右手じゃ足りない(8)

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手 BL

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7話

「先輩、ここいいですか?」

 明るい声音に、祥郎は味噌汁を飲んでいた手を止めて、顔を上げた。「もちろん」と、飛鳥に着席を促した。

「ありがとうございます」

 いただきます、と両手をきちんと合わせてから、飛鳥は煮物に箸を伸ばす。

 男兄弟がいなかった分、激しいおかずの争奪戦に参加したことがないのだろう。ゆっくりとした上品な仕草で口に含み、しっかりと味わって咀嚼する。

 飛鳥の一挙一動を凝視している祥郎には、彼の喉を通って、食べ物が腹の中に収められていく様子まで、はっきりと見えるようだった。

 薄い唇にとんかつのソースが付着すると、飛鳥はごく自然な動作で、舌で舐め取った。

「先輩? 全然食べてないみたいですけど、大丈夫ですか?」

 心配そうな表情の飛鳥にハッとして、祥郎は曖昧に笑った。彼の前にある皿は、ほとんど空になっている。

 どれだけの時間、飛鳥の食事姿を見つめていたのだろう。

 祥郎は苦笑して、手を軽く振った。

「なんでもないよ。……食う?」

 指し示したとんかつをちらっと見やって、飛鳥は首を横に振った。

 食後のお茶を楽しみながら、飛鳥は祥郎に、あれこれと話しかけてくる。

 飛鳥の交友関係は広がったが、一番親しくしているのは結局、祥郎だった。他の寮生から話しかけられれば、喧嘩腰ではなく、まともな反応を返すが、自分から嬉しそうに話しかけるのは、祥郎しかいない。

 そのことが、最初は単純に嬉しかった。

 突っ張っていた飛鳥を、感じのよい好青年に変貌させたのは自分で、それを彼自身が受け入れているのが、誇らしかった。

 だが、今はもやもやする気持ちの方が勝つ。

「ごちそうさまでした。それじゃあ僕は、部屋に戻ります」

 立ち去る飛鳥を、祥郎は見送った。まだ、立ち上がる気にはならなかった。

 後輩が懐いてくれるのは、いいことだ。もし彼が、普通の後輩であったならば。

 飛鳥とは、「普通」という枠を飛び越えてしまった。泣きついてくる彼を放っておけなかったのは最初だけで、あとはなし崩しだ。

 最近に至っては、すでに前への愛撫のみで勃起するようになったにも関わらず、祥郎は「もう辞めてもいいんじゃないか」と言い出すことができないでいる。

 それどころか、食事中や談話室で喋っているときにすら、飛鳥に性的な魅力を感じて、ドキリとしてしまう。

 今しがた見た唇なんて、油脂が付いてつやつやしていた。リップグロスというほど不自然ではなく、ただ濡れた唇はセクシーで、美味しそうだった。

 はあ、と大きく溜息をつく。冷めた茶を呷ろうとした。しかし湯飲みは、祥郎の手が掴む前に消えた。

「あ?」

 かぶさってきた影を見上げ、今度は呆れて息を吐いた。

「昭島」

 珍しいな、と祥郎は言った。夕食時に彼が寮にいるなんて、週に一回もないくらいだ。

 奪い取ったお茶に、「苦い」と顔を顰めた昭島は、脈絡なく話を始める。

「うまいこと手懐けたんじゃない?」
「何が?」

 何を言いたいのかは、なんとなくわかる。はぐらかすため、祥郎は問い返した。

「あの子あの子。坂城が入れ込んで、おめかしまでさせた子。なんだっけ」
「時任は猫じゃないんだから、手懐けたとか言うなよ」

 祥郎は、昭島の手から湯飲みを奪い返した。しかし、すでに中身はない。舌打ちをすると、昭島は目を丸くして、楽しそうに笑った。

「猫? どっちかといえば犬じゃない? 坂城に尻尾振って、構ってほしくてしょうがないワンちゃん」

 わんわん、と鳴き真似をする。イラっときて、祥郎は何も返さなかった。

 昭島は祥郎の反応の有無は気にしていない。ただ、自分が話したいだけなのだ。

「可愛いし、最近すごくセクシーになったんじゃない?」

 飛鳥が消えた食堂の出入り口に、昭島は流し目を送る。その様子がよっぽどセクシーだ。うっかり直視してしまった後輩が、心臓の辺りを押さえ、そそくさと出て行った。

「おい」と祥郎は声をかけて、注意を自分の方に引き戻した。

「寮内で泥沼の恋愛沙汰を演じるのはやめてくれよ」

 あくまでも寮長の立場、飛鳥の先輩という立場から、祥郎は釘を差した。

 昭島は、くるりと祥郎に大きな目を向けて、にやりとどこ吹く風で笑った。

「残念ながら、俺は自由恋愛主義者なんだよね」

 色っぽい流し目は、祥郎の心をざわつかせる。

 昭島みのるは、文句のつけようがない美男子だ。背が高く、スタイルもいい。白い肌は、薄暗いバーの明かりがよく似合う、退廃的な美青年。

 彼がバイセクシュアルなのは、寮内でも有名だ。そのことで遠巻きにする人間もいるが、持前のキャラクターのためか、おおむね受け入れられている。

 彼が寮の中の人間に、興味を持ってこなかったことも大きい。異性愛者の中には、自分が同性に想いを寄せられただけで、不愉快さを露わにするような人間も多い。

 昭島はバイだが、それは己のあずかり知らぬところでの話。

 そうわりきれば、昭島は付き合いやすい相手だった。それを彼自身、わかっているのだろう。

 そんな風に、今まで寮の中に己の恋愛を持ち込まなかった昭島が、狙いを飛鳥に定めた。

 男も女も、百戦錬磨の昭島のアプローチに、ウブな飛鳥はすぐに流されてしまうだろう。

 今は自分にだけ懐いている飛鳥が、昭島に笑いかけるのも嫌だ。それどころか、昭島にちょっかいを出されているシーンを見ることすら、想像しただけで、胸が苦しくなる。

 だが、その気持ちを祥郎は、言語化できなかった。苦しいのは、痛いのはどうしてだろう。

 答えを出す時間は、今この場にはなさそうだし、昭島にぶつけたところで、晴れやかな気分にはならないだろう。

「周りにも、相手にも迷惑だけはかけるなよ」

 あくまでも「寮長」としての忠告だけで貫くと、昭島はきらりと目を輝かせて、唇の端を持ち上げた。

9話

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