夢の尾ひれはもう掴めない

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魚の群れ BL

 ゆらゆらと揺れる水面も、自分の在学中には外にあったプールが今や屋内に作られていることで、日の当たり方が違うような気がした。窓ガラスと水、二つの物質を通過した光は果たして、自分が屋外で浴びる光と同じだと言えるのだろうか。


 尤も学生時代に一番不得意だった教科が物理なものだから、答えは出ないのだけれど。


 水中にいるのは一人の生徒だった。石岡いしおかは時計を見てから彼に声をかける。


花江はなえ! そろそろ閉めるぞ!」


 そうすると彼は動きを止めて顔をあげる。ゴーグルをつけたままだが、その目が語る感情は想像に難くない。 それはかつて、石岡も持っていた気持ちだからだ。


「もっと泳ぎたい気持ちはわかるが限界だ。お前が泳ぐことは許可したが、時間は守れ」


 水泳への熱狂をどこかに落としてきたことで大人になったのかもしれないな、と石岡は花江を見るたびに眩しいものであるかのように、目をそらすのだ。


 不満げな顔のまま、花江は仰向けに水に浮かぶ。その目はどこも見ていない。見ているものがあるとすれば、それは彼だけが知る、ゴールの在処なのだろう。


 真っ直ぐに、泳ぐ、泳ぐ。水を掻いて、泳ぐ、泳ぐ、泳ぐ。誰よりも速く、ゴールへと。水中は息苦しいけれど、地上よりも楽だ――あの頃の自分は、そう思っていた。


「花江!」


 ぱしゃり、と音を立てて彼は立つ。じっと石岡を見つめる目は、空虚だ。何も言わずに花江は水から上がった。


 途端に動きが緩慢になるのが、この不愛想な少年の唯一子供らしいところだ。自分の望まない事態になるとふてくされる。小さな子供のようなのがおかしかった。


 会釈すらしない花江に、苦笑するとともに石岡は溜息をついた。

※※※

 好きなことに一心不乱に打ち込むことが才能の一種であるならば、石岡には才能があったと思う。


 小学生のときにスイミングスクールへと通い始めてからはまさしく水を得た魚のように自由自在に泳ぎ回り、選手コースへと移ってからも週に三回、ときには毎日のように飽きもせずプールへと通った。


 全国大会へこそ出場はかなわなかったが、東京の体育大学へ合格できるだけの実力はついた。そのときが自分の人生の絶頂期だったのだと思い返す。


 目指すはオリンピックなどと、そこではとてもではないが口に出せなかった。自分よりも速く、強い選手はいくらでもいた。下から数えた方が早いくらいだった。


 オリンピックや世界選手権、日本選手権といった大会はおろか、インカレですら箸にも棒にも引っかからない。


 大学で石岡は初めて、好きだという才能なんて、誰もが持っているものだと知った。勝つためには、強くなるためにはプラスアルファの要素が重要だった。


 だから逃げた。選手ではなく指導者としての道を選んだ。


 学校の体育教師という、体育大の学生としては極めてポピュラーな進路は、敗残者たちの逃げ道のように誰の前にも用意されている。


 勿論最初から子供たちの指導を行いたいと進学してきた者もいるだろうが、石岡はそうではない。皆が受けるから、という理由で取った教職に縋るときがくるとは、一年時には思っていなかった。


 花江は石岡にはないプラスアルファの強さを持っているように思われた。学生時代の自分が持っていなかった、持っていれば確実に人生を変えていただろう才能が、彼には備わっている。


 才能があるのならば、それを生かさなければならない。石岡は花江を特に熱心に指導した。
速さもさることながら、まるでそれが使命であるかのように止めるまで泳ぎ続ける花江は間違いなく、水泳への愛もまた兼ね備えていた。


 自分には叶えられなかった全国大会への夢、そしてオリンピック……その夢を託すに、花江はふさわしかった。


 事実、県大会では予選、準決勝と一位通過をし、優勝目前だったのだ。だが、決勝での謎の失速。


 教え子に対して失望などしたくはなかった。結局お前もそこまでの人間だったのか、と。自分のことは棚に上げ、心の中で詰った。


 そんな石岡の心の動きを敏感に察知したのか、花江はそれから言うことをきかなくなった。
それまでも従順な生徒とは言い難かったが、礼儀だけは失さなかった。しかし今や、彼は石岡とは最低限の会話しかしない。


