<12話
黒田が住む一軒家は、生まれたときから集合住宅でしか暮らしたことのないヒカルにとっては、ただでさえ物珍しい。
まして二十二世紀現在であれば、文化財として指定されているような、この時代であっても「レトロ」と形容されるだろう家屋だ。ヒカルの目はあちこちをしげしげと眺め、これまた初めましてのこたつの上に置かれた資料には、なかなか集中できない。
「ヒカル」
エリーに窘められて、ヒカルは自分の置かれた状況を自覚した。口の中でもごもごと「すいません」と謝罪すると、黒田は苦笑した。
「まぁ、気持ちはわかりますよ。僕も初めて任務で跳んだときには、すべてが珍しく、キラキラして見えたものです」
黒田は五十代後半。だが、目尻に刻んだ皺の深さは、彼を実年齢よりも五歳は老けさせている。背が低く、痩せており、一見すると警察官には見えない、人の好さそうなおじさん、といった風情だ。
(俺も人のことは言えない、か)
高校を卒業して一年以上が経過しており、来年には二十歳になる。なのにいまだに、中学生に間違えられるのは、日常茶飯事だ。まだ経験はないが、警察手帳を出しても、子供の玩具だと思われそうで怖い。
だが、正史課の任務を考えれば、自分や黒田のような人間の方が、適役だろう。群衆に紛れて、ターゲットにこっそりと近づくには、自然に溶け込める凡庸な容姿でなければいけない。
エリーのように、誰が見てもはっと息を呑むような美形は、たとえスキップ能力を持っていたとしても、不向きだろう。痛烈に印象に残ってしまう。
(今はこんなだし)
じっとウサギを見下ろすが、彼のプラスチックの目からは死角になっていて、エリーから咎められることはなかった。
「じゃあ、話を続けますね」
「あ、あの。黒田さん。敬語とか、いいんで。俺めちゃくちゃ年下だし……あと、あんまり堅苦しい敬語使うと、噛みそうだし」
これから任務を共にする仲間になるわけだし、もうちょっとラフで。
恐縮しながらお願いしたヒカルに、黒田もまた、同じくらい恐縮しながら、「じゃあ、そうさせてもらうね、奥沢くん」と、丁寧だが気安い言葉遣いで了承した。
「奥沢くんも、あんまり難しい敬語使おうとしなくていいから。今回は、君がメインの任務だからね。僕に命令したっていいんだよ」
「えっ、や、それはちょっと……無理っすね」
親子ほどに年が離れているものの、穏やかな黒田の雰囲気は、懐いても怒られない先輩といった雰囲気だ。会ったばかりだが、この人のこと好きだなあ、と思って、ヒカルは「へへっ」と照れ隠しで笑った。
「……俺に対してとは、ずいぶんと態度が違うじゃないか」
扱いの難しい先輩の方が、ブリザードをまき散らしながらぼそりと呟いた。笑顔をぴしっと凍りつかせて、ヒカルは慌てて、「そ、それよりも、これからどうするか教えてください!」と、黒田に話しかける。
下手にエリーに反応したら、負けだ。
黒田は資料をトントンと指で叩きながら、ヒカルに優しく問いかけた。
「奥沢くんは、龍神之業について、どれくらい知ってる?」
「えっと……すいません。信仰の自由とかそういうのが制限されるきっかけになったってことしか、よく知らなくって」
エリーに教えてもらったことを、そのまま回答する。それだけ知っていれば、充分だろうと判断したのは間違いだっただろうか。
黒田は答えたヒカルではなくて、ウサギのぬいぐるみに視線を向けた。無表情なウサギは、沈黙を守っていた。だが、それだけで黒田には、エリーの考えがわかったのだろう。そうですか、と一言だけ言った。
「龍神之業は、江戸の終わりに生まれた、神道系の新宗教の一派です」
黒田は噛み砕いて説明してくれるが、それでもヒカルには、半分以上がちんぷんかんぷんだった。自分なりに考えて、今回の任務で重要なところをまとめて、口に出す。
「えっとつまり、最近になって信者数を増やして、法律すれすれの手段でお布施を集め始めたってこと? それが、本来の歴史の流れとは違う……」
