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<第二話②
会場の建物前で待ち合わせたマスターは、なぜかげっそりしていた。
「どうしたんですか、マスター。昨日そんなに忙しかったんです?」
言っても、隠れ家的なバーである。若い子たちが行くような、ガンガン音楽が鳴り響き、踊ったりするクラブとは違う。絡み酒がひどい人もあまりいない、大人の社交場って感じの「月虹」で、こんなにも気力が削れることがあるとは考えにくかった。たまたま変な酔っ払い客でも来たのだろうか。
首を傾げる私を、マスターがじっと見る。
え? 私?
今週も二回か三回、開店準備を手伝った。足りないものを買い出しに行ったり、店の掃除をしたり。でも、一度も接客をしたことはないから、「月虹」の営業に直接関係はしていない。
きょとんとしていると、彼は大きな溜息をついた。私がある程度回復したと思ったら、今度はマスターの元気がない。
「ど、どうしたんですか? 終わったら、美味しいケーキ食べにいきます? 私、実は行ってみたい店があるんですよね。あー、でもここからじゃ遠いや……近場だと、駅ビルになんか入ってましたっけ? ってか、マスターって甘いの平気です? 陽太は結構食べるけど……」
一気にまくし立てる私に圧倒されるマスター。ああもう、またやっちゃった。お口にチャックで黙った私に、マスターは力なく言った。
「……終わったら、陽太に電話してやってくれ」
「陽太?」
日曜日に休む不動産屋はいない。家を探すのは三十分や一時間では終わらず、一日がかり、場合によっては何日も内見を繰り返す。一般的に休みの人が多い土曜、日曜こそ働かなければならず、陽太は今日も、五稜郭にある事務所に出勤しているはずだ。場合によっては、家を借りたい人を案内しているだろう。
「いいですけど……なんで?」
乾いた笑いを浮かべ、マスターは答えなかった。兄弟喧嘩でもしたのかな。アラサー兄弟の喧嘩って、滅多にやらないからこそ深刻なのでは。でも、本当に目も当てられないくらいの激論になったのなら、こうして私と一緒に税金教室には来てくれないか。
「とにかく、電話だ。いいな?」
念押しをされ、私はびくびくしながら頷いた。
そのまま彼の後ろをついて、会場へ向かう。
無料教室は、今後の顧客獲得のための施策なのだろう。来場者受付では、名前や電話番号を書く欄があった。
まあ、確かに会社の年末調整すら「面倒!」と思っていた私が、自営業の確定申告やらなんやらを、自分でできるとは思えない。もしかしたら、相談することはあるかもしれない。マスターの伝手で、安くならないかなあ、と現金なことを考えて、会議室の中に入った。
入口で渡された今日の予定表には、講義を担当する税理士の名前も書いてあった。間慎也。
「この人が常連さんですか?」
会場内には、顔見知り同士もいるらしく、そこそこざわざわしていたが、なんとなく小声で尋ねた。マスターは頷いた。
「どんな人ですか?」
「そうだな……」
言ったきり、黙ってしまう。そんなに難しい質問だったかな。「どんな」と形容するのが、そんなにも難しいのだろうか。
「えっと、にこにこしたおじさんだとか、若い人だとか、そのくらいの情報でいいんですけど」
どこまで懇切丁寧に、間税理士の人となりを説明すべきかと考えていたマスターは、「ああ」と頷いた。
「寡黙な人だ」
マスターとどっちが?
