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「だからお願いって。ちょちょいといい感じに雨を降らせてくれたらいいんだからさ」
ホムラの居場所として用意されたのは、神聖な滝壺近くの庵であった。最初にレイニに案内されたとき、なるほど、精霊界との間の障壁が周りより少し薄いことに気がついた。伊達に聖域と指定されているわけではない。
人気のない早朝、ホムラは滝に向かって拝み倒す。水飛沫で出来る虹の奥、ルルの表情はよく見えないが、嫌そうだというのはわかった。
『ええ~? 面倒くさ~い』
精霊は気まぐれで、人間世界に顕現したとしても一瞬で消えてしまったり、逆に数十年単位で住み着く者もいる。レイニは微笑み、「いつまでもいてくださって構いませんからね」と、庵での生活の世話を率先して行う。
「族長の息子がこんなことをしている場合か」と、ホムラは彼の前でも威張った態度を崩さずにいる。
召喚されてすぐに引き合わされた彼の父、ナパールの族長は、じろじろとホムラのことを値踏みした。息子と似ているのは、肌と髪の色くらいで、レイニが老いたところでこうなるとは思えなかった。おそらく、彼の美貌は母譲りなのだろう。
精一杯、精霊らしく胸を張ったホムラからはすぐに目を離し、父親は息子を睨みつけていた。
「勝手にしろ」という言質を取ったレイニによって整えられた人間界での生活は、ホムラにとっては快適なものだった。
ただし、人間からあれこれお願いをされなければ、という注釈がつく。
『今度、あんたを召喚した御巫を見せてくれるっていうなら考えるけど』
水鏡を通せばいけるでしょ、という交換条件には、
「ごめん。それは無理」
そう即答していた。
少し考えて、「……実は俺を喚んだ御巫ってのが、毛むくじゃらで汗っかきな男だったんだよね。ルルの好みとは真逆だろ?」と、嘘をついた。
『ええ~? なんでそんなのが御巫やってんのよ! っていうか、あんたも精霊なら、そんな奴に引っかかるんじゃないわよ』
ホムラは両手を合わせ、
「なぁ、本当に頼むよ。おれじゃあ、役に立たないんだ」
と、先ほどまでよりも真剣に頼む。
ルルはルルで、変わり者だ。同じ元素を司るでもない、みそっかすのホムラを時折訪ねては、世話を焼く。
人間界と精霊界、隔てられた今でさえ、ホムラはきっと、ルルなら自分の願いを聞いてくれるだろうという確信があった。
案の定、ルルは深く溜息をついた。
『もう! こっちに帰ってきたときには、覚えてなさいよっ』
「うん。ありがとう、ルル!」
もしも触れることができるのなら、彼女の手を両手で握って、ぶんぶんと振っていただろう。ルルの協力なしには、ホムラの人間界での生活は成り立たない。
『三日後に雨を降らせるわ。あとはお好きに』
「うん。恩に着る」
彼女の予告に合わせて、適当な祈祷や術を使うフリをする。そうすれば、人間たちにはホムラによって成された奇跡であるように見える。
騙している罪悪感は、ある。特に、レイニに対しては、真実を告げた方がいいのかもしれないと、思うこともある。
しかし行動に移せないのは、彼の顔が一瞬でも曇ることを想像すると、胸が痛むからだった。
毎日顔を合わせる度に、「精霊様」と跪き、忠誠を誓う彼を、失望させたくない。いいや、本当は、力のない火の精霊である自分に幻滅する顔を見たくないという、身勝手な理由だった。
細かい日時や、雨を降らせるための術の手順を確認しているところに、「おーい、せいれいさまぁ!」と、遠くから声が聞こえてきた。心得たように、ルルは素早く姿を消す。
ホムラは一度目を閉じてから、振り向いた。勢いはなるべく殺し、そわそわした様子は決して見せない。手本にすべきは、火の精霊王・イフリートだ。背筋を伸ばし、胸を張る。低い声で、ゆっくりと話す。