 信頼を失ってしまったのが痛い。花江を人形にしたいと思っていたわけではない。自分の代わりに夢を叶えてほしかっただけなのだ。


 次のオリンピックのときは花江が代表として活躍することだってあり得たのだ。そう思うと石岡は唇を噛みしめて悔しがるしかない。


 そしてまた、別の問題も存在する。季節はすでに秋だ。北国であるこの街では、あっという間に過ぎていく。一日一日冬へと近づいていく。温水プールだから泳げなくなるということはないが、花江にはまた、別の問題がある。

「石岡先生、あなたからも何とか言ってくださいよ。顧問でしょう?」


それを言うならあんたは担任だろう、と言いかけて石岡は堪えた。十以上は離れた相手に対して、まだ若手の域を出ない石岡には拒否権はない。


「ええ……何度か話してはいるんですけどね……」
「だってあの子だけ白紙なんですよ? この時期に受験校も決まってないとかありえない!」


 同僚教師の手にあるのは、「花江怜一」という名前だけ書かれた白紙の進路希望調査用紙だった。

※※※

 週に三回、彼は現役の部員たちの横で自由気ままに泳いでいる。それを許可したのは石岡だ。恩を着せておけば、ある程度彼をコントロールすることができる。そういう打算があったことは事実だ。


 そろそろタイムアップだ、と石岡はホイッスルを吹いた。水音が止まる。花江はプールに足をつけ、ゴーグルを外す。この前とは違い、明らかにその目には不満の色が宿っていた。


「あと十五分、あるはずです」


 久しぶりに声を聞いた。三年の体育の授業は担当していないから、石岡と花江が接するのは花江が泳ぎにやってきたときだけだからだろう。


 声変わりをしたのかしていないのかわからない、硬く澄んだ声。こんな生温い水ではなく、冬の滝のような声だと石岡は思う。


「十五分はお前と話す時間だよ」
「俺には話すことなんてありません」


 ぴしゃり。冷たいわけではないのだが、すべてを緩く拒絶する。壁を殴ってもスライムであるかのようにめり込んでいくだけで相手にダメージを与えることができない。


「進路。どうするんだ」


 どうするんだ、と言ったものの石岡はこれがラストチャンスだと考えていた。特に希望などないだろう花江を体育大学へと進学させる。


 毎日素晴らしい環境でトレーニングをすることができて、もっと早く泳げるようになる。そう言って、自分の母校を推すつもりだった。


 学業成績が悪いわけではないし、実技に比重がかかっているから合格はできるだろう。入学さえさせてしまえば、花江は毎日毎日泳ぐ生活に満足するに決まっている。


 だが花江は表情も変えずに言った。


「ああ。もう働くところ決まっているんで」
「就職?」
「はい。まぁ、アルバイトですけど」


 学校のプールを使わせてもらえない平日と土曜日は近くのスイミングスクールで事務と清掃のアルバイトをして、営業前か営業が終わった後に少しだけ、泳がせてもらっている、と花江は珍しく饒舌に語った。


「そこの支配人が高校卒業しても働きにおいで、と誘ってくれているんで」


 白紙で進路希望調査を出したのは迷惑をかけた、と花江は言って、「もう話は終わりですよね。あと五分あります」と泳ぎに戻る。


 アルバイト。スイミングスクールで。近くのスイミングスクールということは、石岡も通っていた教室であろう。


 支配人とは顔を合わせたことはないが、インストラクターはまだ何人か当時の知人が残っている。


「もったいない」


 自然と声に出していた。


「もったいないぞぉ、花江!」


 ホイッスルよりも大きく叫んだが、今度は花江は動きを止めなかった。

※※※

 その日の夢は覚めないでほしかった。


 自分の望み通りに大学へと進学し、大会で実績を残した花江が表彰台から降りてきて、「先生のおかげです。あのとき説得してくれて、ありがとうございました……」と涙ながらに語る、まさしく自分の理想の花江がそこにはいた。


