<2話
部長室に入るときと、同じくらい緊張で心臓が痛いほどだった。
医務室。この扉の奥に、悩殺ナイスバディのエリーがいる。マゾっ気はないはずだが、ヒカルはすでに、妄想の中のエリーに何度も罵倒されて遊ばれていた。
しかし、どうして医務室なのだろう。エリーは病弱なのだろうか。それだと、警察業務に支障が出るのではないだろうか。
気高く凛々しいエリーが、姿かたちを変えて、小さく愛らしい、人形めいた童顔の少女になる。それでも胸だけは、ぼぼーん、とアンバランスに巨大だった。
ベッドの上で、「熱があるみたいなの……」と、ふわふわ微笑みながら、誘惑してくる合法ロリ。アダルティなお姉様と、どちらも捨てがたい。
(さあ、どっち!)
意を決して、ヒカルは扉を控えめにノックした。
一、二、三回。
……返事はない。
先ほどよりも強く、再び三回。それでもやはり、返答はなかった。
待っている時間はない。ヒカルは、深呼吸とも溜息ともつかない、息を吐きだしてから、恐る恐るドアを開けた。
「失礼しまーす……」
小さな声で入った部屋は、医務室という名にふさわしく、消毒液のツンと鼻を刺激する、けれど、どこか懐かしい匂いがする。
小学校の保健室。怪我が普通の悪ガキよりも多かったヒカルは、そこの常連客だった。赤く腫れた頬には冷たい湿布を貼り、背中の傷であっても容赦なくTシャツを脱がせ、薬を塗りたくって手当をしてくれた、養護教師のことを思い出す。
厳しくも温かく接してくれた彼女は、ヒカルの淡い初恋の人だったのだと、成長した今だから、わかる。
そうか。エリーは、医務室勤務なのかもしれない。新人のヒカルのことを考えて、研修期間中は、警察官ではない人間を、園田はパートナーに選んだということは、ありえなくはない。
途端に、脳内のエリー(セクシーな方)が白衣を身に纏った。
女医。とてもイイ。ナースでも可。
「あの、奥沢です。園田部長から、こちらへ窺うようにと言われました」
言いながら、部屋へと足を踏み入れる。すると、壁際に置かれたデスクに向かって座る、長い黒髪の後ろ姿があった。
白衣。白衣だ。妄想がついに現実になった。ハーフらしく、体格もいいようで、背中は一般的な女性よりも広く、肩幅もある。あとは胸だ。胸はどうなんだ。はやる気持ちを抑えながら、「エリーさん?」と、目の前の人物に声をかけた。
瞬間、くるりと椅子ごと回転して、待ちわびたエリーとの対面を果たす。
「……え」
ヒカルは固まった。想像とは違っていたが、瞬時に、先輩たちのにやにやした笑顔の意味を理解した。
目も鼻も口も、はっきりと彫刻のように刻まれている。睫毛は繊細で長く、濃い陰影を落としている。紛れもなく、美人だ。でも、美女ではない。
真一文字に引き結ばれていた赤い唇は、不機嫌そうに開かれ、低音を漏らした。
「初対面の人間に、その愛称で呼ばれる筋合いはない」
言い放ったエリーは、億劫だというのを隠しもせずに、ゆっくりと立ち上がった。座っていたときには気がつかなかったが、気に入らないことに、ヒカルよりも十センチ近く背が高い。
それでも一縷の望みをかけて、ヒカルは声を震わせ、尋ねた。
身長170センチそこそこのヒカルよりも長身の女性は時折いるし、ハスキーボイスは風邪気味で喉の調子が悪いか、酒焼けの可能性も否定できなかったからだ。
「……女性ですか?」
「俺が女に見えるのなら、お前の目は節穴だな。職務をまっとうできないと診断してやろうか?」
入ったばかりなのに残念だな。
腕を組んで無表情にべらべらと喋っているのは、正真正銘本物のエリーだ。音を立てて美女の全身像が崩れ去る。
「お、お、お、男ーっ!?」
ヒカルは思い切り、指を指した。パシン、とすぐに叩き落とされる。笑顔のひとつもなく、冗談にはしてもらえないのだと知る。
ふと彼の着ている白衣の胸元を見ると、「襟川」という名札がついていて、「エリー」という可愛いニックネームの出どころがわかった。
おそらく、ここを教えてくれた先輩二人組は、新人をからかってやろうと瞬時に一致団結したのだろう。夫婦もバディも、長く付き合っていれば似てくるというのは、事実なのかもしれない。身長こそでこぼこコンビだったが、彼らはアイコンタクトひとつで、エリーの真実について隠そうと決めたくらいだ。
自分もエリーと、似るほど信頼関係を築けるだろうか……無論、反語だ。ギロリと鋭い目で睨みつけられて、これでうまくやっていける自信なんてない。
「襟川壮一」
彼は端的に、自分の名前だけを告げた。歓迎の挨拶など一言もなく、エリーはヒカルとよろしくやっていくつもりがないことがわかる。
慣れていることとはいえ、エリーに上から見下ろされるのは、凄まじい威圧感だった。彼が、白と黒のみで構成されているせいかもしれない。Vネックシャツもデニムのパンツも黒の無地で、白衣だけが眩しい。
(ま、負けるもんか……!)
白と黒というならば、パンダだって同じだ。そう、目の前にいるのはキュートなパンダだと思えばいい。
「お、奥沢光琉!」
ヒカルもまた、よろしくお願いしますと言わなかったし、右手を差し出すこともなかった。無礼を糾弾されるかとひやひやした。エリーはヒカルの心配をよそに、咎めることなく、「まずは健康診断だな」と、デスクの上の小さなチェストから、注射器を取り出して、にやりと笑った。
表情筋動かせるんだ、とか、ずいぶん楽しそうだなおい、とか、いろんな感情がないまぜになる中、ヒカルは妄想の中と現実のエリーとの、唯一の共通点を知る。
「あんた、医者かよ」
>4話
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