精霊様の邪魔をしないように、用もないのに庵に行くのはやめるよう、親は口を酸っぱくして注意しているが、子どもたちは言うことを聞かない。
自分たちと似た姿をしているけれど、明らかに異なっている精霊に興味津々で、好奇心の赴くままに、ホムラの元を訪れる。
レイニたち大人は謝罪をするが、ホムラは嬉しかった。子どもたちは素直で、嘘がつけない。彼らに受け入れられていると思うと、自分がダメ精霊を脱して、立派な行いができているような錯覚を起こす。
やってきたのは、五歳くらいの男児ふたりと女児がひとり。ホムラは屈んで、彼らと同じ目線になる。
「せいれいさま、おはようございます」
「おはよう。今日も早いな」
何せ、雄鶏が鳴いてから間もなく、太陽も昇りきらない、正真正銘の早朝である。ホムラが思わず苦笑いするも、子どもたちはまだ、表情を読むことができない。
「あのね、せいれいさま。きょうはね、おねがいがあるんだよね」
「なんだい?」
普段は大人たち、特に農耕に携わる人間から依頼を受けることが多い。子どもから直接の「お願い」には、是が非でも応えてやりたくて、ホムラは質問を促した。
もじもじと話す言葉を選んでいるのは、おとなしいラジだ。その隣でやんちゃなサイは「早くしろよ」とばかりに、森で拾った長い木の枝で、友達をつついている。
しびれを切らしたのは、紅一点の女の子だった。
「シャビィ、せいれいせきがみてみたいの!」
せいれいせき……精霊石か!
「ねぇねぇ、せいれいさま! せいれいさまはみんな、せいれいせきをもっているんでしょ?」
精霊は、生まれる場所が決まっている。
火の精霊ならば、火山のマグマだ。何の前触れもなく、精霊として目覚め、地上へと這い上がってくる。
そのときに、必ず手で握っているものがある。それが、精霊石であった。精霊石は、精霊にとっては故郷を象徴するものであり、力の源でもある。絶対になくさないように、各人が工夫している。
例えばルルは、手の甲に埋め込み、手袋で隠している。本当に大切なものなので、同じ精霊にすら滅多に見せないほどだ。
「あ、ああ……えっと」
しかし、ホムラは精霊石を持っていなかった。なくしたのではない。最初から、所持していなかった。力を制御できないのも、そのせいかもしれないと思っている。
「どこにかくしてるの? ここ? ここかな?」
ホムラの着ている薄い絹でできた洋服は、女性が着るドレスのような代物で、子どもたちは長い裾をバサッとめくり、ああでもないこうでもないと精霊石を探す。
「こらこら。そんなところにはないぞ」
ははは、とホムラが鷹揚さを演出するためにわざとらしい笑い声を上げる。子どもたちは調子に乗って、ホムラの脚を掴んだり、尻に触れたりする。
「ラジ、サイ、シャビィ!」
ホムラの認識では、じゃれ合うことで有耶無耶にできてよかったよかった……だったのだが、遠くから聞こえてきたのは、怒声だった。
瞬間、ホムラから離れた子どもたちは、緊張の面持ちで整列する。
声から遅れて到着したのは、レイニだった。
「お前たち、精霊様に何をしている!」
どこから走ってきたのか、レイニの息は弾んでいたし、頬もわずかに上気していた。
彼は並んで硬直し、「でも」「だって」を繰り出す子どもたちに、拳を見せつける。
暴力はよくない、とホムラは彼らの前に立った。
「ほら、子どもたち。朝ご飯も食べずに出てきたんじゃないか? 父と母が、心配しているぞ」
顔を上げるよりも先に、ラジと呼ばれた男児の腹が音を立てた。頭を撫で、帰宅を促すホムラに、「せいれいさま、ごめんなさい」と言う。
ホムラは微笑み、「大丈夫だ。精霊は、こんなことでは怒らない」と請け負った。
安心した子どもは、レイニからさらに遅れてやってきた彼の従者に先導され、家に帰っていく。
「……」
レイニはなぜ、去らないのだろう。
隣で、小さくなる子どもたちの影を見送る彼を、ちらりと横目で窺う。
