった。ローカル線の終点は、コンビニのひとつもありはしない。
最初は車で来ようと思っていたのだ。だが、乗換駅のレンタカー事務所で、目的地を告げたところ、担当者は笑顔を浮かべた。
観光客をもてなす歓迎の表情ではなくて、困っているというか、呆れているような顔だった。
『お客さん、こっちの出身じゃないでしょ?』
客相手にずいぶんとラフな口調で、訛っていた。主要駅とはいえ、ここが田舎なのだと実感した。
どうしてですか、と尋ねた俺に、男はハンカチで流れ落ちる汗を拭いながら言った。建物の中は、十分に冷房が効いているのに。
『いやね。あの辺はものすごい田舎でさ。初めて行く人は、ナビがあってもなかなか行きづらいんだよ』
代わりに彼は、電車とバスの乗り継ぎ時間のメモを寄越した。かなりの長距離を運行しているバスを乗り継いで、終点まで行かなければならないらしい。
『しかし、今からだと到着時間がずいぶん遅いけど、泊まる場所とかは大丈夫かい?』
お節介な田舎の人間は、鬱陶しい。
内心の舌打ちを、俺はおくびにも出さない。ブラック企業で身についた、一番のスキルはポーカーフェイスだ。しかも、そうとは気づかせないくらいの、感じのよい柔和なもの。
「ええ、大丈夫です」
宿を予約しているわけでも、野宿をする予定もない。必要がなかったからだ。
まだバスは発車しない。五分後、一人の老婆が乗り込んできた。白髪頭はところどころ禿げていて、瞬間、性別に迷うところだ。コトコトと花柄のカートを押して歩いている。
目が合ったら、無為に話しかけられる。そんなのはごめんだ。イヤホンを耳に突っ込んで、眠ったフリをするに限る。
目を閉じて思い出すのは、あの日の居酒屋だ。
『いやね、お互いにブラックなとこに就職したよねえ、ほんと』
取引先で親しくなった男が、ハイボールを片手に言った。すでに杯を重ねているため、その顔は真っ赤だ。ただひたすら陽気に、会社の愚痴を連ねている。
俺は逆に、飲むとひたすらダウナーになる。彼の言うことに対して、同意を示し、ぽつりぽつりと自分の話をするだけだった。
『白崎くんは、まだ若いんだからさぁ。転職とかすればいいじゃん。逃げちゃえ逃げちゃえ』
無責任に煽る男に、俺は首を振った。
退職届を出したことはある。だが、その場で破られた。法律なんてものは、抜け穴を探して破るためにあるのだと、会社全部が隠蔽体質。
一度雇われたのだから、奴隷として働け。直接言われたことはないが、無言の圧力を感じる。
上司だけではなく、同僚たちもまた、感覚が麻痺している。お前だけ逃げるのは許さない。事実、プレッシャーをはねのけて退職した人間の悪口は、絶えない。
休日出勤も残業も、タイムカードをごまかして、給料は出ない。若いんだから、努力は買ってでもしろ? それは、他人から圧しつけられることじゃない。
過労死、自殺。そんな暗い言葉が脳裏をよぎるほど、あの日の俺は、追いつめられていた。
『こんなはずじゃ、なかったのに』
俺にはもっと、別の可能性があった。輝かしい未来図を踏みにじった連中のことは、今でも許すことができない。
『俺のせいじゃない』
指に力が入る。グラスは割れることはない。ただ、自分が痛いだけだ。怪我というレベルにすら到達しない、一時的な痛み。
物を壊すことすらできない、非力な俺。殺したいくらい憎い奴がいても、実行することはできない。
ふと、一人でテンションの高かった男が、黙り込んでいることに気がついた。酒から顔を上げると、彼は俺のことを見ていた。
慈愛に満ちた目、というのは、おそらくああいうのをいうんだろう。細められた目で見つめられて、なんとなく尻がもぞもぞして、座りなおした。
『戻りたいかい?』
唐突な問いだった。普通ならば、「え?」と聞き返すのが道理だっただろう。けれど俺は、何の疑問も覚えずに、「できることなら、戻ってやり直したい」と答えた。
男は身を乗り出して、俺の耳に囁いた。
『逆巻神社って、知ってる?』
と。
三つ目のバス停で老婆はゆっくりと降りていった。車窓からその姿を確認して、俺はほっと息をついた。
しばらく黙って揺られていた。新しい乗客はついぞ現れず、また、乗り換えた先のバスも、誰も乗ってこなかった。
田舎の人は、自家用車を持っていることがほとんどだから、滅多にバスを利用しないのだろうか。でも、平日なのに、部活帰りの学生の一人も乗ってこないなんて、そんなことがあるのだろうか。
そっとスマホを取り出した。無断欠勤を責め立てる電話やLINEが届いているだろう。機内モードにして、無視している。
もう二度と、あそこには戻らないのだ。俺は自由だ。もともと進めるはずだった道を、やり直すんだ!