「簡単にいえば、そうです」
元々は、辰巳の一族にのみ信仰されていたが、次第に近所の人々も、金持ちの辰巳家を頼り、入信するようになった、いわゆる土着の宗教だ。
元の正しい歴史では、小規模な教団のままであった。彼らは龍神の教えに従い、光の世界へと無知な人々を導くための活動を行っていた。活動の中で、与党の代議士と懇意になった。
龍神之業が秘密の祭祀を執り行った際、その代議士が政府の要人を連れて参加していたことが発覚した。祭祀は反社会的行為であるとされ、与党は糾弾され、衆議院は解散。そして政権交代が行われ、ここで初めて、信仰の自由を制限するように憲法が改正されたという。
だが、憲法を変えてまで制限を加えるほどの、「反社会的行為」とはいったい何なのだろう。
「秘密の祭祀って、どんな……」
「さあ。そこまでは。重大事件だったので、報道も自主規制していたようだし」
ヒカルの疑問に、被せ気味に黒田が答えた。なんだかはぐらかされたような気がするが、ヒカルは黙っていた。ここまで勢い込んで言うということは、本当に、詳細は不明なのだろう。
「現在、トップである辰巳理王、本名辰巳正治は、元々は穏やかな人物で、信者たちに慕われていた。でも、今は」
「金の亡者ということか。何かあったな」
エリーの言葉に、ヒカルは「ピース・ゼロ……」と呟いた。
武器を持たず、殺さない歴史改変とは、こういうことか。でも、誰も傷つけないかというと、そうではない。金を巻き上げられている被害者が、新たに発生しているのだから。
(それに)
きっと、娘の桃子もまた、父親の変化に困惑し、傷ついているに違いない。
ヒカルはそっと、ポケットにしまったままのハンカチに触れた。
丁寧にアイロンがかけられた、桜色のハンカチには、ヒカルの汗が染みている。きちんと洗濯して、返さなければならない。
「というわけで、我々は元の流れに戻すために、まずは彼らの監視をすることになったというわけです」
黒田の声に、ぼうっと桃子のことを思い出していたヒカルは、はっと現実に引き戻された。慌てて咳払いでごまかしたが、黒田はヒカルが心ここにあらずだったことに気がつかず、そのまま話を続ける。
「僕は今、教団に直接潜入しています。まだ新入りなので、理王には会っていませんが」
「えっ。それって危ないんじゃないんすか?」
ミイラ取りがミイラになる。興味本位でカルトに潜入してみたら、洗脳されて帰ってこなくなった、なんてことは、ヒカルですら想像がつく話だ。
「大丈夫なんですか?」
「とりあえず、向こうで振る舞われたものは飲食しないようにしてるよ。もしも僕が戻らなくても」
そこで黒田は言葉を切った。眩しいものを見るように、目を細めてヒカルを見つめる。そこに浮かぶ感情は複雑だ。
期待に不安、それから憐れみ?
新人であるヒカルに対して、前の二つの感情を抱く理由はよくわかるが、最後のだけは、よくわからない。憐れまれる理由など、ヒカルには皆目見当がつかなかった。
「君たちがいる」
覚悟を決めた男の顔に、ヒカルは息を呑んだ。
これから、どれほどの経験を積めば、自分は黒田と同じ表情ができるのだろう。ヒカルは、四十年後の自分を想像してみたが、こんな風に落ち着いた雰囲気を出せる気はしなかった。
(黒田さんは、俺たちを……俺を、信じてくれている)
だから、多少無茶だということをわかっていても、潜入捜査を試みているのだ。とてつもないプレッシャーの反面、ヒカルの胸の内には、今まで以上のやる気がむくむくとわいてくる。
「っ、はい!」
託されたものを受け取って、ヒカルは元気よく、返事をした。破顔した黒田は、うんうんと頷いている。父親と子供というよりも、祖父と孫のようだな。性格の悪いウサギがぼそりと呟いたが、耳に入らなかったことにした。
>14話
コメント