業火を刻めよ(31)

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火 ライト文芸

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30話

 ヒカルは口元を押さえた。うおおお、という信者たちの熱狂的な歓声が起きる前に、悲鳴を上げるところだった。

 倒れ込んだ桃子は、まだぴくぴくと身体を痙攣させており、まだ生きているかもしれなかった。助けに行こうと反射的に動きかけたヒカルは、桃子に群がる信者たちによって、阻まれた。

 転がる小刀を拾った者は、己が英雄であるかのように掲げた。そして、微かに息をしている桃子に、突き立てる。

「桃子様! 桃子様! 桃子様ああああぁぁぁ」

 首を切った際に、声帯を傷つけたのだろう。桃子は口を動かしているが、悲鳴はひとつも出てこない。

 男は桃子の腹にナイフを突き立てると、薄い脂肪と筋肉を力任せに引き裂いた。蠢く内臓を手に、咆哮を上げる。

 祭壇の周りの薪に、火が放たれた。油が沁み込ませてあったのだろう。生木とは異なる勢いで燃え盛る。信者たちは火が移るのも構わず、桃子の身体に手を伸ばし、入手した肉片を、歓喜を持って食べる。

 目の前の悪夢を、ヒカルは呆然と見つめる。

 愛する女の亡骸が、尊厳すべてを踏みにじられている。瞬間的に憤怒を覚えて、ヒカルは止めようと、前進しようとする。それを止めたのは、黒田だった。

 手首を強く引かれ、ヒカルは「黒田さん!」と強く咎めた。

「どうして止めるんですか!」

「危険だ」

 この空間にいる人間は、全員まともではなかった。辰巳理王は死んだ娘が凌辱されているのを容認し、喜びの涙を流しながら、炎の中で天を仰いでいる。

 桃子の肉体を食らった人間の一部は、そのまま彼女とともに死を迎え、龍神に加護された来世への転生を試みているのだろう。大声で笑い、自ら火炎に特攻している者もいれば、持っていたナイフでお互いを刺し殺し合っている者もいる。

 あるいは、無知な外の世界の民にも、龍神の庇護下に入ることの素晴らしさを教えるために、武器を手に飛び出していった者もいる。聖なる祈りの言葉をぶつぶつと呟き、目はぎらぎらと血走っているのが不気味だった。

「でも、桃子が!」

 せめて遺髪の一束でも、手元に残しておきたかった。ヒカルが発した彼女の名前に、近くにいた信者がぴくりと反応した。

「おい、お前」

 ぬらりと目の前に現れた、身体の大きな男の目もまた、奇妙に澄んでいる。よく見れば、すでに誰かを刺したのか、血に濡れた大振りのカッターナイフを手にしている。彼自身の腹も、他の信者から受けた傷で血が流れ続けている。

「桃子様の名前を、呼び捨てにするとは……まだ祝福が、足りないな?」

 カッターを舌で舐める仕草をした男は、いきなり切りかかってきた。ヒカルは咄嗟に男と応戦することを選んでしまった。ヒカルは実戦経験に乏しい。それゆえに、判断が甘い。

 逃げろ、と叫んだのは、鞄の中から頭を覗かせていた、ウサギのぬいぐるみだった。その異様さには、誰も気がつかない。ウサギが喋ったことなど、この状態では些末なことである。

「ヒカル! 無理だ!」

 訓練は常に、警察の人間相手だ。手練れを取り押さえるのとは訳が違うことに、ヒカルもすぐに気がついた。力任せにカッターを振り回し、突進してくるだけの男だ。隙だらけのはずなのに、ヒカルは倒すことができない。

「ヒカル!」

 エリーは、何もできない自分が歯がゆいのだろう。声には焦燥が滲んでいる。ヒカルは舌打ちをして、撤退を選ぶ。迫る男に注意を払いながらも、走り出そうとしたヒカルは、しかし、誰かの死体に躓いて転んだ。

 ニタニタ笑う男が接近してきて、万事休すかと、目を瞑った。覚悟した痛みはなかった。その代わりに、生温かい液体が降りかかってきた。

 驚いて目を開けると、黒田が血を流していた。

「逃げるんだ……奥沢くん!」

 カッターとはいえ、大振りなものだ。腹部に深く刺さり、致命傷であろうことは、想像に難くない。でも、と言い募るヒカルの目の前で、黒田が再び切りつけられる。倒れそうになりながらも、彼は大きく手を広げて、男の進路を邪魔し、ヒカルを守っている。

「黒田さん!」

「僕はもう、充分に生きた。もう、疲れたんだ……だから、大丈夫」

 何が大丈夫なものか。ヒカルは必死だったが、黒田の目は、桃子と同じだった。

 これが運命だと。逆らわずに、受け入れる人間の、澄んだ目だ。

 何を言っても無駄なのだと、ヒカルもまた悟った。おそらくは最初から、この時代に暮らすことを選んだ日から、彼は限界であったのかもしれない。黒田の姿はきっと、自分の未来の姿だ。

 時空を超え続け、疲弊して、第一線を退いても、この力がある限りは、時間警察に利用される。ただ生きることすら、黒田の神経を擦り減らしていくのだ。

「彼女の願いを……叶えて……」

 それが、彼の最期の言葉だった。猛然と吼えて、黒田はヒカルに背を向け、男と対峙する。黒田の様子に一瞬怯んだ男の手から、カッターを奪って、反撃した。

「ヒカル」

 彼を無駄死にさせてはいけない。

 静かなエリーの声に、我に返ったヒカルは、走り出した。一度たりとも、黒田を振り返らなかった。

 一人で死んでいく黒田に、ヒカルは自分を重ねた。無性に、母の声が聞きたいと思った。あるいは、夢の中の、「父」だと認識している者の声を。

「ぬいぐるみを置いて、走れ!」

 巨大なスポーツバッグとぬいぐるみは、足枷だ。もはや、彼のサポートは意味を成さない。仕事は完遂された。

 二〇一八年三月。

 日本史上、例を見ない惨劇は幕を開け、そして表向きにはそれぞれが、別々の事件として、闇に葬られたのだった。

32話

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