 幸せな夢を壊したのは、電話の呼び出し音だった。


 目を覚ましてからもぼんやりと宙を見つめていて、そうしていれば諦めてくれるかと思ったが、電子音は鳴りやまない。


 諦めるのは自分の方だと悟り、石岡は通話ボタンを押した。


「はい」
『ちょっとみのる!? あんたどうせ起きてるんだから、ちゃんとすぐ出なさいよ!』


 手が滑ったふりをして通話を切り、ついでに電源も落としてしまおうかと思った。

 だがそれをしたら後が怖いので溜息も押し殺し、「ごめん」と口先だけで謝罪をする。相手はそれでも満足した様子で、「ふん」と鼻を鳴らした。


「で、なんだよ」


 時計を見ればまだ八時。部活のない日曜くらい自堕落な眠りを貪りたいものだ。


 こんな時間に電話をしてきた相手に恨み言のひとつやふたつぶつけてやろうかと考えるが、彼女は石岡に口を挟む隙を与えない。


『あんた日曜日は暇なんでしょ? まだ寝てたってことはどうせ彼女もいないだろうし』
「どうせって……」
『でもいないでしょ?』


 あんたのことは全部お見通しよ、とふんぞり返る彼女の姿が脳裏に刻まれている。

 昔からそうだ。弟は私の奴隷で当たり前でしょう、と振り回してくれる、彼女は石岡家の女王だった。


 婚家でも夫を振り回しているのかと思っていたが、時折帰省してきては母親に愚痴を言っているところを見ると、そうでもないらしい。


「いないけど、なんだよ」
『来週から空けといて。うちの子泳げるようにしてちょうだい』
「はぁ?」


 姉の言い分はこうだ。


 息子の大貴だいきが小学校に上がった。水泳の授業で全然泳げなくてクラスメイトには馬鹿にされ、舅と姑も、「まぁ、仕方ない……」と言いながら自分をちらちらと嘲るような目で見る。

 姉は人より少し恰幅がよく、運動は苦手だ。

 息子ともども馬鹿にされ、一念発起してスイミングスクールに通わせたが、人見知りの大貴はインストラクターや子供たちとなじめずにすぐにやめてしまった。

『来年までに泳げるようにしてほしいのよ。最低二十五メートル。あんた、できるでしょ? それに学校のプール使えば無料だし』
「待てよ、姉さん。無理だって」

 高校教師たる石岡ができるのは泳ぎがある程度得意な子供をより速く泳げるようにする手段を指導することであって、まるで泳げない金槌をどうにかするなんていうのはやったことがない。

 責任を持てないことはやりたくない。

 それに学校のプールの使用許可が下りるかどうかもわからない。

 校長は穏やかな好人物で、三年で引退した花江が泳いでいるのも特に何も言わないが、顧問の身内とはいえ、部外者を泳がせるのにはいい顔をしないに違いない。

 だが姉が彼の言うことを聞くはずもなく、「いいわね!」と強く押し切られ、通話はそこで打ち切られた。

 ツー、ツー、と空しい音を聞きながら、今度こそ石岡は深い溜息をついた。

 姉の嫁ぎ先は比較的近所で、自動車で一時間弱も走れば石岡家にたどり着く。

 チャイムも鳴らさずにやってきた姉は、大きな身体を持て余しながらリビングへと入り、ソファーに「やれやれ」と腰を下ろした。

 お茶は、と言われる前に石岡は彼女の前に麦茶を置く。

 暑がりな彼女に熱い日本茶の類は厳禁だ。嫌味を言われるだけでは済まない可能性がある。

 よくこれで結婚できたものだ、と感心したが、そういえば授かり婚だった。

 義理の兄にあたる男はモヤシっ子がそのまま大きくなったような人間だったから、押し倒されて抵抗できなかったのかもしれない。

「大貴、でっかくなったなぁ」

 叔父として当たり前の笑顔を浮かべ、頭を撫でようとするが甥の大貴は怯えたように、細く小さな身体を自分の母親の後ろに隠して、「こんにちは、実おじちゃん」とか細い声で言う。