『……県の〇〇村のはずれに、逆巻神社っていう名前の、古い神社があるんだ』
男の話によれば、その神社で参拝すれば、自分がやり直したいと思った時点まで、時間を巻き戻すことができるらしい。
半信半疑で、彼の説明を聞いた。住所を手近にあった紙ナプキンにメモして、大切に折りたたんで財布にしまった。
帰宅して、再びの出勤。でも俺は、会社に行かなかった。コンビニで財布を開いた瞬間、ひらひらとその紙ナプキンが舞ったからだ。
スローモーションで床に落ちた紙を拾って、俺は店員に、「やっぱりいいです」と言い置いて、店を出た。会社ではなく家に戻り、スーツを脱ぎ捨てた。
終点の停留所で降りると、バスはすぐさま、無感動に走り去っていった。周辺には目立つ建物は何もない。広い農地に、点在する家屋はひっそりとしている。本当に人が住んでいるのか、と疑わしいほどだ。
ぞっとする光景だが、よく見れば、田畑はきちんと手入れをされている。田んぼの水面(みなも)は涼しげだ。誰かしらはいるのだということを実感して、ほっとした。
それから視線を移し、背後の鬱蒼とした山林を振り返る。気が遠くなりそうなほど、石段が続いていた。
ここを上りきったところに、俺の希望がある。
過去に染みついた汚点を拭い去り、生まれ変わるのだ。
深呼吸をひとつして、日の傾いた山の中へと、俺は足を踏み入れた。
階段があるとはいえ、社への道は狭く、険しかった。ほとんど獣道じゃないか、と悪態をつく。これもまた、過去へ戻るなんていう奇跡のためには仕方がないことなのだろう。
急な坂道に、自然と視線が下へ向く。土埃で汚れたスニーカーが目に入り、あの頃の泥臭い努力を思い出す。
高校時代、俺は都内でそこそこの強豪校の野球部に所属していた。ポジションはキャッチャー。相棒のピッチャーと意思疎通を図り、相手チームのバッターを三振に追い込むのが、何よりの快感だった。
甲子園、選抜といった全国大会への出場は、叶わなかった。いや、本当ならば、あの夢の舞台への階段に、足をかけていたのだ。
あんなことさえ、なければ。
最高なのは、プロ野球選手。憧れのチームでプレイする自分を想像すると、踏み出す足が少しだけ軽くなる。
次点で、実業団のリーグ。大学進学だって、スポーツ推薦で、もっとずっといい大学に行けたはずだった。そうすれば、ブラック企業になんて入らなかった。
これは、無駄な感傷じゃない。そのときに実際戻って、やり直す。どの道だって俺は、選び取れるのだ。
興奮に支配された俺の足は、どんどん速まる。
山の中腹にある神社が見えてきたときには、日はほとんど落ちていた。鳥居の前で立ち止まり、長く細く息を吐く。
見捨てられ、誰にも管理されていない荒れ果てた境内を想像していた。
だが、視界に入るのは、こじんまりとはしているものの、しっかりと掃き清められた地面に、しっかりした作りの社殿だ。
意外だった。もしかして、宮司がいるのだろうか。だとすると、厄介だな。
『時間はいつでもいいけど、誰にも見られないように気をつけるんだ』
しばらく様子を見守り、人の気配がないことを確認した。
俺は鳥居をくぐらずに、そのまま神社の裏側に回った。
『裏鳥居を通って参拝するんだ』
立派な朱色の表の鳥居とは違って、石がむき出しになった状態の、灰色の鳥居が裏だ。
いよいよだ。
耳を澄ませて、誰もいないことを再び確かめる。自分の心音、呼吸音。じっとりと熱を孕んだ風が、木々を揺する音しか聞こえない。
鳥居を超えて、神のいる領域に一歩、踏み込む。足音を立てることに怯えて、俺は必要以上にゆっくりと、社に接近する。
ポケットを探って取り出した五百円玉を、賽銭箱の中に放り投げる。別に金額は関係ないが、気は心だ。それに、過去に戻るのなら、現在の所持金は関係なくなる。
鈴を鳴らして、二礼、二拍手。
手を合わせたまま、俺は願う。
『逆巻の神様は……』
男の声が木霊するが、俺にはもう、どうでもいい。二度と会うことはないんだ。
高校三年の、あの日に、俺は戻る。
馬鹿な連中のせいで、俺の将来が台無しになった、あの日に。