と、即座に考えた質問は、飲み込んだ。おとなしいからどうこうってわけじゃない。あまり喋りたくない人は、「真昼の月」よりも「月虹」の方を選ぶよなあ、そりゃ、と思っただけで。
「真面目で、頼りになる。少しとっつきにくいかもしれないが、終わったら紹介するか?」
「それはもう、ぜひ」
全然知らない人に相談に行くよりも、ハードルが下がるのはいいことだ。
そう考えて頷いた私を、十数分後の私は、殴りたくなるくらい、後悔した。
(……私、なんかしたっけなぁ、バチが当たるようなこと)
会議室に長机を並べ、前方にはホワイトボード。
大学の講義のときも思ったけれど、どこに座るかで性格が出る。
私? もちろん後ろの席を陣取っていた。
マスターは違うらしく、せっかく常連客に誘われたのだから、「来たぞ」と知らしめるために、前方の席を選んだ。離れて座るわけにもいかず、私も一番前に座らされる。
そして現れた今日の講師を見たとき、私は思わず、「あっ」と声を上げてしまった。どうした、と隣から視線を送ってくるマスターをよそに、慌てて口を両手で押さえ、背中を丸めた。どれだけ小さくなったところで、消えてなくなることはできない。
講師の顔をまともに見られなかった。
だって、トマトソースパスタを出した日に、怒らせてしまった男の人だったから。
うっかり声を出した私を、睨みつけている気がする。頭のてっぺんに視線が突き刺さる感じがして、ますます縮こまる私を、隣に座ったマスターが心配して「大丈夫か?」と、小声で話しかけてくる。
ここで外に出るのも目立ってしまってよくない。私は顔を上げ、マスターには笑顔を見せた。
「だ、大丈夫です。うん、大丈夫。私は元気」
どこぞのアニメの挿入歌みたいなことを言った私に、「ちっとも大丈夫じゃなさそうだが」と、マスターは眉を寄せたが、時間になったので、実際に突っ込まれることはなかった。
税金の話? そんなの全然、聞いていられるような状態じゃなかった。ホワイトボードや講師の間慎也さんという例のお客さんに焦点を合わせないように、ひたすら遠くを見ていたのだ。メモを用意したのに、ペンは動かない。
せっかく連れてきてくれたのに、マスターには少しだけ、申し訳なかった。
そして質疑応答も含めて講座が終わると、約束通り、税理士の間先生に私のことを紹介しようと、マスターに連れられて講師の元へと行った。都合よく、もう行かないと思った店の店主の顔なんて忘れてくれていたらいいけれど、税理士の先生という頭のいい人が、そう簡単に忘れてくれるはずもない。
「間さん。うちのバーで昼間、ランチカフェをやっている雨宮あまみやさんです。彼女の相談にも乗ってくださると、嬉しいです」
じろじろと間さんは私を観察する。上から下まで。カフェの営業中は、化粧も最低限、清潔感第一のラフな格好をして、お客さんを出迎えているし、何よりも目立つのは、黒いエプロンだ。対して今日は、よそ行きのきれいめの格好をして出てきた。
着ると前職、すなわち同僚であった繁明のことも思い出してしまいそうだからと、封印していたワンピースである。結構奮発したもので、もったいなくて捨てることはできなかった。仕事にもデートにも使える、シンプルだけど裾や袖、襟などのディテールが女性らしくふんわりとした、ネイビーのワンピースだ。税金について学ぶということで、あまり適当な格好をするのも、講師に失礼だと考え、クローゼットの奥から引っ張り出してきた。
チャラチャラといい加減な印象を与えることはない……と、思う。けれど、一度沁みついてしまったネガティブな印象を払拭することは、できないだろう。
「あ、雨宮まひるです。えっと……」
初めまして、とこちらから言うのは憚られた。あちらが初対面のフリを押し通そうと言うのなら乗るが、こちらからお客さんを「なかったこと」にするのは失礼だ。かといって、無難に「よろしくお願いします」というのも、この調子だと、彼は決して「よろしく」はしてくれないだろうことが感じ取れてしまい、言葉を紡ぐのを躊躇った。
間さんは、「そうですか。何かあれば、佐藤さん経由でお話しください」と、淡々と言った。
すなわち、私と直接のやり取りは望まないという拒絶であった。
ずーんとした絶望感に、棒立ちになる。間さんは私たちを一瞥すると、「後片付けがありますので」と、切り上げた。
「ああ、そうですね。では、また店でお待ちしています」
マスターは無口な人だが、相手の心の変化を敏感にくみ取ることのできる人間だ。私と間さんの間の妙な空気感には気づいているだろうに、一言も触れずに、私を伴って会議室を出る。彼との間に何かあったのか、とすら聞かなかった。
「……じゃあ」
ホテルを出たところで、別れることにした。本当は、ひとりでいたくないなあとか、マスターにもらったレッドアイの味が恋しいなあ、と思わなくもなかったが、今日は「月虹」も休みだ。そこに押しかけて話を聞いてもらうのも申し訳ないし、私とお客さんとのトラブルに、巻き込みたくない。
そんな私の葛藤に気づいていて、マスターは念を押した。
「陽太への連絡、忘れるなよ」
俺はあいつに、これ以上恨まれたくない――……と、謎の一言を言い残して、来たときと同じげっそりとした表情を浮かべたマスターは、とぼとぼと帰っていく。
そういえば、講師があの人であることにびっくりして、陽太のことなんて忘れていた。時間は午後四時。まだ仕事中だろうし、とりあえずメッセージだけでも入れておくか。あ~、でも、なんて送ればいいんだろう?