 父親似だ。母親に似なかったのは不幸中の幸いだが、これでこの先の人生やっていけるのか、と不安にもなる。

「ほら、早くこの子プールに連れて行ってよ」
「って姉さん行かないのかよ」
「私が何しに実家に帰ってきてると思ってんの? 息抜きよ、息抜き! わかる?」

 大貴の水着やタオルが入っているバッグを押し付けられて石岡は途方に暮れる。

 目線を下に向けると、困惑した大貴と目が合った。これ以上この子を困らせるわけにはいかない。石岡は「行くぞ」と甥と手を繋いだ。

 売れるだけの恩を売っておくことは必要だ。あのとき便宜を図ってやっただろう、と「頼むよ」と懇願するための布石を打っておく。

 そのためだけに花江を呼んだ。プールの使用許可を取ったが、お前も泳ぎに来るか、と。

 確執があったとしても泳ぎたいという欲求には勝てない花江は、二つ返事で頷いた。

 大貴を目にした花江は目をわずかに見開いた後で、「こんにちは」と彼にしては丁寧に挨拶をした。

 その表情に今度は石岡が目を丸くする。

 石岡の前では滅多に表情を変えない花江が、うっすらと唇に微笑みを、目には優しい色を浮かべていた。声もやや、柔らかい。

「花江怜一っていうんだ。よろしく」

 甥の水泳の練習のために借りた、という事情は話してあったが、花江が子供の扱いに慣れているとは思わなかった。
 教師とはいえ石岡は自我のはっきりした分別のつく高校生を相手にしているため、大貴の扱いにはやや困惑気味なのに比べると、随分としっかりしている。

