<23話
悩みに悩んだ末、ヒカルはウサギのぬいぐるみの入った鞄を、持って出かけた。エリーは何も言わなかった。声が聞こえないと、本当にただのぬいぐるみにしか見えない。彼が今、モニターで観察しているのかどうかさえ、ヒカルにはわからない。
肩にかけた鞄が、いつもよりも重い。ヒカルは深い溜息をついて、公園へと向かう。
(もうすぐ、任務が終わる)
その日が来れば、ヒカルは桃子の前から、黙って立ち去ることになる。空が暗くなってもまだ、ブランコに揺れたままでいる少女の光景が見えて、ヒカルは憂鬱な気持ちになる。
「桃子?」
辿り着いた公園には、すでに彼女が待っていた。いつもならこちらからの呼びかけに、すぐに応じて明るい笑顔を見せる彼女だったが、聞こえなかったのか、ぼんやりとしている。
ヒカルは更に距離を詰めてから、再び、「桃子」と彼女の名を呼んだ。
「あ、ヒカルくん」
ようやく顔を上げた桃子は、にこっと笑ってから、また黙り込んで、下を向いてしまった。
土曜日は、あんなにはしゃいだ顔をしていたのに。
もしかして、親にばれて怒られたのかもしれない。ヒカルがそう尋ねると、
「違うよ!」
と、首を横に振る。
「じゃあ、どうした? あ、いや、俺に言えないことなら、いいんだけど。俺じゃ、力になれないかもしれないし」
慌てて付け足したのは、女子高生の悩み相談なんてできるほど、自分もまだ成熟した大人になりきれていないことを、思い出したからだった。
(もしも俺が、エリーみたいに、なんでもできる冷静な大人だったら、桃子の悩みなんて、ちょちょいのちょいで解決できたのかな)
そう考えて、ヒカルは首を横に振った。自分が彼の年齢に到達したところで、逆立ちしたってエリーのような男にはなれない。
「あのね……モデルをやらないかって、言われたの」
「それってこないだの……『LoveTEEN』だっけ?」
箱入り娘の桃子は、スマートフォンや携帯電話など、個人に連絡のつくツールを所持していなかった。自宅の固定電話は、まず初めに信者の女性が出るため、かけてもらいたくない。だから、桃子は片桐に、連絡先ひとつ渡していなかったはずだ。
「高校の名前は言ったでしょ? スナップに載せるからって」
在籍している高校も、ステータスの一部になるのだと説明された。
「えっ。学校まで来たのか?」
桃子はこくんと頷いた。
なんとも大胆な手段に出たものだ、と思う。片桐は女性だが、女子校の警備は共学の高校よりも断然厳しい。休日の校門前で待っていただけのヒカルでさえ、妙な緊張を強いられたのだから、平日の放課後では、さぞ目立っていたに違いない。
「それで、桃子はどうしたいんだ?」
「私……」
やりたい、と言ってほしかった。学校にも家にも居場所のない桃子が、自分を殺さずにいられる場所が、もしかしたら雑誌のモデルという職にあるかもしれない。
だが、桃子は首を振った。
「ダメ。ダメなの。やりたくても、親の承諾が必要。お父様は、絶対に許してくれない」
これが普通の家庭の話であれば、何度でも話をするべきだと、ヒカルは彼女を説得しただろう。だが、桃子の家は、いわゆる普通の家ではない。ヒカルが黙っていると、桃子は語りだす。
「あのね、ヒカルくんには言ってなかったんだけど」
そこで彼女は一度言葉を切って、声を一層潜めた。
「うち、宗教やってるの」
大げさにならないように、ヒカルは「宗教?」と驚いてみせた。眉根を寄せるが、嫌悪感ではなく、怪訝な表情になるように気を配った。
その心遣いが功を奏したか、桃子は頷いて、話を進める。
「お父様は、いわゆる教祖様っていう奴。私の人生は、生まれたときからお父様によってきめられてるの」