空気が変わった。そう、肌で感じた。ムシムシと含まれていた水分が、きれいさっぱりなくなり、さらりとした質感の風が、頬を撫でる。
目を開けると、昼間の明るい時間だった。目の前には神社なんかなくて、一瞬、夢だったんじゃないかと思う。
ポケットの中から、二つ折りの携帯電話を取り出す。ぱかっ、と開ける動作を、俺は懐かしいと感じた。
もう一度携帯を閉じて、まじまじと見つめる。落としてついた、傷もそのままだ。
「は、はは……」
頭に残っている記憶そのままに、走る。
「廊下を走るなよー」
間延びした声の男に、ペコリと会釈だけして、そのままスピードを出す。男子トイレにぶつかるように突入して、鏡を覗き込む。ペタペタと頬を触る。
日に焼けた顔は、寝不足の不健康さのかけらもない。ふにゃりとまだ柔らかさを残した頬は、明らかに若い。
「戻ってきた……」
叫びたいくらいの喜びを抑え込んで、俺は笑った。戻ってきたのだ。高校時代へ。
携帯を開いて日付を確認してから、俺は野球部に特別に用意されたロッカールームへと急行した。
俺の運命が捻じ曲げられた日。
甲子園の常連である、ライバル校のエース格の選手たちが、次々と故障した。その知らせを聞いて、俺たちが十年ぶりに甲子園に行けるのだと、確信していた。
他人の不幸を喜ぶなんて、とまっとうな大人はそう言うかもしれない。でも、監督もコーチも、「大きな声じゃ言えないが」と、前置きをしたうえで、「ラッキーだな」と笑った。
健全な精神は、健全な肉体に宿る。なんていうのは、嘘っぱちだ。スポーツに打ち込んでいたって、いや、打ち込んでいるからこそ、醜い嫉妬は芽生える。
あいつらさえいなければ、俺たちが全国大会に行けるのに。
誰しも多かれ少なかれ、思っていた。
あと少しで、夏の予選が始まる。そんな日のことだった。
ライバルは自滅してくれたけれど、自分たちが勝ち進めなければ意味がない。気を引き締めて練習に励もう。
そう決意して、グラウンドの隅に建てられた小屋の、「野球部」と書かれた扉を開く。
短く「っす」といつも通りに挨拶をしようとしたが、できなかった。息を吸うと、喉の奥がひりひりと痛む。目はしょぼしょぼしてきて、かゆい。
換気の悪い部室内は、煙で充満していた。
火事!?
一瞬慌てるが、苦しいほどの熱も、バチバチと燃え盛る炎も見えない。感じるのは、嗅いだ覚えのある、独特の臭い。
いとこの兄ちゃんが、大学に通うようになってから、身に沁み込ませるようになった臭いだ。
熱っぽくなった瞼を数回擦って、ようやく前がはっきりと見えるようになる。
言葉が出なかった。
部室にいたのは、同級生が数人。言っては悪いが、実力は俺よりも劣り、おそらく最後の大会でも、ベンチ入りさえできない連中だ。
ストレス解消を言い訳に、煙草に手を出す。チームメイトたちに迷惑がかかることを顧みず、自分のことしか考えていない。
もう一度、時間を確認する。すでに連中は、部室の中にいるはずだ。煙草に火をつけたところかもしれない。すぐにやめさせて、取り上げて、なんとか説得してみせる。
意気込んで上がる肩を叩かれて、俺は過剰に反応した。ぐるん、と勢いよく振り返ると、叩いた奴もまた、目を丸くしていた。
「岩倉……」
ほっと息を吐きだす俺に、岩倉は「そんなに驚くとは思わなかった」と笑った。
岩倉は、俺の相棒のエースピッチャーだ。見た目以上に鍛えられた肉体から繰り出されるストレートは、まさしく豪速球と言うのがふさわしい。球種は少ないが、その分コントロールがよく、緩急つけたピッチングで、相手打者を打ち取るタイプの投手だ。
よくぞうちに来てくれた、と監督やコーチは、岩倉の入学を歓迎していた。
才能の塊。
大人たちの、自分たちに対するものとは違う態度に、嫉妬交じりに俺たちは、岩倉のことを陰でそう呼んだ。
それでも、岩倉が嫌われていたわけではない。彼がいるからこそ、甲子園出場が夢ではなく、実現可能な目標となった。
孤高の天才、というわけではなかったのは、ひとえに彼の、人懐っこい性格のおかげだろう。人好きのする笑顔に、俺は緊張にこわばった身体の力を、そっと抜いた。
