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<21話
その日の飛天は早起きだった。つい先日までのニート生活が嘘のように、規則正しい生活を送っているものの、さすがに六時に起きたのは、高校生以来のことだ。
すでに起きていた母親がぎょっとして、「ちゃんと眠れたの?」と心配してくる。ニート中なら、何時に起きようが起きまいが、当たり障りのないことしか言わなかった。早いのね。ずいぶん遅いじゃない。そんな一言はなく、常に「おはよう」だけだった。
「ぐっすり寝たよ」
きちんとお互いの顔を見た会話ができるようになったのは、自分の生活が充実しているからだ。トレーニングをして、バイトに行く。一日の楽しみは、映理との電話だ。
相変わらずバイトでは着ぐるみの中の人で、アクションはさせてもらっていないが、どんな姿をしていても、映理は飛天のことを見に来てくれた。
そんな彼女に感謝をしているからこそ、今日は勇気を出して出かけなければならない。
飛天は洗面台を独占する。スタイリング剤をスプレーしてから、ヘアアイロンでゆっくりと髪を巻く。
飛天の髪の毛は男にしてはやや長い。顔を隠し、人目を避けるためには都合がいいからだ。そして今は、慣れないヘアアイロンを使うにも。
一番低い温度でも、一〇〇℃近くある。頭皮に触れたら火傷は免れない。恐る恐る飛天は、一束だけ髪の毛を挟み、くるんと巻きつける。
昨日ネット動画で見たのと同じように、一、二の三で滑らせて、癖づけする。が、どうも上手くいかない。もっときちんとくるくるになると思ったのだが、想像と違っている。
「おはよー……って、お兄ちゃん、何やってんの? 私のアイロンで……」
大学は夏休みに入ったが、その分バイトのシフトを詰め込んだ水魚も、遅れること二十分、起きてきた。半眼で、自分のスタイリング剤とヘアアイロンを使用している兄のことを見る。
「や、その」
上手い言い訳をしようとして、言葉が出ない飛天に対して、「仕方ないなあ」と呆れ、水魚はヘアアイロンを取り上げた。
「貸して。んで、ちょっとしゃがんで」
中腰になった飛天の髪を、妹は慣れた手つきで器用に扱う。早業に感嘆していると、「自分で自分の髪を巻くのって、難しいんだよね」と笑った。
「しかしお兄ちゃん、いきなり髪の毛巻き始めるとか、どういう風の吹き回し? 隠居前も、一回もパーマかけたりとかなかったよね」
隠居て、お前。
面と向かって、「ごく潰し」と呼ばれていたときのことを思えば、マシな扱いか。飛天はツッコミを引っ込めた。
アイドル時代の飛天のトレードマークは、黒髪ストレートだった。激しいダンスで揺れ、汗が毛先から流れ落ちないように掻き上げる仕草が、セクシーだと自己評価していた。黒歴史である。
事務所を辞めて、俳優として小さな舞台をいくつか踏んだが、たまたま髪を染めるような役はなく、飛天はアイドルのときと同じ髪型を保ったままだった。
自分を知る者のイメージを払拭したかった。眼鏡とマスクは続けるが、今日向かう場所は、それだけでは足りないと不安になったのだ。
>23話
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