朝の清涼な空気の中のレイニは、また格別に美しい。髪の毛が、朝露でほんのりと濡れている。
このまま、閉じ込めてしまえたらいいのに。
高位の精霊は、気に入った人間を精霊として転生させ、身近に置くこともあるという。ホムラのような下級も下級、雑用しか任せてもらえない精霊にはわからない次元の話だ。
レイニが他の精霊に知られれば、拐かされてしまうかもしれない。
ホムラは今一度、彼の存在はなんとしてでも秘匿せねばと固く決心する。
子どもたちが完全に見えなくなってから、レイニはくるりとホムラに振り返った。見惚れていた横顔が、急に真正面を向いたため、驚いて声を上げる。
「精霊様。どうしてそちらのお召し物を着ていらっしゃるのですか」
「え?」
自分の姿を見下ろす。精霊界ではまったく珍しくない薄いローブだ。肩は丸出しで、長い裾は地面を引きずらない。風通しがよく、お気に入りなのだ。
レイニはホムラに、上衣と下衣に分かたれた衣服を何着も用意してくれていた。何度か袖を通したが、そもそもズボンを履くという習慣がないホムラは、二つに分かれた服を着るのは面倒だと結論した。
結局、箪笥のこやしになっている。
「子どもたちにスカートめくりなんてされて……!」
「スカートめくり? 子どもたちはただ、遊んでいただけだが」
「その遊びが問題なのです! サイなど、服の中に入り込んでいたではないですか! 脚だの尻だの、もみくちゃにされたのではないですか!?」
族長の長子という境遇もあってか、レイニはいつだって冷静沈着であった。ホムラを優しい目で見つめてくることはあれど、長い髪をがしがしと掻き回し、取り乱している姿は初めてだ。ちなみに言っていることは、半分もわからない。
ぷっ、とホムラは噴き出した。
なんだ。
堅物で感情があまり動かない男、自分などよりも精霊らしい男だと思っていたけれど、人間らしい一面もあるんじゃないか。
これまで、皆の理想の精霊像を演じていたホムラもまた、今初めて、レイニの前で自然な笑顔を見せた。声を上げるホムラに対し、レイニは目を丸くしている。
そんな顔もおかしくて、さらに腹の奥底から笑いがこみ上げてくる。
「精霊様」
「ホムラ」
さらりと名前を言った。レイニは、それが目の前の精霊の名前であることに思い至らず、怪訝な顔をする。
自分の胸を指し、もう一度、「ホムラ」と言った。
「おれの名前だ。レイニには、呼んでもらいたいと思って」
いつまでも「精霊様」では味気ない。尊敬だけじゃなく、もっと他の感情を、表情を、レイニから向けられたい。
それはレイニのことを「人間」という種族や「御巫」ではなく、「レイニ」というひとりの人間として認めたということでもあった。
「ホムラ、様?」
「うん」
他人行儀に「精霊様」と呼ばれるよりも、よほどよかった。レイニの低い声で呼ばれると、なんだかくすぐったい気持ちになる。表情は厳かさのかけらもなく、だらしなく崩れてしまっているだろう。それでも構わなかった。
「あのさ、おれ、レイニたちが望むような立派な精霊なんかじゃないんだけど、それでもここにいて、いいのかな?」
水の精霊であるという嘘はつき通さなければならないが、それ以上レイニを騙す真似をしたくない。
おそるおそる、普段の口調で切り出したホムラに対して、レイニは数度瞬きをして、さっと跪いた。
「えっと」
突然の行動に狼狽え、二歩ほど後ずさりかけたホムラの手を、レイニは優しく、されど力強く引いた。
「私の忠誠は、常にホムラ様のものですから……あなたがどんな方であっても、それは変わりません」
握られた指の先に、軽い口づけを受けた。ほんのわずかに触れただけなのに、先端から熱が上がってくる。
火の精霊のくせに、こんな熱さは知らない。
ホムラは頬を真っ赤にして、うんうん頷くことしかできなかった。
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