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リッカは、父のことを知らない。兄弟の元には、折りに触れ、贈り物や手紙が来ていたが、自分宛のものはなかった。
その理由を、母は教えてくれなかったが、幼いながらにリッカは、悟っていた。
きっと僕のお父様は、お母様みたいに美しくない僕のことが、嫌いだったんだろう。
オメガの兄弟の中で、自分だけがみそっかす、平々凡々な容姿だ。
母やアンジュの赤毛や、兄の金髪には映える緑の目も、自分の栗毛と合わせると、ランクの落ちた宝石になってしまう。
父は母の美貌が遺伝することを期待していたのだろうが、期待はずれだったから、捨てられたのだ。
美人じゃなくても、可愛らしくなくても、オメガ王族として生を受けたからには、番を迎えて夫をアルファとし、子を成す義務がある。
リッカが隣国の王子と番うことになったのは、十五の春のことだった。
一度も会ったことのない、手紙のひとつも送ってきたことのない王子は、絵姿では大層立派であった。だが、リッカは信じていなかった。
どうせ、こんな自分を娶らなければならないのだ。きっと彼もまた、出来損ないだ。
落ちぶれた者同士、仲良く傷を舐め合えたらいいな、とほんのわずかに期待したが、打ち砕かれた。
少数の供を連れて入城したリッカを迎え入れたのは、国王だけだった。
次の発情期はいつだとか、処女かどうかだとか、そういう即物的な話しかしない国王に、発情は薬で抑えてやり過ごしたことしかない、未通のリッカは怯えた。その震える様からすべてを悟ったのか、彼はもう、何も言わなかった。
その日の夜遅くになって、王子は帰還した。リッカが自己紹介をしても、彼は無反応だった。
これはとんでもないところに嫁いでしまったぞ、と溜息をついたリッカだったが、真の地獄はその後のこと。
発情期を迎えたリッカは、生まれて始めて抑制剤を使わなかった。薬の効果を疑ったことはないが、効果のほどを実感した。本当の発情とは、こんなにも身体が熱くなるものだとは、想像していなかった。もじもじと両脚を擦り合わせて、どうにか正気を保つ。
疼く身体をどうにかしてくれるのなら、誰だっていい。
発情したオメガの発するフェロモンは、アルファ因子を持つ者に強く作用し、相手の発情を促す。忘我の境地において行う性交の最中に、射精とともにオメガの項を噛むことによって、男はアルファとなり、父となる。
しかし、寝室に現れた王子は、発情しなかった。
「最初から、気に入らないんだよな、お前」
言って、そのまま出て行ってしまった。
自分をアルファとして目覚めさせられないのならば、用はない。普通の男を抱くのなら、お前などよりも、よっぽど見目麗しい男が、娼館にはごろごろいる。
嘲笑う男の声が遠ざかるのを聞きながら、リッカは拙い手で、自身を慰めるしかなかった。
それが初夜。
当然、王族の閨房は政治にも関わるため、特に初夜は、ふたりきりの場所で行われるのではない。薄いついたての向こうには、官吏がいた。
報告を受けた国王は、一応の手は尽くした。
リッカと王子の両方を侍医に診せたり、リッカを無理に発情させ、他のアルファ因子を持つ者に会わせたりもした。しかし、ことごとく失敗に終わった。
リッカにあてられ発情し、アルファとしての本能に突き動かされる者は、たったのひとりもいなかった。
これが何を意味するか。
「ッ!?」
番う予定であった王子に、頬を強く張り飛ばされて、リッカは床に転がった。清掃はされているはずだが、あまり気分のいいものではない。
男は頭を掻きむしり、地団駄を踏む。
「くそっ! 出来損ないめ! お前と番って子どもを成すことでしか、俺が王になる道はないというのに!」
短い期間を過ごしただけでも、わかる。この王子は放蕩息子で、父王も手を焼いていた。政務はしない、剣術も駄目、とにかく怠け者で、賭博や娼館通いにだけ熱心な男。王になれば国を傾けるのは目に見えていて、実際、公爵の家の息子の方が王にふさわしいと思われている。
けれど、決定的な違いがあった。この王子は、アルファ因子を持っている。公爵家の息子にはない。
血を繋ぐという命題を優先すべきと判断した国王は、王太子となるための条件として、リッカとの間に子どもを作れと命令した。
オメガの国からは、アルファ因子を持つ男は徹底的に排除される。番を得なければ、入国できない。だからリッカは、ここに至るまで、自分自身の病気に気がつかなかった。
発情は、する。けれどそれに伴うフェロモンが、出ない。相手をアルファにしてやれない。
子を産むことを至上の幸福とするオメガにとっては、致命的な病であった。
その後、リッカは王子に殴られるために生きていた。腹を蹴られ、鞭で打たれ。ただでさえ地味な顔が、殴打によって腫れて、二目と見られない状況になって、しまいには、王子は剣を取り出した。
どうせ行き場のない出来損ない。殺してしまっても、文句はないだろう。
