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<第二話⑥
蔦屋書店の二階には、私が上京してからできたダイニングがある。
あの、函館土産で有名なチーズオムレットを作っているスナッフルスが運営している「すなっふるすダイニング」だ。存在は知っていたけれど、タイミングが悪くて、今まで一度も入ったことはなかった。
十七時近くの店内は、食事についてはラストオーダー間近だったが、ケーキやドリンク、パルフェは注文できる。
これが家族や友達と一緒のときだったら、「どれにする?」「私こっちにするから、一口ちょうだい」「いいよ」みたいな、キャッキャしたやり取りができて楽しいのだが、現在向かい合っているのは、面と向かって会話をするのが三度目の、堅物の四十代男性である。
お腹はそこそこ空いているし、パルフェもケーキも美味しそう。だけど、すでにオーダーを決めているらしい彼の前で、じっくり悩むこともできない。
私の心の動きが、間さんには手に取るようにわかったのだろう。むっつりした顔のまま、お冷のグラスを手にすると、「どうせ割り勘なのだから、好きなのを注文したらいい」と、言った。
割り勘……まあ、そうだよね。奢られる理由も奢る理由もない。割り勘が正しい。けど、話したいことがあると言われて、内心では渋々付き合っている身からすると、奢ってくれても……という思いがちらっと浮かんでしまうのも、仕方がなかった。
いや、店でのことを考えたら、私が奢るべきかもしれないけど! でも、うーん。
悩んだ末に、カフェラテにした。パルフェはひとりか、あるいは友達と一緒に食べに来よう。陽太を誘うのも、ありかもしれない。居酒屋では迷惑をかけたから、私が奢るって話で。うん、そうしよう。だから未練はない。ないったらない。
飲み物が運ばれてくるまでは、話す気はないようだ。お互いに黙っていたが、目の前にカップが置かれても、間さんは何かを言い出す素振りがなく、押し黙っている。
このままじゃ、埒が明かない。どうしたものか。このままじゃ、コーヒーが冷めてしまう。私のはまだしも、間さんのはブラックだし、酸っぱくて美味しくなくなってしまうのは、お店の人にも悪いし、お金がもったいない。
ふと、陽太のことを思い出した。
彼が高校時代、私に悩みを打ち明けてくれたのは、まず私が話しかけて、信頼を勝ち得たからだった。今、間さんとは信頼関係も何もない。私の評価は下の下だ。まずはそこから挽回しなければならない。
少し迷ったけれど、私から口火を切った。頭を下げて、「先日は、お食事に来てくださったのに、失礼なことをしまして、大変申し訳ございませんでした」と言った。
正しい対応かどうか、わからない。先ほど買った本は、棚の前でパラパラと眺めただけで、接客の勉強はこれからだった。私にできるのは、何事も正直に、謝罪をすること。
私が謝らなければならないのは、二点。
ひとつはお客様を放置して、友人たちとのおしゃべりに勤しんでいたこと。けれど、間さんが本格的に怒り出したきっかけは、違う。
顔を上げて、真摯に伝える。そんなつもりじゃなかった、を丁寧に言葉にしていく。
「私が不勉強なもので、お詫びの気持ちを形にするのが、値引きや代金をいただかないことだと思い込んでしまっていたのです。お客様は、私の料理には満足されて、不愉快な思いはしたものの、食事代を支払おうとしてくださったのに、それを侮辱するような真似をしてしまいました。重ねて謝罪します」
おしゃべりを注意されて怒られたのに、謝罪も端的にまとめることができなくて悔しい。でも、私にはこれが精いっぱいだ。まっすぐに彼のことを見つめていると、ふいと視線を逸らされる。ああ、やっぱり許してはもらえないのかな、と思いきや、間さんはずれてもいない眼鏡の位置を忙しなく直した。
「その、こちらも謝らなければならないことが、ある」
「謝る?」
彼は頷き、ぎこちなく私の方を見た。視線は合わないが、顔と顔は正対している。