スマートフォンのアプリを開き、これまでのやり取りを眺める。だいたいは、「今日店に行く」とか、そんな感じだ。定休日の水曜に、他に用事がない限り、彼は来てくれる。
その場でも「美味かった」と感想を言ってくれるが、帰宅後に、もっと言葉を尽くして、「歯ごたえがよかった」とか、「サラダに入ってた野菜が美味くてびっくりした」とか、具体的に褒めてくれるので、励みになっていた。
対して、私から連絡することは、驚くほど少ない。おしゃべりはメールでもおしゃべりかというと、そうではない。文字をフリック入力する時間がもったいないのだ。言葉は心から溢れてくる。口に出した方が断然速い。
うーん、と悩んだ結果、そのまま送ることにした。
『マスターから、陽太に連絡するように言われたんだけど、どうかした?』
言い訳っぽくなっちゃったけど、事実だから仕方がない。あとで読んで連絡をくれればいいと思っていたけれど、既読がすぐにつき、それから電話がかかってきた。
いや、仕事中でしょ?
慌ててしまって、応答が遅れた。通話ボタンを押して出ると、確かに陽太の声である。
「大丈夫なの? まだ仕事中でしょ?」
『ああ、うん。大丈夫。外回りの最中だから』
それの何が大丈夫なのか。一応仕事中なんだから、私からの連絡なんて、放っておけばいいのに。
もしかして、面倒な女だと思われてる? すぐにレスしないと怒るタイプだとか。だとしたら、心外だった。
「仕事に集中しなよ。ほら、切るよ?」
『ちょっと待って! ……なんかあった?』
息を飲んだ。会話が続かない。沈黙のうちに微かに聞こえてくるのは、自動車の走行音。向こうはハンズフリーで通話している。営業で車の運転も慣れているだろうが、あまりこちらとの通話に気を取られていたら、事故を起こすかもしれない。
大丈夫、何にもないよ。そう言おうとした息を吸ったのを見計らったように、陽太は言った。
『仕事終わったら、会える? 絶対、定時で帰るからさ!』
あまりの勢いに、口にしようとしていた言葉は引っ込んだ。どうして陽太は、私が今、ひとりでいたくないと思っていることに気がついたんだろう。罪悪感、自分が悪いんだとぐるぐる自家中毒に陥って、本当は誰かに、話を聞いてもらいたくてたまらない。マスターの知り合いのことを、彼にあれこれ言いたくないから、黙っていたけれど……。
「うん……じゃあ、これから五稜郭に出るね。うん、そしたら、カフェで待ってる」
通話を切り、私は自分の姿を見下ろした。
ワンピースを着てきてよかった。今日の格好なら、仕事を終えたスーツ姿の陽太と並んでも、そうちぐはぐな印象にはならないし、砕けた店からちょっとかしこまった店まで、どこへだって行ける。
くるりと身を翻し、市電の電停へと向かった。
>第二話④

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