オメガに説く幸福論(11)

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(10)

 背中の古傷が、疼く。

 それは寒さのせいだけじゃないと、リッカは気づいている。

 あの日触れた指先と、もしかしたら唇が、今もなお、這っているような気がして、じわじわと熱を孕んでいる。

 気を抜くと、「傷物なんかじゃない」と自分の名を呼んだエドアールのことを思い出してぼんやりしている。リッカは首を横に振り、パンパンと自身の頬を張った。

 物思いに耽っている場合か。

 机の上には、母王から届いた手紙がある。

 体調に変わりはないか。エルフの国は雪がたくさん降ると聞くがどうか。兄が元気な子を産んだこと。まだわからないが、オメガの可能性が高いらしい。

 そんな当たり障りのない内容から始まって、結びは、

『わかっていますね、リッカ。しっかりと務めを果たし、戻ってきなさい』

 と。

「務め、か……」

 そうだ。自分には、密かに受けた命がある。この冬の間に、成果を上げなければならない。春には国に戻り、母を支えていくのだ。

 引き出しの中に手紙をしまい、リッカは重い腰を上げた。

 薬師はたいした情報を持っていなかった。エルフの年齢はわかりにくく、彼は見習いだった。期待して損をした。

 せめて材料だけでもわからないかと思ったが、それも知らないと言った。嘘だと直感した。教える気がないということなのだ。

 なので、現物を手に入れるしかない。薬師たちの部屋の中を怪しまれない程度に漁ったが、見当たらない。そう簡単に見つかるはずもない。

 リッカが母の無言の密命で探っているのは、エルフの秘薬である。

 馬鹿みたいに高いが、一応流通している万能薬とは異なる。秘匿され、他種族には噂だけが伝わっている。血眼になって探しているのは、特に人間族だ。

 ――この薬は、他の種族を、エルフと同じだけの寿命に引き延ばす。

 そう、まことしやかに囁かれている。

 オメガ族は、極端に短命だ。平均寿命は三十から四十歳。その命が尽きる寸前まで、アルファの子を産み、育てる。

 母はもう、三十七。すでに老境だ。それでも、他国との繋がりを密にすべく、妊娠、出産を繰り返している。

 今回は特につわりをはじめとした妊娠中の症状がひどく出ていて、起き上がれる日の方が少ない。

 母のため、そして今後生まれてくるオメガたちの寿命を伸ばすため、リッカはエルフの秘薬そのもの、そしてレシピを探している。

 無理せず探せるところはすべて探したと思う。薬師の調薬室、図書館は街のものの他、エドアールに頼んで王城の特別な図書室にも入らせてもらった。

 けれど、どこにもない。

 保管方法も不明、薬には使用期限が存在することから、現物は本腰を入れて探していない。

 欲しいのは、レシピだ。材料と調薬方法さえわかれば、国に帰って研究を進めることができる。

(あとは……)

 探せていないのは、王族しか入ることのできない、図書室奥の禁書が収められている小部屋。それから、宝物庫。侵入に骨が折れる場所ばかりだが、もたもたしている時間はない。

 母の筆跡は弱々しかった。命の火は、いつ消えてしまってもおかしくない。比較的温暖で、雪の降らないオメガ国であっても、身体が弱るのは冬だ。

 母のためだけじゃない。このまま長くここにとどまっていると、エドアールを許してしまう。

 きっと、恋をしてしまう。結ばれない、結ばれてはならない恋心を抱えて、リッカはこの先の人生を生きていくと考えただけで、怖くなる。

 だからさっさとレシピを手に入れて、春を待たずにこの国を出て行く。

 荷物は増やさなかった。むしろ不要なものを処分して、身軽になった。

 機を待つ。狙うのは新月の夜。王族が所用で他国に赴き、騎士や兵士がそちらの護衛に駆り出されているとき。

 ……それが今日だった。

 夜中になるのを待ち、リッカは抜け出した。離宮の警備は、オメガ側の責任者として把握しているから、どういうタイミングで裏口からひとがいなくなるのかわかっていた。

 問題は城だ。出たところ勝負で行くしかない。登城する度、怪しまれない程度に見回し、経路の確認はしていた。

 見つからないように、物陰で息を潜めながら接近する。門番はあまりやる気なく、松明を持って立っているだけだ。

 リッカは少し大きめの石を取り上げて、サッと投げた。物陰から、また別の物陰へ。舗装されていない。だから音はあまりしなかったが、それがむしろ、不審者がこっそり窺っている気配を演出した。