 大貴もはにかみつつ微笑んで、「里中……大貴、です」と挨拶をして、差し出された花江の手を取った。

「じゃあ先生、俺は隣のコースで勝手に泳いでますんで」

 準備体操を終えた後、早く泳ぎたいという気持ちを抑えきれずに花江は早速飛び込んだ。

 人間の身体が水に落ちたとは思えないほど、小さなぱしゃりという音に敏感に大貴は反応して、顔をそちらに向けた。

 口を開けたまま、花江の泳ぎを見つめていた。こんなにも熱心な観客がいるだろうか。石岡は思う。

 速さだけを追い求める、強い泳ぎだけを称賛する、レースの観客ではなくて大貴はただ、花江の泳ぎに圧倒され、うっとりとそれを見つめていた。

「……すっごい……」

 舌足らずな甲高い子供の声がそう呟いた。ぱっと顔をあげて石岡を見る目は、もう怯えてはいなかった。

「実おじちゃん!」
「お、おう?」
「ぼ、ぼくも、ぼくも、おじちゃんに泳ぐの教えてもらったら、あのお兄ちゃんみたいに、きれいに泳げるようになる!?」

 綺麗、と言われて石岡は初めて、花江の泳ぎ方の美しさに気がつく。

 そうだ、花江は美しいのだ。

 地上にいるときは一見地味で表情変化に乏しくとっつきにくいのだが、水中にいるときの彼は非常に素直で、力を入れすぎないそのフォームは確かにきれいだ。

 大会でしか会わない他の高校の女生徒が花江のことできゃあきゃあと騒いでいたのを思い出す。

「泳げるようになるさ。きれいに、速く」

 才能があれば、と石岡は言わなかった。

 毎週のように姉は大貴を連れてきた。最初のときと違って大貴はもう、石岡相手に人見知りを発揮することはなかった。

 手を繋いで歩く行きの道の度に、「怜一くん、今日もいる?」と笑顔で聞いてくる。

 それに頷きながら、石岡は内心で溜息をつく。

 おっかなびっくり水と触れあっていた大貴は、徐々にではあるが泳ぐ喜びが芽生えてきた様子だった。ビート板を使ってのバタ足で二十五メートルは泳げるようになった。

 それは喜ばしいことなのだが、花江の件は一切進んでいない。

 もうすでに、短い秋は終わり、長い冬がやってきた。年が明けたらすぐに出願締め切りがあるので、説得するための時間はあと少ししか残されていない。

 願書は取り寄せたものの、彼が受け取るとは思えないし、勝手に出願するわけにもいかない。

 どうしたものかと考えている間に、学校についてしまう。

「こんにちはっ」

 真っ赤な頬がより一生懸命さを演出している大貴は、彼にしては大きな声で花江に挨拶をした。

 それを無視するでもなく、少しだけ笑って花江も「こんにちは。大貴くん。今日も頑張ろうね」と優しく声をかけ、頭を撫でた。

 自分よりも余程身内のようだな、と感心して尋ねると、同じ年頃の弟がいるそうだ。

「なるほど」
「あのくらいの年の子供見てると、どうしても放っておけないんですよね」

 そういう花江の目は、あくまでも優しかった。その珍しい光景を、石岡はしばらくぼんやりと見つめていた。

 堪忍袋の緒を切るのならば、自分に対してではなくて本人に対して切れればいいのに、と石岡は思った。花江のクラスの担任だ。

 ヒステリックな声をあげて、

「フリーター!? 困りますよ! この学校は今、進学校に生まれ変わる過渡期なんですよ? 受験すらせずにアルバイトで生計を立てるなんてありえない!」
 

 となぜか花江ではなくて石岡に対して怒り狂った。

 まだ若く経験の浅い石岡が「はぁ」と生返事で済ませれば、目の前の担任教師は更に機嫌を悪くする。

 逃げるように職員室を出た。

 タイムリミットが迫っているのは石岡もよくわかっている。あと二週間もすれば冬休みで、その後は卒業式まで三年生は自由登校になる。

 現状受験をするつもりのない花江は学校には来ないで、アルバイト先のスイミングスクールで過ごすだろうことは明白だ。

 だが石岡は花江の在籍する三年二組の教室に行くことはなかった。行っても彼は何も話さないに決まっている。

 花江が饒舌になるのは水の中だけ。しかもそれは、音声にはならない。

 ただ、泳ぐのが好きなのだと、楽しいのだと、水中こそが自分の世界なのだと主張するだけで、石岡の話を受け入れるということは決してない。

 それでも進路指導室に呼び出すよりは、プールサイドでの方がましなような気がして、石岡はこの週末に賭けることにした。

 大貴にビート板を使わせた練習をさせている最中、石岡は花江をベンチに座らせて進路について話をした。

 花江は石岡を見ずに、プールを見つめている。早く泳ぎたいというのが見え見えだった。

 結果は、といえば惨敗だった。花江は大学進学をしないことを心に決めており、石岡の説得を聞き入れない。

 いいや、説得ではない。彼のためではなく、自分の、学校のためを思っての話は決して、花江の心を動かすことはない。

「親はなんて言ってるんだ」

 親を引き合いに出すのは少し卑怯だとも思った。案の定花江は鼻でそんな石岡を笑う。

「親は関係ないでしょう」
「関係あるさ。お前はまだ高校生で、子どもだ」

 ふ、と花江は溜息をつくが、溜息をつきたいのはまったく、こちらの方である。

「子どもかもしれませんけれど、親は認めてくれているから、先生たちには関係ありません」

 失礼します、の一言もなく、彼は水へ飛び込んだ。隣のコースでバタ足の練習をしていた大貴が、嬉しそうにそれを見ていた。

 幼く背も低い大貴はプールの底に足がつかないので、あまり見とれてばかりいると溺れてしまうのに。

「大貴! 足止めるなら端に掴まれ!」
「う、うん」

 おとなしく大貴は端に寄り、よじよじと登って、プールサイドに座って花江を見つめていた。

「怜一くんみたいに泳ぎたいなぁ」
「……バタフライはまだちょっと無理なんじゃないか?」

 泳ぐもん、と口をとがらせる大貴に対して少し笑ったが、内心はそんな余裕はなかった。

 もう花江は何度説得しても無駄だろう。石岡は諦めの境地で彼の泳ぎを見つめていた。もう自分が指導することなどない。

 いいや、花江に関して言えば、最初から指導することなどなかったのだ。完全ではないけれど、美しく強い泳ぎに、自分が持たないそのフォームにひそやかに憧れていたのは、大貴よりも自分の方だった。

 一休み、とプールサイドに上がってきた花江に大貴がぱたぱたと近づいていく。

「怜一くんみたいに泳げるようになるには、どうしたらいいの?」

 小首を傾げる大貴の様子に、花江は不意に微笑んだ。無邪気にそれを大貴は喜んでいるが、石岡はなぜか、背筋に冷たいものが流れるのを感じた。

「俺みたいに、泳ぎたい?」
「うんっ! 怜一くんみたいに、人魚みたいにきれいに泳ぎたい!」

 ちらりと花江は石岡の様子を伺った。一瞬迷ったが、石岡は頷いた。

 大貴の指導権を花江に託す。いい感じはあまりしないのだが、もしもこれで子どもを指導する楽しさに目覚めたならば、大学進学を考えてくれるようになるかもしれない、という打算も多少はあった。