義務教育だから、小中学校は仕方なく、通わせてくれた。高校は行くなと言われていたが、桃子が最後だからと我儘を通した。
「これ以上、わがまま言えないもん」
地面を強く蹴り上げて、桃子はブランコを漕ぎ出した。家族のしがらみを振りほどこうと、大きく高くなっていく。
(一緒に逃げよう)
ヒカルがもしも、この時代に普通に生きている青年であれば、きっと無責任に、そう誘っていた。桃子の顔は、出会ったときの諦めきっていた表情ではなくなっていた。情熱を押し隠した桃子は、空を見つめ、もがき苦しんでいる。だから、救ってあげたいと思ってしまう。
忙しなく動いていた桃子の足が、ぴたりと止まった。勢いがなくなり、ブランコは止まる。
「ヒカルくん、私」
見つめてくる桃子の目は、熱に浮かされて濡れている。ヒカルは沈黙し、見つめ返した。
たった一言でいい。
一言、「助けて」と言ってくれたのならば、自分は何としてでも、彼女を救い出す。
けれど、桃子は何も言わなかった。瞳は饒舌に、ヒカルに「助けて」と言っているのに、言葉に出すことは、決してしない。
桃子の目は、昔のヒカル自身の目にも似ている。
能力のせいで、母親に疎んじられ、外から見えないところには痣を作っていた、幼い頃の記憶が蘇る。
一週間に一度は、児童相談所の職員が自宅アパートにやってきた。母は不自然に優しい声を出して、そのときだけヒカルを撫でた。暴力を伴わない親子の唯一の触れあいだったので、ヒカルはその瞬間を、いつも心待ちにしていた。愚かな子供だった。
お母さんが僕を叩く。蹴る。つねる。
じっと職員を見つめても、彼らは何もしなかった。何の証拠もなく、勝手にヒカルを保護することはできない。痣だって、転んだのだとヒカルが主張すれば、それまでだった。ヒカルはいつも、無言だった。母の言いつけで、何も話してはいけないことになっていた。
『何か、言いたいことがあるのかい?』
後ろ暗いことをごまかすべく、饒舌な母の声を遮って、その男はヒカルに目線を合わせた。
『あらやだ。この子に言いたいことなんて、なんにもないんですよ』
ね? と笑顔を浮かべる母親の目は、脅迫してくる。男は、「お母さんには一切聞いていません。僕はヒカルくんに聞いているんです」ときっぱり言ってのけ、ヒカルをじっと見つめた。
ラストチャンスだった。ヒカルは、大きな声で泣いて、叫んだ。
助けて! 僕を、助けて! と。
ヒカルの願いは、初めて聞き届けられた。母のことが好きで、でも怖くて、何もできなかったヒカルの、ほんのわずかな勇気が、その後の人生を変えた。
今のヒカルは、あのときの職員の立場だった。厄介なことに、桃子は当時のヒカルよりもずいぶんと大人で、その分、思考力も理性も育ち切っている。助けてと言葉にすることは、決してないだろう。
ヒカルはポケットから、メモ帳を取り出した。そこに数字を書きつけて、桃子に渡す。
「どうしても辛くなったら、俺の伯父さんなら、力になってくれるかもしれない。黒田っていうんだ」
自分には何もしてやることができない。でも、この時代にひっそりと生きている黒田であれば、きっと自分と同じ、もどかしい思いを抱えたことのあるだろう黒田であれば、短期間でも桃子をかくまうことくらいは、必死で頼み込めば、してくれるはずだ。
受け取ったメモの切れ端を、桃子は大切に折り畳み、制服の胸ポケットへとしまった。ひとまずは、お守り代わりに持っていてくれれば、それでいい。
帰る頃には、桃子は元気を取り戻していた。ブランコに座っていたためにできてしまった、スカートの皺を丁寧に伸ばしている。
「じゃあね。また、明日」
「ああ。明日また、ここで」
ヒカルは彼女の後姿に手を振った。
しかし、約束はついに、果たされることはなかった。
>25話
コメント