オメガに説く幸福論(10)

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(9)

「陛下はアンジュ殿の輿入れを望んでいらっしゃる」

 とうとう来たか。

 リッカは一度目を閉じて、心中の嵐を落ち着かせてから、「かしこまりました」と言った。本当は、血反吐を吐いてでも抵抗したいところである。

 吐いたところで、非力な自分ではどうもできないことは、わかっている。

 遣いの偉ぶった態度を見る限り、エルフの重鎮たちの考えが変わったとは思えず、アンジュの行く末が気にかかる。けれど、拒絶することは許されていない。

「アンジュ」

 連れてきた七人のうち、この一ヶ月で四人は番を定め、離宮を去って行った。残っているのはアンジュとふたり、それからリッカだけだった。

 ふたりきりで話をしようと引っ込んだリッカの執務室で、アンジュは冷静に見えた。

「エルフ王のお召しでしょうか」

 何もかもお見通しの聡い弟に、リッカは笑おうとして、上手くできなかった。小さく頷く兄に、アンジュは擦り寄り、抱きついた。

 獣人族の血を引くオメガの弟は、リッカよりも力が強い。そのくせ甘えたな性格で、幼い頃は加減を知らなかった。「にいたまにいたま」と後追いしては、ぎゅうぎゅうに絞められた。苦しさに呻くリッカに、「にいたま、アンのこときらいなった?」としょんぼりする弟に、「そんなわけないだろう」と、頬を寄せたのは、つい昨日のことのようだった。

 今、力強くはあるけれどしっかりと苦しくないように調整されて抱かれ、改めて彼の成長と、覚悟の程を知る。

 だから、自分が泣いてはいけない。

 おめでとう。これで子を成し、オメガとしての幸福を手に入れられるのだと、祝福しなければならない。他の少年たちと同様に。

 けれど、リッカの口から漏れるのは、小さな嗚咽であった。「おめでとう」の「お」の字も発することができずに、「ごめん、ごめん」と、つっかえながら謝る。

 代われるものならば、代わってやりたい。

 エルフたちはリッカの事情を知らず、ただ地味で生意気な口を利くさかしらな自分よりも、年少のアンジュの方が御しやすいと思っているのだろう。獣人オメガという希少価値もある。

 今はまだ、まっさらな項に触れる。次に会うときには、ここに傷を作って、それが癒える前に上書きをされ、外に出るときにはチョーカーで守らなければならなくなる。

「リッカ兄様。アンジュは、大丈夫です」

 幼い口調で、アンジュは身体を離し、胸を張った。

「最初から国王陛下の番となるために、アンジュはこの国へと参ったのです」

「アンジュ……」

 アンジュとて、オメガ族の王子だ。オメガ国王となる長兄と違い、他国の有力者と番わされることは、決まり切っていた。諦めるだとか、そういう感情すら思い浮かばないほど、確定的な未来に向かって、彼は歩いている。かつてのリッカと同じだ。

「だから、兄様。兄様は、安心してください。どうか、僕の幸せな結婚生活を願ってください。いつかきっと、エルフ族のかわいい赤ちゃんを見せに、国に帰りますからね」

「そんなの……僕の方から、会いに来るよ」

 子どもを抱えた旅は、どれだけ気をつけても不安が伴う。身軽なリッカが来訪を約束すると、アンジュは安心して、微笑んだ。

 

 エルフ側の準備が整うと、アンジュはすぐに離宮を離れ越していった。特に祝宴や式のようなものはない。てっきりエルフ族はやらないものかと思ったが、エドアールの口の閉ざし方から判断して、オメガを迎え入れるのは嫌々ながらである、という主張の一環らしい。馬鹿みたいだ。

 そのうちに、他のオメガたちも離宮を飛び出していった。最後まで残った少年は、エルフ国にたまたまやってきた行商人に一目惚れをして、押しかけ女房よろしくついていくことになった。

 もちろん、エルフの存続のためにやってきたのだから、他種族の者と番うなど言語道断だと非難されたが、リッカは矢面に立ち、エドアールの助けも借り、どうにか説得ができた。

 自分が愛せるひと、自分を愛してくれるひとと、番ってほしい。

 アンジュにはそうさせてやれないから、他の少年たちには、必ず望む番を見つけてやろうと思った。

 アンジュの輿入れを見届けて、親子ほど年の離れた行商人とともに旅立つ少年を送り出せば、離宮にはリッカひとりが残っていた。

 オメガたちの相談相手として、しばらくはこの国に滞在するが、春にはオメガ国に戻ることができるだろう。

 肩の荷が下りた、と気を抜いて過ごしていたリッカだが、ふと、生活が静かすぎることに気がついた。

 見知らぬ国で相性のいい番を見つけなければならないオメガたちは、体調を崩しがちであった。誰かが発熱すれば、別のところでは苛立った者たちが喧嘩をする。周期がずれて、抑制剤が間に合わずに発情してしまったこともあった。

