右手じゃ足りない(3)

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 ぐすぐすと鼻を鳴らして泣く飛鳥は、また新たな顔で、祥郎の目を惹きつける。

 人見知りで大人しく、根暗な青年ではない。先輩に食ってかかる生意気な青年でもない。

「ほら。まずはズボン穿こう。な?」

 言葉だけではなく、祥郎が手を貸さなければならず、飛鳥は小さく頷いて、従うばかりである。

(どれだけ追い詰められてたんだろう)

 察してはいたが、写真集の件を許せなかったのには、やはり理由があるようだ。

「ティッシュ。鼻かんで」

 まるで子供だ。

 そう思って、祥郎は(そりゃあそうか)と得心する。

 ついこの間まで飛鳥は高校生だったのだ。大学に入学するまで、ずっと親元から離れたこともない、未成年だ。慣れない寮生活で、ストレスが溜まるのも無理はない。

 自分自身の経験も思い返して、祥郎はうんうん頷き、飛鳥を根気よく宥めた。

 やがて、飛鳥も落ち着いて、話を始める。

「うち、男は僕だけなんです」

 父は歴史学者で、やれ学会だのやれ講義だの発掘調査だので、ほとんど自宅には寄り付かない。

 時任家は母と姉二人、妹一人という、見事なまでの女系家族だ。

「それは、大変そうだな」

 男兄弟しかいない家も、それはそれで大変だ。

 毎年莫大に上がり続けるエンゲル係数。兄弟喧嘩で穴の開いた壁は、数知れず。同性だと、兄弟間で比較されることも多い。

 ただ、大変さのベクトルが違うだけだ。男ばかりと女ばかりと、どちらがより辛いのか、という討論は、今はしていない。

 祥郎は飛鳥に同情を示し、話の先を促した。

「男同士のノリについていけなくて、黙ってたら、感じ悪いみたいに言われて」

 精神の成熟は、男女で差がある。小学生の頃が顕著だが、大学生になってもそれは変わらない。特に、異性の目が皆無の寮内では、猥談含め、くだらない話が飛び交っている。

「声も大きくて怖いし、肩叩かれたら痛いし」

 相当鬱憤が溜まっていたのだろう。ぐちぐちと続ける飛鳥の話を、祥郎は反省をもって聞いていた。

 親近感を大切にしようとしてのボディタッチだったが、飛鳥を怖がらせていただけだったのだ。

「こういうのだって」

 飛鳥は溜息とともに、閉じた写真集を掲げた。

 いつ姉妹や母が部屋に入ってくるかわからない状況で、グラビア写真集など持っていたら、どれだけからかわれるかわからない。

 最も性に興味のある時期に、ほとんど情報を入手してこなかったことは、飛鳥のコンプレックスになっている。

 成長過程で、誰もが当たり前に知ることを、飛鳥はそれこそ、保健体育の授業で習った知識しかない。

「だから、大っぴらにやり取りしてるのを見て、腹が立ったんです」

 ごめんなさい、と小さな声で頭を下げる飛鳥は、第一印象と変わらず、人見知りだが、とても素直な後輩だった。

「それは俺じゃなくて、あいつらにな」
「はい」

 おそらく、この姿を見れば、彼らも飛鳥への心証を改めるだろう。

 早速返しに行こうと立ち上がった飛鳥を、祥郎は止めた。

「急がなくてもいいぞ。何なら、使ってからでも」

 飛鳥はきょとんとした表情を浮かべた。眼鏡の奥の目は、無垢であどけない。祥郎の言葉の意味を、まだ飲み込めていない様子だ。

「途中まで使ってただろ、それ」

 写真集を指さすと、首を傾げていた飛鳥は、「あっ」と小さく叫んで、耳まで真っ赤になる。

「ちが、違う! だから、違うんですってば!」

 一生懸命に首を横に振るが、自慰に励んでいたのは疑いようもない。今度は祥郎が首を傾げる番だった。

「違う、とは?」
「その……」

 こんなことを言ってもいいのだろうか、と逡巡している顔だ。視線があちこちにさまよって、一向に定まらない。

「時任?」

 唸り声まで上げ始めたので、心配になって声をかける。すると、飛鳥は決意を込めた目で、強く祥郎を見つめた。

>>4話

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