「どした? 入んねぇの?」
「ん? あぁ……」
気のない返事をしたところで、はっと気がついた。
一度目のあの日、岩倉とここで出くわすことはなかった。彼は掃除当番だったか日直だったか、とにかくこの場にはいなかった。
何もできなかった俺は、当時、扉を閉めることすら、思い至らなかった。開け放たれたドアの外から、喫煙現場は撮影されていた。それが、高野連の手に渡り、隠しておくことができなくなった。
すべて事が起きてしまった後で、温厚な彼は壁を殴った。世間に公表され、公式戦出場を辞退することになって、岩倉は泣いた。
歴史がすでに、変わっている? 俺がここに戻ってきたことで、か。
先に扉を開いたのは、岩倉だった。彼の背後にぴったりと寄り添う。
動きを止めた岩倉の肩越しに、室内を見やる。後ろ手に扉を閉めることも忘れずに。
細くたなびく煙は、締め切った窓のために外に逃げることもなく、漂っている。
「なにしてんだよ、お前ら」
岩倉の声は、震えていた。小さな声量なのに、その場は揺らいだ。
一度目の俺だけのときと違って、煙草を吸っていた連中は、動きを止め、顔は青い。これが、俺と岩倉に対する評価の差だ。
岩倉がいればこそ、俺のその後の野球人生はバラ色になるはずだった。
「なにしてんだって、聞いてんだよ!」
怒鳴りつけ、近づいて胸倉を掴む岩倉。
「煙草なんて……やめろよ! 野球ができなくなるだろ!」
岩倉は、チームメイトのことを平等に扱っていた。愛していたといってもいい。だから、「野球ができなくなる」の意味は、純粋に、煙草による肺機能の低下が運動能力に影響することを心配しているだけだ。
けれど、やられた側はそうは捉えない。はっ、と岩倉のことを鼻で笑い、
「そうだよな。俺らが問題起こせば、困るのはエース様の方だよな! どうせ俺らは、最初から試合に出らんねぇんだからよ!」
と、逆ギレする。岩倉は「そうじゃなくて!」と言い募るが、相手は聞き入れない。
言葉で言っても理解されないことに焦れた岩倉の手が出そうになった瞬間だった。
やられる前にやれ。考えるよりも先に、行動したのだろう。
手を振りほどくと、そのまま岩倉を力いっぱい殴り飛ばした。
体勢が整わないまま殴られた岩倉の身体は、吹き飛んでロッカーにぶつかり、さらに床に落ちた。
「おい。岩倉。大丈夫か?」
その段階で、ようやく俺は動けるようになった。打ちどころが悪かったのだろうか。慌てて岩倉に駆け寄ると、彼は肩を押さえたまま、起き上がらない。
「岩倉……?」
嘘だろ。
うめき声をあげる岩倉を、俺は呆然と見つめた。やべえ、と焦っている連中のことは、すでに眼中にはない。
やがて、騒ぎを聞きつけたチームメイトやコーチがやってくる。岩倉はようやく身体を起こすと、「大丈夫だから」と弱弱しく笑う。全然、大丈夫じゃない。
コーチが病院へと連れていく。落ちていた煙草の吸殻も発見され、厳重に注意されたが、それ以上に岩倉の怪我のことが重大だった。部活の練習は、急遽中止となった。
次の日の放課後、グラウンドに集合した俺たちは、黙って大人たちが口を開くのを待っている。その中に、岩倉の姿はない。
硬い表情の監督が、沈黙を破った。
「昨日、岩倉が肩を負傷した。全治一か月。予選への出場は、絶望的だ」
一瞬ざわついたが、すぐにそれもしぼんでいく。意気消沈した生徒たちを見て、まだ年若いコーチは、必死に鼓舞する。
「大丈夫だ。お前たちがしっかり予選を勝ち進めば、決勝にはなんとか間に合うかもしれない」
それがどれほど非現実的なことか、俺たちは理解している。彼がどんなに威勢のいいことを言おうが、もう甲子園なんて無理だと諦めムードが漂う。
俺は昨日、問題を起こした連中に視線を向けた。下を向いて、背を丸め、誰とも目を合わせようとしない。喫煙のことは、監督たちと口裏を合わせたのだろう。皆に発表されなかった。
お前らのせいで、と思った。それと同時に、どうして岩倉は、余計なことをしたんだ、と怒りを覚える。