 おいで、と差し出された花江の手をはにかみながら大貴は取った。プールサイドを二人でゆっくりと歩き、飛び込み台の上に大貴が立つ。

 大貴はおっかなびっくりの様子だし、少し危ないかとも思ったが、花江がぎゅっと手を握っているから大丈夫だろう。

 高いねぇ、怖いねぇ、と大貴は花江に一所懸命に話しかけている。

 花江の表情は変わらない。水の近くにいる花江はぞっとするほど美しい。

 教室でぼんやりと起きているのか寝ているのかわからないときとは違い、爛々と目は輝いている。

 怖いの、とその唇が動いた。怖くないからね、とまた音もなく囁く。

――怖くなんてないよ。水中は、とても優しい世界だから。

 どうしてその瞬間、目を離してしまったのか。石岡は後になってもそれが不可思議でならなかった。

 いいや、離したわけではないのだ。むしろ、花江の奇妙な笑顔から目が離せなかったのだ。

 石岡が我に返ったのは、大きな水音が聞こえてからだ。一瞬遅れて、何が起きたのか理解する。

 水中で手をばたつかせてもがいているのは大貴だった。無我夢中でプールサイドを走り、飛び込み、泳ぎ、救助する。

 げほげほと咳き込む大貴を腕に抱いて、石岡は花江を見つめる。

 目の前で親しくしていた子供が溺れているというのに何の反応も示さずに微笑んでいる花江は異様だった。

「どうして……」

 尋ねたつもりはない。ほとんど独り言だった。花江は石岡の目をじっと見つめる。その色は、淀んだ水と同じように濁っている。

「残念。もう少しで、大貴は水の中が何よりも優しい、天国みたいな世界だってわかったのに」

 それじゃなきゃ、俺みたいには泳げないよ。

 花江の静かな述懐に、石岡はようやく、花江が大貴を突き飛ばしたことを知る。

「花江……」

 せんせい、と花江は唇を歪めた。水でTシャツが張り付くのとはまた違う居心地の悪さが石岡を襲う。

「先生たちは、俺を地上に縛り付けておきたいのかもしれないけれど、無理ですよ。だって俺は、水の子供だから。母さんが、教えてくれたんだから」

 すべての生命の源は海である、という次元の話をしているのではない。ぎゅ、と震えている大貴を抱きしめた。

「ねぇ先生。俺はいつか、水へ還ります。いつかきっと、果てがやってくる。かわいいから、大貴も連れていきたかったけれどダメですね」
「お前……」

 怜一くん、と大貴はもう彼のことを呼ばなかった。怯えたような目で見つめている。

 何事もなかったように花江は隣のコースに飛び込み、悠然と泳ぎ始めた。石岡はそれをただ、見つめることしかできなかった。

 ――水の申し子を自称する花江の過去は、あくまでも噂話でしかない。だがその噂を肯定するいくつかの事実が存在する。

 今いる花江家の母親は、彼の実の親ではないこと。実の母は離縁されて、花江家と関係のある精神病院にいるということ。両親が花江に対して腫物に触るような扱いをしていること。

 花江怜一は幼いころ、実の母親に殺されかけた、らしい。そしてそのとき、水の子供として覚醒した。

 そう考えるのが妥当のようだ、と石岡は図書館で当時の新聞を読み漁り、結論付けた。

 殺人未遂とするには、母は狂いすぎていた。もう自分自身が産んだ息子だということすら、覚えていなかった。責任能力はないものとされた。

『俺はいつか、水へ還りますよ』

 彼は心の底から自分が、生まれる場所を間違ったのだと信じている。自分は魚として生まれるべきで、人間ではないのだ、と。

 だから、だ。だから石岡は、その人間離れした美しいフォームを見て羨ましく思った。

 夢の幻影を追ってしまった。手が届くはずがない。所詮ヒトと魚は相容れない。

 掬った水が隙間から零れ落ちていくように、夢のかけらがぽろぽろと失われていく。

 残ったのは屑みたいなプライドだけだ。自分で掴むことをやめてしまった夢はもはや、美しくも魅力的でもないのだということに、石岡は気が付いてしまった。

 花江はきっと、これからも夢を見ていくのだろう。いつか水へ、故郷へと還る日まで。

 それがいつなのかわからないけれど、優しい水のベッドで揺蕩いながら、夢を見ていくのだろう。

 それがうらやましくもあるが、所詮己は人の、大地の子だ。石岡はもはや、夢を追うことはないだろう。

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