 その度に、リッカはどたばたと動き回り、看病をしたり仲裁をしたり、忙しかった。

 もうそんな風に過ごすことはないのだと思えば、少し寂しい。そう思ったときには大抵、エドアールが遊びに来る。

「ひとりだと、この離宮は広すぎるのではないか?」

 などと、リッカが考えていたことをずばり言及してくるのだ。

「ええ、まあ。そうですね。あ、僕ひとりだと、維持費がかかりすぎますか? どこか別のところへ移った方が?」

「俺の屋敷に来ないか?」

 騎士団長として剣で身を立てると決めたときから、エドアールは生母のために建てられた館で生活をしているという。

「ここよりは狭いが、それでも部屋は余っているし、俺もひとりだ。あとは通いの手伝いが何人か……」

「エドアール様。お気持ちは嬉しいのですが、僕はここで。何かあったら、オメガの子たちを迎え入れなければなりません。そこまであなただけに負担を強いるのは」

 何よりも、

「僕を住まわせれば、また兄君たちに何か言われるのではありませんか?」

 と、リッカは気を回した。

 シャルル国王はひとまず置いておいて、他ふたりの兄たちとエドアールの関係は、決して良好とは言えない。これ以上、兄弟間の溝を広げるばかりになるのは避けた方がいいだろう。

 ダークエルフは、目を引く。数は少ないが、その分団結力がある。エドアールを旗印にして、エルフ国に反旗を翻す可能性もある。

 彼自身もそれをわかっていて、対外的には兄弟仲が良好であると知らしめている。白々しい笑顔を浮かべている四人兄弟を見ていて、実情を知るリッカとしては、鼻で笑いたくなる。

 エドアールはリッカの説得を諦めて、渋々と帰っていくのを、何度も繰り返している。

 そんな日々を過ごす中、ランが離宮にやってきたのは、雪がちらつく日だった。

 最近、気候が安定しない。昨日までは冬を通り越して一気に春になったかと思ったら、今日はこの有様だ。

「ラン。大丈夫か?」

「リッカさま」

 冬と春を行ったり来たりする天気に、ランの身体はすっかり参ってしまっている。加えて、番のキルシュは外交に出るクロードの護衛のために、国を離れなければならない。

「この状態のランを、家にひとりでは置いておけず……」

 本当は仕事を誰かに押しつけて、家で愛しいつまの看病をしたいのだろうけれど、さすがにそうもいかない。苦渋の選択でリッカの元に連れてきたキルシュは、過保護だ。ランが今にも死んでしまうとばかりに、悲壮感を漂わせている。

 リッカの見立てによれば、胃腸から来る風邪というところであろう。これが発熱や鼻水など、他の症状を伴っていなければ、すわ妊娠か、と浮き立つところだが、どう見ても風邪だ。

 青い顔をしてベッドにひっくり返っているランを、心配そうにいつまでも見ているキルシュの背を叩き、「ほら」と促すと、彼は渋々仕事へと向かった。

「ラン。何か食べられそうかい?」

 見送ってから部屋に戻ると、ランは呻き声を上げていた。空きっ腹にいきなり薬を入れるのも身体によくないから、何かは食べさせたいところである。

「う、うう……スープ。あのスープが食べたい……」

 できる限りリクエストには応えたかったが、少々厳しいものがある。

 海沿いのオメガ国では、体調が悪いときには魚のアラを漁師からもらってきて、じっくりことことと出汁を取ったスープを作る。

 だが、ここは内陸のエルフの国。川や湖の魚のアラなど、丁寧に下処理をしないと泥の味がして、食べられたものではない。

「うーん……」

 リッカは仕方なく、離宮に詰めている料理人に、胃腸が弱った者でも食べられるものを持ってきてもらう。

 アラではないが、鶏の骨を使ったスープで葉野菜を煮てとろとろにしたものをランの口に少しずつ運ぶ。眉間に皺が寄るのは、「ちょっと違うんだよなあ」という感想の表れだった。リッカも味見をしたが、同意見だ。

 結局半分も食べられずに、「うぇ」と嘔吐き始めたので、慌てて盥を用意するが、初動が遅れた。

「お、おううう、おご、ごめ、なひゃ……」

 着ていた服が汚れるが、リッカは構わず、ランの背中を優しく摩ってやった。汚れた口を拭い、水を与え、食べたものは全部吐いてしまったかもしれないが、それでもマシであろうと、薬も飲ませた。

 肩を貸して別のベッドに移動させ、額には水で濡らしたタオルを載せる。

「リッカさま、ありがとう……」

「元気になったら、いくらでもお礼は受け取るから、今は寝なさい」

 ぽんぽん、と毛布の上から胸を叩いてやると、安心した様子で彼は目を閉じて、すぐに寝息が聞こえてきた。

 リッカはしばらくの間ランを見守り、盥の中身を始末すると、今度は自分の服をどうにかしなければな、と風呂場へと向かった。服だけではなく、身体も所々汚れている。そのままにしておけば、伝染ってしまう。

 エルフ国での生活は、慣れないことも多いが、いいところもたくさんある。

 そのうちのひとつが、この源泉掛け流しの温泉が、ほとんどどこの家でも使えることだ。エルフ国は農業と狩猟が主な産業だが、実は観光業も注目されている。

 鼻歌交じりに脱いだ服を持ったまま、浴室へと入る。まずは軽く水で洗う。使用人に、他のものとは別に洗うように指示しなければならない。

 吐瀉物をざっと流してから、髪や身体を洗う。頭の泡を洗い流しているときに、浴室の扉が開いた……なぜ?