あいつがいるからこそ、甲子園が狙えた。全国の舞台で岩倉が活躍することで、その女房役である俺も、あいつの三分の一くらいは注目を浴びると踏んでいた。
他力本願? 上等だ。
あの地獄みたいな日々に戻るなんて、くそくらえだ。
もう一度。もう一度だ。
何度だって、やり直してみせる。
……ダメだった。
あのあと、週末の部活をサボってこっそりと、逆巻神社へと向かい、再び儀式を行った。けれど、無駄だった。
時間は確かに巻き戻ったけれど、どうしても上手くいかない。
今度は、岩倉と出くわさなかった。ロッカールームに入って、他の人間が来る前に、とっとと片をつけようと、行動に移した。
「やめろよ」
そう制止した声は、情けなく震えた。やはり俺は、非力だった。
結果は惨敗。あいつら、岩倉相手のときは「やっちまった」と、すぐに動きを止めたのに、俺のことは普通にボコボコにした。ストレスを、喫煙じゃなくて、俺にぶつけた。
岩倉は怪我をしなかったけれど、今度は俺が、試合に出場できない。そして暴力事件は隠蔽された。そうだよな。岩倉がいれば、甲子園に行ける可能性が高いんだ。キャッチャーは別に、俺じゃなくてもいい。
どの道が正解なのか。俺の輝かしい未来は、どうやったら手繰り寄せられるのか。
半分くらいは、もはや意地だ。望み通りの展開にならなければ、即、逆巻神社に向かう。
一度、中学生に戻って、ライバル校の受験を目指したが、時間を無駄にしただけに終わった。学力が足りずに落ちたし、たとえ合格したとしても、野球部で俺がレギュラーを張れる可能性は、ほとんどなかっただろう。
今回もまた、逆巻神社の最寄り駅までやってきた。
しかし、身体が重い。
時間の行き来を繰り返すうちに、顔立ちが変化した。色はどす黒く、不健康に。目は落ちくぼんで、幽霊のような顔になっていた。
岩倉に「大丈夫か?」と尋ねられても、自分のことしか考えていない俺は、まともに応じなかった。
そのうちに俺は孤立して、正捕手の座を下ろされた。岩倉は俺を庇うことなく、新しくバッテリーを組むことになった後輩と、楽しそうに相談していた。
もう一度、戻らなければ。今度こそ、失敗しない。
バス停でずるずるとへたりこんでいると、通りかかった老婆が「大丈夫かい?」と声をかけてきた。
返事をするだけの元気もなく、俺は顔を上げた。
最初の巻き戻しのときに、同じバスに乗り合わせた老婆だった。久しぶりの一方的な再会に、俺は胸から何かが込み上げてくるのを感じた。
懐かしさか、不愉快さか。それとも、全然進まないことへの怒りか。あるいは、そのすべて。
老婆はなおも心配そうに、水のペットボトルを手渡してくる。それを俺は、思い切り振り払った。
ぐにゃりと視界が歪む。老婆の顔が、得体の知れない何かに見える。
「言っただろう? 逆巻の神様は、魂を食らうって」
それは男の声だ。俺に逆巻神社のことを教えてくれた……ああ、あの男の名前は、なんだっけ?
「儀式は成った」
突然暗くなった。それと同時に、俺は意識を失った。
たまたま居酒屋で出会った青年は、人生に疲れていた。母親の束縛から逃れることができずに、二十五年。
「あのとき、母さんの言うことなんてきかずに、自分の実力に見合った高校を受けてたら」
結局彼は、いい高校に行けず、大学受験にも失敗して、三流大を中退。バイトを転々としているため、いまだに実家に暮らしている。
するりと擦り寄って、「わかるよ」と無責任に共感を示す。
こういう奴が最適なのだ。
今後を変えようと努力することを怠り、誰かのせいにして、現状を愚痴るだけの無能。
たとえ時間を巻き戻したところで、強い意志も知恵もない人間は、未来を変えることはできない。
失敗したってやり直せる。そんなふうに考えて、何度も逆巻の神を拝む。
少しずつ、魂を削り取られていることには気がつかず。
お前も近いうちに、俺たちの仲間になる。
神に新たな魂を捧げるための、操り人形。
俺は慈愛の目を彼に向け、口を開いた。
「なぁ、逆巻神社って、知ってるか?」
【終】
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