「むっ、何奴!」

 ぼんやりとあくびを噛み殺していた門番は、急に目を光らせ、音がした方へと小走りに向かっていく。その隙をついて、リッカは城の敷地内に侵入を果たした。

 夜中の城は、意外と光源がある。寝ずの番をしている使用人もいるのだろう。事前の下調べどおり、なるべく暗い道を選び、リッカは図書室へと近づく。

 夜であっても図書室には鍵をかけないそうだ。城に住まう王族が、いつ何時書物を必要とするかわからないからという理由だった。

 それは、政務に関わることでもあっただろうし、遠い昔には、ぐずる子どもをあやすための絵物語が急に必要になることもあった名残であろう。

 とにかく、慣習として図書室は鍵を閉めない。エドアールから、リッカはそう聞いていた。

 禁書の収められた小部屋の鍵は、図書室内にある。

 誰もいないのだから、ゆっくりと探すつもりだった。そのための燭台は、廊下から拝借してあるし、マッチはポケットに忍ばせていた。書物が日に焼けるのを防ぐために、図書室に窓はない。

 つまり、入ってしまえばあとは、夜が明けるまでに目当てのものを探し出せばいい。

 万事うまくいく。そのはずだった。

「誰だ!?」

 ドアノブに手をかけ、ゆっくりと開けた途端、見えたのは蝋燭の灯り。それから室内にいた誰かの声。おそらくは、図書室の司書を務める役人だ。何か事情があって、夜を徹しての作業中だったのだろう。

 リッカは逃げ出した。

「誰か! 誰か来てくれ! 侵入者だ!」

 司書が上げる声に、夜勤の警備の者たちが集まってくる気配がする。

 どうしよう。

 逃げ惑うリッカは、もはや何も考えられない。とんでもないことになってしまった。

 捕まれば、どうなる? 自分だけに罰が下されるならいい。仕方がない。覚悟の上だ。

 だが、この国にいるオメガ族はどうなる。ランは、アンジュは。そしてオメガの国にいる家族は、同胞は。

 浅はかであった。物語のように上手くいくはずがなかった。

 とにかく城から出るしかないのだが、追われる身となった状態では、冷静な判断ができない。

 出入り口はどこだっけ?

 人の気配がしない場所、しない場所と渡り歩き、逆に奥へと来てしまったような気がする。ものものしい気配は背後からずっとしていて、ひたひたと迫ってくる。

 ――もう、駄目だ……!