「君たちに対して、やつあたりをした」
「やつあたり……いやでも、うるさかったのは事実なので」
間さんが首を横に振り、カップに口をつけた。
コーヒーは、人の口を滑らかにする効果があるんじゃなかったか。お酒の場合は理性を失っての暴露だが、コーヒーは違う。苦味によって頭は冴えわたり、むしろ理性的に話ができるようになる。彼も考えを巡らせ、どこから話すべきかと思案している。
私は黙って、結論が出るのを待っていた。常にしゃべっていないと死ぬ、みたいなことはない。カフェオレが冷めないうちに口をつけ、やっぱりケーキも頼めばよかったな、とメニューをチラ見する。
そうしているうちに、間さんの心の準備が整ったようだ。やはり最初から話すべきかと、普段は重く閉ざされ、必要以上の会話を好まなさそうな口を開いた。
「実は私には、妻がいて」
突然の奥さんの話に、カフェオレが変なところに入りそうになった。むせる私を、間さんは胡乱な目で見ている。むっつりとこちらを見ている目が、「そんなに私が結婚しているのが意外か?」と、詰問してくる。
「そ、そうじゃなくて、と、つぜん奥様の話を、するから……ごほっ、げほっ、驚いちゃって」
左手薬指のリングは今初めて気づいたのだが、ずっとわかっていましたよという顔で、「指輪してらっしゃいますし……」と指摘すると、彼はにこりともせずに、「そうか」と言った。怒りは抱いていないようなので、ホッとする。
「どんな方なんですか? 奥様」
話をすることに慣れていない相手に一方的に喋らせ、こちらはただ耳を傾けるだけというのは、悪手だ。適宜聞いてほしそうなこと、話したそうなことを合いの手として入れていく。
これは、高校時代の無口だった陽太との会話で学んだことだった。奥さんの話を始めたということは、彼女に関して何かを言いたいということ。それが結局、私とどう繋がってくるのか、まだわからないけれど。
間さんは、少し遠い目をした。家にいる奥さんのことを、思い浮かべているのかもしれない。あれ、でも土曜日に別行動をしているということは、あんまり仲良くないのだろうか。
私の心配は、杞憂だった。間さんの表情は優しくほころんだからだ。目や眉は垂れ下がり、口角は少しだけ上がる。怒った顔と無表情、先ほど同じ本に触れたときの驚きの表情しか知らない私には、新鮮だった。
気難しそうな印象ががらりと変わり、はにかんだ笑みは、無表情は照れ屋なせいだとわかる。
「私にはもったいない人だよ。気立てがよくて、美しい妻だ……君たちと同世代でね」
反応に困った。四十男と二十代後半の組み合わせ。問題はないけれど、年が離れていると、好奇心を抱いた人間たちに質問責めにされるだろう。どこで知り合ったのか、とか、どんなふうに口説き落としたのか、とか。
そんなに年が離れていなくたって、なれそめ話は聞かれるもの。間さんの場合は、私なんかよりもよっぽど不愉快な思いをしてきたかもしれない。
それはそれは……と、相槌を打ちそうになるのをぐっと堪えている私に、彼は気がついている。
「若すぎるって言いたいんだろう?」
「いえ……恋愛も結婚も、当人たちの自由なので」
自分で言っていて、ちょっとだけ傷つく。私が捨てられたのだって、繁明の「自由」だ。婚約までしておいて、自由もくそもないだろ、と言い聞かせて心の傷を回復する。
「自由……自由か。本当に、彼女は自分の意志で、私と結婚してくれたんだろうか」
何やら訳ありの様子で、聞いてほしそうな素振りを見せる間さん。こっちは聞きたい気持ちと、失礼にならないようにしなきゃという自戒でいっぱいいっぱいなのだ。こうやって誘われると、聞かずにはいられないじゃないか。
「何か、あったんですか?」
間さんが語るなれそめは、驚きの連続だった。
奥さん――香蓮さん、というそうだ――は、間さんの友人の姪っ子。間さんは奥さんの父に、友人経由でかなりの額のお金を貸していたという。
