<31話
事件から数日が経過した。テレビや週刊誌での報道は、憶測が憶測を呼び、真実からは遠ざかっている。勿論それは、政府や警察による圧力によるものだった。ヒカルは黒田の家で、一人でそれを確認すると、息を吐きだした。
思ったよりも、パニックには陥っていない。まだ、やるべきことがあるから冷静でいられる。
ヒカルはテレビを消して、立ち上がった。そろそろ向かわなければ、事前にアポを取っている時間に、間に合わない。初めて行く場所だから、迷うに違いない。余裕をもって、家を出た。
一時間半後、ヒカルはパーテーションで区切られただけの応接間に通され、ソファに座っていた。女性が圧倒的に多いオフィス内は賑やかで、なんだかいい匂いがする。でも、そのどれもが桃子の匂いとは違っていて、ヒカルは陰鬱な気持ちで俯いていた。
「お待たせしました。奥沢さん」
立ち上がって、片桐に会釈する。もう一度座るように言われ、腰を下ろす。
「電話でもお伝えしましたが、この度はお悔やみ申し上げます」
ヒカルは黙って一礼した。
片桐には事前に電話で、桃子は実は不治の病を患っており、先日亡くなったのだと説明していた。
「本当は彼女も、モデルをやりたいって言っていました。片桐さんのおかげで、最後の思い出ができてよかった、と」
それは事実だった。桃子には、自由になるチャンスがきちんと用意されていた。でも、彼女は選び取らなかった。こちらを選んでいれば、今日この編集部を訪れていたのは、桃子だったかもしれない。
「それで、片桐さん。写真なんですけど」
桃子の死に心を痛め、目元を拭っていた片桐は、持参していたファイルの中から封筒を取り出して、ヒカルに差し出した。震える指先で受け取って、中を確認する。
めいっぱいおしゃれをして笑っている桃子。その隣で、彼女のことを愛おしいと微笑んでいる、自分。当たり前のカップルにしか見えない。自分にこんな顔ができたのか、とヒカルは少しだけ、驚いた。
「彼女との思い出を、一生大切にしてあげてください。あなたの中で、桃子さんは生き続けるから」
「……はい」
たとえ何があろうとも、桃子のことを忘れることなんてない。ヒカルはそう、頷いた。
※※※
片桐に何度も礼を言って、出版社を後にした。ヒカルは胸ポケットの中に入れた封筒を、折については触れて確認した。ここに彼女はいる。
黒田の写真も、一緒に撮っておけばよかったと思った。彼の遺体は、惨劇の最中に蹂躙されたせいか、身元不明として扱われた。血縁でなく、この時代の人間ですらないヒカルが名乗り出ることはできない。
(……帰ろう)
悲しいことを考え続けると、頭が痛くなる。じわりと痺れるような感覚、それからズキズキと鈍痛がしてくる。少しだけ休んでから、未来に戻ろう。
ふらふらと足を踏み出したヒカルの前に、黒ずくめの男が立ちはだかった。
「……カイ」
カイは、龍神之業の顧問弁護士を名乗っていたが、あの現場には居合わせていなかった。儀式の阻止を期待はしていたものの、彼はヒカルを過信することはなかった。惨劇に巻き込まれるのは馬鹿らしいと、早々に退散したのだろう。
彼はヒカルのことを、ゴミを見るような目で見下してくる。音もなく近づいてきて、ヒカルの耳元に、一言吹き込む。
「人殺し」
と。
反射的に、ヒカルはカイに殴りかかろうとした。実際に拳を握り、振りかぶったのだが、カイは易々と受け止める。不敵な笑みを浮かべると、「ムキになるってことは、自分でもわかってんだろ」と言った。
「お前みたいな犯罪者に、言われたくない!」
「犯罪者? どっちがだよ」
カイは一歩離れ、両手を広げて首を傾げる。一連の動作はすべて、芝居がかっている。一人だけの観客相手に演説でも始めようというのかというほど、抑揚をつけた張りのある声で、堂々と語りかける。
「あの日あの場所で、惨たらしい事件が起きることをお前も俺も知っていた。俺はそれを止めようとした。お前たちは、止めなかった」
「でもそれは、正しい歴史を守るためには必要なことであって……!」
語尾になるにつれて、音量が落ちる。こういうときに、エリーがいてほしかった。ウサギのぬいぐるみは、事件現場に投げ捨ててしまった。おそらく警察が、証拠品として押収しているはずだ。ヒカルは言葉で煙に巻くという芸当ができない、己の頭の回転の鈍さを呪う。
「この時代の人間に聞いてみろよ。あの事件が起きるのを知っていて止めない奴を、正義と言えるのか、って」
「そんなの……」
「胸張って、自分たちだけが正義だって言えんのか!」
正しい歴史を守るという大義名分だけが、壊れそうなヒカルの心を守っていた。桃子と歴史の流れを遵守することを両天秤にかけ、悩みに悩んで出した答えを、エリーは肯定した。黒田の死だって、彼はヒカルのせいだとは思っていないだろうし、時間警察の人間として、正しい判断をしたと認めてくれる。
だが、カイはヒカルを追い詰める。
大勢の人間の命を救うことと、ディストピア的な未来を守ることと、どちらが尊い行いなのか、自明ではないか、と。
ピース・ゼロは自分たちを、時間犯罪者とは認識していない。何よりも人命を優先する。その結果として、歴史の流れが大きく変わり、未来が変わってしまう。ただそれだけのことだ。
彼らは時間を跳躍し、戦争を起こさないように奮闘する。大量殺人鬼による殺戮を、どうにかして止めようとする。
それが、彼らの正義だ。
「多くの人間の死体の上に、お前はいる。それが、果たして正常な人間だと言えるのか?」
ヒカルは反論することができなかった。ぶるぶると震えるのは、怒りではなくて恐怖によるものだ。ヒカルが呆然自失としている間に、カイは立ち去る。何も言えなかったし、できなかった。
雑踏の中で、ヒカルは立ち尽くす。何かに足を引っ張られた気がして、反射的に俯く。
「も……!」
桃子がいた。恨めしいという表情で、ヒカルを睨み上げる。全身を切り刻まれ、臓物がはみ出ている。
『もっと生きたかったのにぃ……どうしてこうなるって、教えてくれなかったのぉ……』
可愛らしかった桃子の声を上書きする、しわがれた、化け物じみた声で恨み言を呟く。振り切ろうとして、走り出す。だが、彼女の姿は自分の脚元から消えてなくならない。
『ヒカルくん……ヒカルくぅぅぅんんん』
やめろ、やめてくれ。彼女の顔で、そんな声を出さないでくれ。
逃げなければ。どこへ。彼女が絶対に、ついてこられない場所。
「あれ? 今そこに、誰かいなかった?」
恐怖が最高潮に達した瞬間、ヒカルの姿は、二〇一八年の東京から消えていた。
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