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<第二話⑦
そして翌週の土曜日は、臨時休業と称して貸し切り対応にさせてもらった。料理の準備をしていると、ベルが鳴る。
「やっほー。来たよー」
元気よく声を上げたのは、茉優である。そして隣には、松葉杖をついた美しい女性。いよいよ夏がやってくる、そんな日差しの中に立っているものだから、眩しくて仕方がない。私はつい目を細めて見惚れ、反応が遅れた。
「あ、いらっしゃいませ。テーブル席におかけくださいね」
テーブルを少し動かして、入口に寄せておいた。怪我をしている彼女に、無理をさせないためだ。女ひとりでは大変だったので、手伝ってくれたのは、マスターと、それから。
私はエプロンのポケットの中のスマホに触れ、それからふたりのオーダーに応じた飲み物を運んだ。コーヒーや紅茶の淹れ方は勉強中で、まだまだこれからだが、豆も茶葉も、自分が美味しいと思ったものを用意している。舌には自信がある。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます……」
茉優に連れてこられた美女は、店が貸し切りになっていることに、恐縮している様子だった。まったく、なんて言って連れてきたんだか。茉優を見れば、素知らぬ顔でコーヒーにドバドバと砂糖とミルクを入れている。
女性は間香蓮さん。そう、間さんの奥さんだ。
そして彼女がどうして茉優に連れられてこの店に来たかと言うと、実は彼女、私たちの高校の後輩にあたるらしい。学年はふたつ違っていて被っているけれど、私は面識がなかった。普通科の彼女と茉優との接点は、部活である。彼女たちはバドミントン部に所属していた。
「しっかし本当、世間ってのは狭いもんよねえ」
しみじみと言う茉優に、同意を示す。
当時、茉優は香蓮さんと仲がよかったらしく、結婚式にも招待されていた。私が間さんに怒られた日、「どっかで見たことがあるんだよなあ」と唸っていたのは、そういう繋がりだったというわけである。
「茉優の後輩の旦那さんが、うちの店に来てくれてたなんてねぇ」
余計なことは言わないように釘をさしてある。具体的には、あの日の間さんの態度についてだ。初めて訪れる店に緊張気味の香蓮さんを、これ以上委縮させたくない。
香蓮さんはポットで提供した紅茶をストレートで一口飲んだ。ふわっとした香りが漂い、彼女の頬が薔薇に染まる。カップを置いたところで、私は改めて自己紹介をした。
「改めて、初めまして、間香蓮さん。私は雨宮まひる。この店の店主です……と、言っても昼間借りているだけなんだけどね。ここは夜になるとバーになって、旦那さんはもともとそちらの常連らしいの。うちの店にも何度か足を運んでくれて、それが縁で」
おっと、またしゃべりすぎそうになる。私はひと呼吸置いた。
「間さんから、奥さんが怪我をして落ち込んでいるみたいだって聞いて、私おせっかいだから、元気づけたいって言ったの。だから今日は、ゆっくりしていってくださいね」
「はい、ありがとうございます」
私は茉優と目配せをした。今日のメニューはスペシャルで、コース料理風に提供する。最初に前菜代わりのサラダ。
サラダには砕いたアーモンドをたっぷりとふりかけ、ころころと可愛いモッツァレラチーズを載せる。ドレッシングにはトマトを使った。オリーブオイルとの相性は抜群で、気分は一気に地中海。続けて提供するスープは、この間購入した本に載っていたガスパチョを自分なりにアレンジして美味しく出来上がったもの。
「私、トマト好きなんです」
緊張がほどけた様子に私は微笑み、「旦那さんから聞いてます。トマトが大好きで、いつもトマト料理を振る舞ってくれるから、いつの間にか自分もトマトが好きになったって、惚気られちゃいました」と、間さんについて報告をした。どこからか咳払いが聞こえた気がするが、黙殺する。
香蓮さんは、「そうなんですね!」と、明るい声を出した。