税理士というお堅い職業で、かつ開業しているは間さんは稼ぎもいいし、趣味らしい趣味もなく、貯金もたくさんあった。そして、友人のことは信頼していた。その兄である人とも何度か顔を合わせていて、悪い人ではないと知っていたから、貸した。
「けれどそのまま、彼は蒸発してしまった。借金は踏み倒しだ」
「ひどい」
百円で信頼関係が切れる場合もある。間さんはいくら貸したのか、具体的には言わなかったが、結構な額だったのだろうことは、想像がつく。
「友人は真面目だから、泣きながら謝ってくれた。自分が返すと言ったが、私が貸したのは友人ではなく、彼の兄だ。高い勉強代だったと思ってあきらめることにした」
私だったらどうだろう。友達だからって、そんな風に簡単に諦められるだろうか。お金は大切だ。それを理解しているからこそ、間さんは税理士になったのだと思う。でも彼にとっては、いつまでも友人を責めるほど、お金に執着はないのかもしれない。ちょっとだけ格好いい。
「私の方は一切気にせずにいたんだが……」
「だが?」
言葉を切り、言いにくそうにこちらを見る。声のボリュームを一層落として、私は一歩椅子を引いて、近づいて話を聞く体勢を取った。
「……逃げた男の娘、つまりは香蓮が、罪滅ぼしをさせてくれと、うちに来たんだ」
当時の彼女は、大学を卒業したばかりだった。札幌で就職していたのに、叔父(間さんの友人だ)からの連絡を受けて、急遽函館に帰省した。間さんの家で頭を下げ、父親の不始末を詫びた。
そんな若い娘に大金を返せなんて、もちろん言うわけがない。
世の中には、若ければ若いほど金になる市場というのは確かに存在する。短期間に金を稼ぐなら効率はよいかもしれないが、心が死ぬ。私は一度もやろうと思ったことはないし、これからも考えなくていいように、堅実に生活をしていきたい。
そのときの間さんも、彼女の将来を思って、罪滅ぼしのためなら何でもする、という覚悟を決めた彼女を止めた。その言葉というのが、
「こちらに帰省したときにでも、ときどき家事を手伝ってくれたら、それでいい」
というものだった。
香蓮さんは、間さんの言葉に従った。毎週末、札幌から高速バスに乗って帰ってきては、土日を使って家の掃除をして、料理の作り置きをする。いつ休んでいるのかと心配して言えば、「若いから大丈夫です」と笑った。そしていつの間にか彼女は、函館にUターン転職をして、毎日通ってくるようになっていったという。
……それを端的に表す言葉を、私は知っている。毎日毎日、甲斐甲斐しく男の人のもとに行って世話をする女のことを、「通い妻」というのだ。ちょっと悪い言葉かもしれない。
間さんもその言葉のことは認識していた。一年は好きにさせたが、二年目はもう来なくていいと言った。でも香蓮さんは、「まだ、こんなものじゃ足りません」と言い張った。見た目によらず(?)強情で、間さんが折れた。
「彼女が二十五になって、こんなことをしていたら、いつまで経っても結婚はおろか、恋愛もできないじゃないかと言った。そうしたら香蓮は、『あなたに一生を尽くしても足りませんから』と笑った」
それからさらに二年、自分の家に通うことをやめない香蓮さんに、「ならば」と、間さんは結婚を申し出た。花の盛りの美しさを、一方的に搾取してしまった申し訳なさもあり、責任を取ろうとしたのだ。今年の春のことだというから、まだまだ彼らは新婚さんだ。
「最近、妻が怪我をして……足を折ってしまって、立って歩くことが難しい状態で塞ぎこんでいる」
「あー……だから、奥様と同世代の私たちがノー天気に馬鹿な話をしているのが、ムカついたんですね。八つ当たりってそういう」
間さんは、むっ、と唇を尖らせたが、私の指摘に反論の余地はなく、「……そうだ」と、苦々しい顔で言った。
むふふ、と私は笑ってしまう。仏頂面の間さんが、奥さんのことをあまりにも愛しているから。
「あ、だからお料理の本を? 奥様に美味しい料理をつくって、励ましてあげたいとか?」
「……それもある」