 通路がそれ以上進めず行き止まりになったところで、隠れる場所もない。

 万事休す。脚の力が抜けて崩れ落ちそうになった瞬間、

「こっちだ!」

 小さな、けれど鋭い声。同時に引き寄せられる身体。扉の向こう側へと、リッカはさらわれる。

「……エドアール、様?」

 自分の身体をきつく抱き締める相手に目を凝らせば、よく知る男の顔であった。

 どうしてここにいるんだ。

 呆然と問えば、「クロード兄上が不在だから、仕事を肩代わりしているんだ」と、彼は応えた。

 ベルジャンは役に立たないと、言外に言う。あの男は確かに、媚びを売ることしか能がなさそうだ。

 偶然に偶然が重なり、リッカは彼に捕まった。

「どうして、はこっちの台詞だ。君はいったい、こんな時間に何をしに来た?」

 答えたくないと、態度で示す。俯いて、自分の足の先を見る。

「リッカ!」

 肩を掴まれて揺さぶられる。赤い虹彩がリッカの胸を射貫く。

 この目に逆らえる者がいるのなら、見てみたい。

 ああ、駄目だ。

 嘆息の後に、リッカは語り始める。

 母の密命によって、エルフの秘薬を探していること。それがあれば、母を始め、兄やアンジュ、同胞たちは長く生きられるだろうこと。

「特に母は、オメガ国を今のように豊かな国にした、立役者なのです。だから、まだ死んでほしくない。国のオメガみんなが、そう思ってる」

 母王はオメガだけではなく、アルファ因子を持たぬ者の移民政策を積極的に推し進めた。他国で馴染めなかった者たち、とりわけその種族の特徴を受け継がなかった者たち――例えば、オメガ国にはいないがダークエルフはその最たる者だろう――を、慈悲を持って受け入れた。

 その結果、オメガ国は豊かな国になった。他民族の技術を取り入れ、進化させる。技術を学びに、他国から留学してくる者すら出てきた。

 大昔、男に身売りすることしか知らないと馬鹿にされていた国がである。

 すべて母の功績だ。兄も優秀だが、大事な決断を下すときには、まだ迷いがある。自分が支えたとしても、それでも母には遠く及ばない。

 いいや、ただ単純に、母には長生きしてほしいだけなのだ。身体をボロボロに蝕まれて死ぬ姿なんて、見たくない。

「お母様の、ために、僕は……僕はッ」

 いつしか言葉は、嗚咽に変わっていた。優しく背中を擦る、エドアールの手つきもよくない。彼の前では強がっていられない。素の自分が顔を出してしまう。

 ごめんなさいを繰り返し、エドアールの慰めによって涙が治まるまで、しばらくの時間を要した。ずっと身体のどこかに触れていてくれたエドアールは、タイミングを見計らって、言いづらそうに話しかけてくる。

「その……君の探している、エルフの秘薬だが」

 まだ涙の浮く瞳を彼に向けた。俯いていた泣き顔に、熱が戻ってくる。

「エドアール様、ご存じなのですか!?」

「あ、ああ……エルフなら、皆知っている」

 ならば最初からきちんとオメガ族の窮状を説明していれば、この優しい騎士であれば、教えてくれたのではないか。城に盗みに入るなんて大それたことをする必要はなかったのだと、リッカは脱力する。

 けれど、エドアールの顔は、より一層険しいものになるばかりだ。

「だが、その薬の効果は、誰にでも表れるものではない」

 エルフの秘薬が秘されている要因。

「そもそもその薬は、短命種に恋をしたエルフが、相手を自分と同じだけ生かすために作るものだ」

 エルフと関わりのないオメガが飲んだところで、効き目はない。どころか、毒になる可能性すらある。

「でも、レシピさえ教えてくだされば、オメガ国にも腕のいい薬師はいます! 彼らが研究すれば、改良できるかもしれません!」

 一縷の望みを捨てきれずに言い募るリッカに、エドアールは眉間に皺を寄せたまま、首を横に振った。

 その原料こそが、問題なのだと。

「主な原材料は、世界樹の葉。それから……」

 一呼吸置いて、エドアールは声を振り絞る。おおっぴらにできない、悪しき言葉であるように。

「薬を飲ませる相手を運命の恋人と定めた、エルフ自身の血肉だ」

 ひゅ、とリッカの喉がおかしな音を立てた。反応にはお構いなしに、エドアールは詳細に「血肉」の部分の説明をした。

「これまでに作られた記録だと、目玉ひとつ、舌の先端、腕一本……」

 分量が異なるのは、相手の寿命やそのときの体調によって変わるからだそうだ。

 あれこれと言われたところで結局は、エルフの番ではない母は、秘薬の恩恵に与(あずか)ることができない。ランを溺愛するキルシュならば、自身を捧げる可能性はあるが、アンジュは無理だ。国王の血肉など、誰がオメガにくれるものか。

「あ、あ、あ……!」

 完全に力を失った身体が、へなへなと崩れ落ちる。膝を打ちつける寸前で、エドアールに抱えられ、リッカは彼の胸に縋りつき、泣いた。

「お母様にまで、捨てられる!」

 と。

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