うん。この声、この顔。間違いなく彼女は、間さんのことを愛している。借金を踏み倒した父の代わりに、なんて気持ち、今となってはほとんどないのではないか。間さんは、どうしても自分を悪者にしたいみたいだけど、私には全然、そういう風には思えない。
「香蓮さんもお料理が上手なんでしょう?」
「いえ、私なんて、全然……おふたりと違って、きちんと勉強したわけでもないですし」
謙遜する彼女に、私は自分の話をすることにした。
「ねえ、香蓮さん。お料理が上達する一番の近道って、なんだと思う?」
「え……っと」
彼女は素直な性格で、私の問いに一生懸命に答えを出そうと考えてくれている。私は待った。茉優も茶々を入れずに黙っていてくれる。
「必要に迫られて、でしょうか」
確かに、それもあるかもしれない。
ひとり暮らしを始めたとき。それから結婚するとき。料理のスキルを求められるのは女ばっかりという問題はあるんだけど、そこは置いておいて。
とにかく「自分でやらなきゃ」と思ったとき、人は料理本を手にしたり、レシピサイトを漁ったり、調理器具を揃え始める。
でもそれは、やり始めるきっかけに過ぎず、上達するときは少し違う。
私は首を横に振った。
「高校のときに、教えに来てくれた先生の話なんだけどね」
調理科には、様々な先生が来てくれた。常任の調理師の先生もいるけれど、札幌や東京のホテルで修業をして、自分の店を持つことになったシェフや板前、パティシエなどの講師が来て、いろんなことを教えてくれた。調理技術はもちろんだったが、接客についての心構えだったり、料理に対する情熱を語ってくれて、それが今でも私の心の支えになっている。
その先生も、札幌の一流ホテルのフレンチレストランで、ソース部門の主任にまで上り詰めた経歴の先生だった。フランス料理の肝と言えるソースを任されるということは、店で一番確かな舌と技術を持っていると認められたことになる。
「先生は、目を閉じてごらんと言ったの。そして、自分の身近な人を思い浮かべなさい、と。親や兄弟、友達、恋人でもいいから、と。そしたらその人が、今目の前にある君たちの料理を食べたら、どんな顔をするか、想像してごらん、って」
両親や姉、それからちょっと離れたところに住んでいる祖父母。私の頭の中のみんなは、驚いた顔をしていた。こんな料理を作れるようになったのか、と。そしてそれは、小学校の調理実習で、初めてクッキーを焼いて持ち帰ったときに両親が浮かべていたのと、同じ顔だった。
「これから料理の道に迷うことがあっても、大切な人の『美味しい顔』を想像する。それさえできれば大丈夫。君たちの料理には、まだまだ伸びしろがある。新しいアイディアも浮かぶ。それは常に、大好きな人たちの美味しい顔に支えられているからだ、って」
真剣な面持ちで聞いている香蓮さんに、私は微笑んだ。
「香蓮さんなら、誰の顔を思い浮かべる?」
答えは私だけじゃなく、茉優も気づいていて、彼女は複雑な顔で唇を尖らせている。あの日イライラをぶつけてきた間さんのことを、許してはいない。けれど、香蓮さんが浮かべるのは確実に夫である彼のことなわけで、面白くないのだ。
案の定、「夫の……美味しい顔をもっと見たいと思って、私はあの人の傍にいるんです」と、はにかんだ答えが返ってきた。
「そう……」
「あの、お話聞いてもらえますか?」
もちろん、と私は請け負った。そのために貸し切りにして、ゆっくり食事を出してもいいように、コース風のメニューを組んだのだ。
香蓮さんの頬は染まり、とても美しかった。
ああ、恋をしているんだな。いいことだ。旦那さんに、心からの愛情を傾けている。
同時に、これを毎日目にしているはずなのに、どうして間さんは、しょうもないことでぐちぐちと悩んでいるのか、と呆れもする。ポケットの中のスマホを強く意識した。
「私、夫とは年が離れているじゃないですか」
「そうだよ。ほんと、突然結婚するって言われて驚いたんだからね」