間さんは、「妻のつくるトマトハンバーグは絶品だから、自分も作ってあげたかった」と、可愛いことを言う。まあ、あの本はちょっと難しすぎた。私のエコバッグの中に入っている。帰りにもっと簡単な料理の本を見繕ってあげよう。
ところで、彼の言葉にひっかかるところがあった。
「それ『も』?」
他にも何か理由があるのかと、じっと見つめる。話しづらそうにしていた彼は、やがて口を開いた。
「……こんな不愛想で、面白みのない男だ。私がやったのは、父親の借金という弱みを握り、彼女と無理矢理結婚した。そういうことではないのか」
怪我をして、家事も仕事も思うようにいかなくなって、考える時間ばかりが増えた今、彼女が塞ぎこんでいるのは、そのことに気づいてしまったからではないか、と。
だから、彼女にしてもらったことをそっくりそのまま返して、謝罪をしたいのだと間さんは言う。
私は最後の一滴までカフェオレを飲み干した。さて、こんなことを言っても大丈夫かな、と考える。まあ、答えは出ない。何せ人間っていうのはそのときどきによって、感じ方も考え方も違うから。間さんがいったいどんな反応を示すのか、誰にもわからない。
「自分がつけこんだという自覚があるのに、奥様を解放しよう、とは思わないんですね?」
彼女を解放する。すなわち、離婚だ。
間さんはカッとなって声を荒らげそうになり、この場所がどこであったかを思い出して飲み込んだ。私は彼の言葉を誘導する。
「そう思わないのは、どうしてですか?」
質問の形を取ってはいるものの、答えはすでに察している。間さんの口から聞きたいから、あえて問いかけたのだ。
ごにょごにょと、彼は口を濁す。私がじっと見つめてくることに耐えかねて、早口に回答を寄越した。
「あ、愛しているからに、決まっているだろう!」
だよね。
奥さんの香蓮さんのことを語る間さんの表情も口調も、柔らかかった。怖い人だという印象が払拭されて、可愛い男の人だな、という感想に変わる。自分よりもずっと年下の奥さんにベタ惚れで、申し訳ないと思いつつも手放すことができないという、独占欲がある。
彼のこの愛は、奥さんに伝わっているんだろうか。夫婦になったのはつい最近でも、付き合い自体は長い。だからこそ、言えない言葉も存在する。
間さんだけじゃなくて、日本人は本気の「愛してる」を言うのが難しいと感じている人が多い。実際、私も元婚約者に言われた記憶はほとんどなかったし、言ったこともない。私は確かに彼のことを愛していた。彼もそうだと信じていた。結果として、それは間違いだったわけだけど。
余計なことばっかり喋って、肝心の「愛してる」を伝えそこなって、破綻した私たちの関係みたいには、なってほしくない。
「たぶん、奥様も嫌々結婚したわけじゃないと思いますよ。間さんが奥様に抱くのと同じくらい、奥様もあなたのことを愛していらっしゃるはずです」
ふん、と間さんは鼻を鳴らした。小娘に何がわかる、と言わんばかりの態度だ。その小娘よりも、あなたの奥さんは年下でしょうに。
同年代で同性の人間のアドバイスは聞くものですよ、とは言わなかった。
「私に奥様と会わせていただけませんか? 旦那さんには言いづらいこととかも、あると思いますし」
「しかし、妻は人見知りなんだ」
初対面の人間に、本心を吐露するとは思えないという間さんを、今度は私が鼻で笑う番。しないけれど。
「いやですねえ、間さん。あなたも口下手を自覚しているし、私には決していい印象を持っていなかったはずです。でも、間さんは奥様のこと、私にあれこれと話してくださったじゃないですか。それって、私相手だからだと思いませんか?」
きょとんとした間さんに、私は満面の笑みを向けた。
たぶんきっと、私の考えに間違いはない。話に聞く香蓮さんの行動を、私は紛れもなく、「愛」によるものだと知っているから。
>第二話⑧

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