 ここにいるのは、リッカだけだ。ランは今、寝室で眠っている。掃除の担当者は、リッカが使っているときには来ない。

 じゃあいったい、誰?

 反射的に顔を上げると、流し切れていない泡が目に入りそうになる。

「っ! 誰だ!?」

 大きな声を上げると、見知らぬ誰かが近づいてきた。よく見えないけれど、息遣いから判断するに、興奮している。

 そういえば、と思い出す。

 オメガの周りをうろついている不審者が、いた。最近は聞かなくなっていたし、みんな番を見つけて離宮から出て行ったから、警備を務めるエルフたちも、リッカ自身も油断して、忘れていた。

 まさか、人数が減るのを待っていたのだとしたら?

 リッカはぞっとした。自分とラン以外のオメガはいないし、彼の番であるキルシュは、仕事で不在にしている。

「やめろ! 離せ!」

 とにかく大声を上げる。浴室はその性質上、壁が分厚く作られているが、離宮には警備の騎士が毎日二人組で配置されている。彼らに声が届けば、助けに来てくれる。

 掴まれた手首に力が込められる。毎日毎日、離宮を観察していたのだろう。騎士を呼ばれてはたまらないと、リッカの口を大きな掌で覆う。

 戦う手段は習っている、と強がってみても、リッカには実践が足りない。男の身体はオメガの自分よりも頑丈で、背後から抱きつかれては、たちまち身動きが取れなくなる。

 負けてたまるか。

 脳裏によぎるのは、「オメガは強い」と言った、エドアールの顔だ。

「っ、てぇ!」

 がぶりとその手に噛みついた。歯形に血が滲むほど、強くだ。男が怯んだ隙に、リッカは叫ぶ。

「助けて! エドアール!」

 様、と付ける余裕すらなかった。早く来てくれ! と叫び、再び口を閉じさせようとする男から身を捩って逃げる。

「オメガってのは、おとなしいんじゃなかったのか!?」

 何を勘違いしているのか、男はオメガを従順な性だと侮っていた。反撃などしてこないものと。

 大きく舌打ちをして、一度身体を離した男は、ポケットから折りたたみ式のナイフを取り出した。

「あ……」

 鋭利な刃物に、目が釘付けになる。怖い。あれでまた、傷つけられたら。

 震えだしたリッカに、男はにたりと嫌な笑いを浮かべた。

「そうだなぁ。どこを切り刻んでやろうかなあ。背中はすでに、誰かのお手つきみたいだが……」

 近づいてくる男に、あ、あ、と小さく恐怖に喘ぐ。

 呼ばなきゃ。名前。じゃないと、斬られる。

「エドアール!」

「リッカ!」

 果たして、彼は来てくれた。護衛に当たっていたもうひとりの騎士を連れて、浴室へずかずかと入り込み、あっという間に男の手から刃物を落として制圧する。

 ちくしょう、と暴れる男を打ち据えて、相方に任せて彼はひとり残る。

 脚に力が入らず、崩れ落ちかけたリッカの身体を片手で軽々と支え、「遅くなってすまない」と、彼は謝る。ゆるゆると首を横に振るリッカを見るエドアールの目が、大きく見開かれていることに気がついた。

「あ……」

 浴室で、裸にならない者はない。彼の眼前には、背中が晒されている。

 長く伸ばした髪、その隙間から見える醜い傷痕が。

 きゅう、と喉の奥が絞まる。何を言えば、どう説明すればいいのか。

 いや、説明する義務など、ないのだ。自分はエドアールの番ではない。番になれない。

 彼をアルファにしてやることができない。

「僕は……傷物のオメガ、だから」

 誰かと番う気がないのかという問いに、今更ながらに真実――いいや、この回答ですら、すべてではない――を告げる。

 エドアールは何も言わなかった。ただ、リッカの身体を抱き締めて、それから震えて何もできないリッカの代わりに、タオルで丁寧に拭いてくれた。

 傷痕にも、指を這わせる。びくりと反応してしまう自分が滑稽で、哀れで、男に襲いかかられたときですら涙が出なかったのに、泣きそうになる。

「傷物なんかじゃないさ……リッカ」

 最後に一瞬触れたのは、指ではない、柔らかいもの。

 そんな気がした。

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