茉優が拳を振り上げる。しかもあんな男と、とは言わなかった。なんとか理性で押し込めただが、香蓮さんにはすべてわかっている。茉優の表情は隠し事には向かない。苦笑して、「先輩。私があの人に一目惚れして、押しかけ女房したんですから、あんまり悪くとらないで」と、やんわり釘を刺した。
「一目惚れ?」
「はい! 目元が落ちくぼんでいて、頬のラインがしゅっとしててシャープで格好いいでしょう? それに何より、眼鏡が似合うじゃないですか! 最高です!」
夫自慢をしたくて仕方がなかったらしい彼女は、力説する。まぁ人の好みはそれぞれなので、何も言わない。万人が言うイケメンではないが、彼女にとって間さんは、最高の男であったということだ。
彼は香蓮さんの弱みにつけこんでしまったと後悔していたが、実際は、父親が借金を踏み倒して飛んだと聞いたとき、彼女は「チャンスだ」と思った。大人しそうな顔をして、恋をする女というのはしたたかなものだ。
小雪もたぶん、そう。繁明への気持ちが抑えきれなくなって、行動した。呆然とする私の前で、くすんくすんと悲しげに泣いていたのは、女の計算高さによるものだったかもしれない。
なんて、今はあいつらのことを思い出している暇はない。香蓮さんの話に耳を傾け、もっともっと、間さんへの気持ちを聞き出さなければならない。
「お付き合いは、長かったんですっけ?」
彼女は首を横に振る。
「恋人、という意味では全然……最初は私が家事をやりにいくのも、面倒臭そうにしていたんです。でも、私の気が済むのなら好きにしなさい、って。だからいろいろやりました」
部屋の掃除、アイロンがけ、食事の作り置き。スーツやコートのボタンが取れかけていたら、それも繕った。税理士の彼が、ぱりっとした状態で出勤できるように心を砕き、新卒で入った札幌の会社を辞めてまで、彼女は間さんに尽くした。
贖罪だけでは、決して成し遂げることができない。根底にあるのが愛情じゃなければ、そこまでのことはできない。
「でも、途中で変わった? 嫌そうじゃなくなったってことかな?」
「はい」
一緒に食べていけばいいと、帰ろうとしたのを引き留められたときは嬉しかった。彼女は思い出しながら語る。
冷蔵庫に保存していた作り置きを、彼がいつも、ひとりでどんな顔をして食べるのかを知らなかった香蓮さんは、食卓をともに囲んで、初めて目の当たりにした。
「いつも険しい顔の彼が、崩れたんです。美味しいという言葉よりも、何よりも確かでした。その顔が見たくて、私はなんでも、彼に褒めてもらうためにしてきたんです」
それまで楽しそうに話をしていた香蓮さんの表情が、急に曇る。
「でも」
「でも?」
彼女は松葉杖と、自分の脚を見た。包帯でぐるぐる巻きになった姿は、痛々しい。
「私、今は脚がこんなでしょう? きちんと治って歩けるかどうかも、実はわからなくて……もちろん、リハビリは必死でやるつもりなんですけど。これからあの人を支えていけるかどうかが不安で……だって私、あの人にとっては、よく働く家政婦みたいなものですから……」
「ハァ!?」
口出し無用と我慢していた茉優が、とうとう激怒した。可愛い後輩が愛されず、顧みられずにいると思ったら、その反応にもなる。私が婚約破棄をして帰ってきたときも、同じ怒り方をした。情の深い女なのである。
「私が婚期を逃すのがかわいそうだからって理由で結婚してもらったので、あの人は悪くありません」
茉優と自分に言い聞かせるような彼女の声音は震え、目にはうっすらと涙が滲んでいる。
駄目だ。限界。
私はポケットからスマートフォンを取り出して、そのまま話しかけた。ずっと通話中、スピーカーにしてこちらの会話を向こうに届けていたのである。
「もう入ってきてくださーい。それで、ちゃんと誤解を解いてくださいね」
突然の私の行動に、香蓮さんと茉優の目が点になる……あ、協力してもらったのに、茉優に話すの忘れてた。まぁいいか。
チリンチリン、とベルが鳴る。入ってきたのは、話題の中心にいた間慎也さん、その人だ。
「あ、あなた……!」
旦那さんの突然の来訪に驚いた香蓮さんは、自分が怪我人であることを忘れて、立ち上がりかける。もちろん杖なしではできるはずなく、彼女の身体はよろめいた。慌てて助けに入ろうとしたけれど、間さんの方が早かった。素早く香蓮さんを抱き留める。
それが様になっていた。絵になる、というか。なるほど、香蓮さんが一目惚れした気持ちも、ちょっとだけわかった。私の好みとはかけ離れているけれど、紳士的な振る舞いに、意外にがっしりとした力強さは、刺さる女の子も多いだろう。
彼は奥さんを椅子に座らせると、彼女の足元に跪いた。
「慎也さん!?」
香蓮さんが慌てているが、こちらとしてもびっくりである。プライドの高そうな男の人が、人前で膝をつくなんて、ありえないことだった。
しかし間さんは、私たちの視線などなんのその、真剣にたったひとりの女性を見つめている。愛情のこもった目に、私と茉優は息を飲み、見守ることしかできない。
「すまない。私の言葉が足りないばかりに」
「慎也さん……」
「かわいそうだから、仕方がないから結婚してやるなんて、傲慢な気持ちはかけらもない。誓って、私は君の健気さを愛しているから、求婚したんだ」
全然伝わってなかったですけどねー、と茉優が間さんを指し、肩を竦めるのをやめさせる。茶々入れるもんじゃないって。
「……私の方こそ、若く美しく優しい君が、父親の借金の代わりに身売りする形で結婚に応じてくれたのだとばかり思っていた」
「そんなことありません! 父のことは申し訳ないと思ってます。でも私は、慎也さんに初めて会ったときから……」
「香蓮」
私と茉優は、そっとその場を離れた。茉優はカウンター席に、私は提供途中になっている料理の続きを仕上げに。近くで凝視しているのもぶしつけで、私は極力彼らの方を見ないように、料理に集中した。
耳にはどうしたって、甘い囁きが入ってくる。間さんはプロポーズのやり直しをしていて、香蓮さんは涙声で、「はい。嬉しい! 慎也さん!」と、応じた。カウンター席の茉優が感動して、パチパチと小さく拍手を送り、祝福する。
ここでようやく、ふたりは観客の存在を思い出した。間さんはばっと勢いよく立ち上がった。おとぎ話の王子様みたいでしたね、とは言わないでおいてあげよう。
私は出来上がったばかりの料理を持っていく。間さんはさっきまで茉優が座っていた、香蓮さんの向かいの席にご案内。
「煮込みハンバーグです。まぁ、間さんにとっては、香蓮さんのものほどおいしくはないかもしれませんが、私のも味は確かですよ。めしあがれ」
ラブラブ年の差夫婦の爆誕をからかうと、間さんはむせた。私はにやっと笑ってさらに続けた。
「これからは私抜き、この店じゃないところで、ご夫婦の仲を深めていってください。言葉足らずで誤解し合うことなんて、ないように」
自家製のトマトソースで煮込んだハンバーグは、今の季節にはちょっと向いていない。秋から冬、冷え込んだ季節に出したいメニューだったが、ふたりに振る舞う特別な料理は、これしか考えられなかった。香蓮さんの作る家庭料理がどのようなものかは、間さんは教えてくれないから、自分なりに考えて出した。
深皿に入れたハンバーグの付け合わせは、マッシュポテト。ソースにはきのこがたっぷり入っている。普段のワンプレートランチだと、彩りと野菜が少し足りないから要再考。あ、そうだ、茉優のところのパンもお出ししないと。
調ったテーブルに、間夫妻はお互いに顔を見合わせ、照れくさそうに微笑んだ。
香蓮さんは私のハンバーグを「美味しい! レシピが知りたいです」と手放しに誉めてくれたが、間さんは表情を崩さなかった。
「美味いが……私は香蓮のハンバーグが好きだ」
大真面目に言い切った間さんに、香蓮さんは「やだぁ!」と、真っ赤になる。
「ねぇ、なんか暑くない?」
「うん。私もそう思ったところ」
私は黙って、店内の冷房の温度設定を一度下げた。
>第二話⑨

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