凶行は夜、寝室で行われた。いつもの暴力と同じだと思っていたリッカは最初、黙って耐えていた。けれど凶悪な顔をした王子が剣を向けてきたとき、悲鳴を上げて逃げ出した。背を向けたその瞬間、ズタズタに切り裂かれた。
母王の美貌を引き継がなかったために忘れられがちだったが、リッカは由緒正しいオメガ王族である。リッカが息子によって大怪我をしたと聞いて、国王は慌てた。
謝罪と賠償。けれど、強かな人間の王は、リッカの欠陥を楯にして、賠償金や慰謝料の支払いを渋った。
もとはといえば、フェロモンを出せない欠陥品のオメガを送ってきたそちらが悪いのだ。まともなオメガ相手ならば、息子だってここまで手を出さなかった、と。
母王は、戦わなかった。怪我が少しマシになって送り帰されたリッカを、黙って迎えた。
母の顔には笑顔はない。安堵の微笑みも、心配そうな顔も。
ただ、ぎゅっと眉間に皺を寄せて、険しい表情を見せた。
ああ、失望させてしまった。
母と似ても似つかない自分。せめて、言われたとおりに嫁いで、役目を果たさなければならなかったのに。
「僕は、まともなオメガじゃない。国のため、世界のためにアルファと番って、子を産む幸せは望めない。だから、お母様の駒として働き、国のために利益をもたらさなきゃいけないのに……」
もう長いこと、母の本当の笑顔を見ていない気がする。約五年も前の出来事だと、割り切ることはリッカも母もできない。ぎくしゃくとした関係を、エルフの秘薬を手に入れることで少しでも改善できればと行動していたのに、打ち砕かれてしまった。
「僕は、なんて親不孝なんだ!」
立派なアルファと番い、できれば母に似た、美しい子が欲しかった。
オメガとしての幸福は、リッカの手からこぼれ落ち、夢すら見せてくれやしない。
ぎゅっと握った拳。手のひらには爪が食い込み、傷になるくらい硬く握りしめる。そこに、そっとエドアールの手が重なる。優しく撫でさすられ、ゆっくりと指を解いていくと、握り込まれた。
「リッカ。俺は、怒っている」
「え……」
一瞬呆けるも、エドアールが怒るのも当然だと思い直した。自分は盗みを働こうとした。彼の友好も信頼も、何もかもを裏切る行為だ。このまま放り出されても仕方がない。
「あ……」
どんな罰でも受けます。償います。
そう言いたいのに、言葉がうまく出てこない。舌がもつれてしまう。
エドアールの赤い瞳は、今まで見たことがないくらいに憤っている。離宮に侵入した男に向けたものよりも、深く、静かに。火山の下で煮えたぎっているというマグマのように、彼の瞳は熱く揺らぐ。
「ご、ごめん、なさい……っ」
震える声でどうにか紡いだ謝罪に、エドアールはふぅ、と息をついた。
「違う。リッカ。俺が怒っているのは、君がオメガに囚われていることに対してだ」
彼の言葉の意味がわからずに、リッカは見上げた。眼光を和らげたエドアールは、唇に笑みを浮かべた。
「オメガの幸せなんて尺度で、すべてを測るな」
「でも」
リッカはそれしか知らないのだ。オメガとしての生き方しか、習ってこなかったのだ。
エドアールはリッカを抱き締める。強く。背中の傷をなぞるように指を動かされて、リッカはビリビリと走る甘い刺激に、震えが止まらない。
「俺は、リッカがオメガじゃなくても、好きになっていたよ。絶対にだ」
息をのむ。嘘だ。信じられない。エドアールをアルファにしてあげられない自分に価値などないのに。
彼は身体を少し離して、指折りリッカの好きなところをあげていく。その間も、左手はリッカと繋いだままだ。
「はっきりとものを言うところ。年下の面倒をよく見るところ。賢いところ。ちょっと強がりなところ。気を許すと、少し弱い部分も見せてくれるのがたまらなく可愛い」
それから、見た目も好きだと言う。それこそ嘘だろうと叫ぶリッカの唇を、彼は人差し指一本で封じた。ふに、と擽られて、動きを止める。
「さらさらの髪が風になびくところを見ると、触れてみたくて仕方がない。日に当たると、きらきら輝くのが眩しい。緑の目はいつも柔らかくオメガたちを見守っていたな。なのに、俺に向ける視線は、少し厳しい。抱いて慰めているときの、俺の心臓の音は覚えているか? 戦っているときですら、あんなに速かったことはないぞ」
「も、もういいから!」
顔から火が出る。この男はとんでもなく褒め上手だ。繋がれていない方の手で頬を押さえれば、案の定、熱をもっている。
まだまだ言い足りないぞ、と眉を動かしたエドアールに、嘘だろう、と思う。先ほどとは別の意味で――それは確かに歓喜で――震え上がるリッカの目をじっと見つめて、彼は問う。
「なあ、リッカ。君の本心を聞かせてくれ」
オメガもエルフも、この世界の行く末すら関係ないとしたら、お前は何をしたいのか。何が幸せだと思うのか。
「幸せ……」
エドアールと初めて出会った、舞踏会のことを思い出す。
オメガを馬鹿にしたエルフを叱り飛ばして退場させ、その後謝罪してくれた彼の誠実さに、リッカはどうか、アンジュの番が彼のようであってほしいと思った。
けれど、本心は違ったのではないか。
不器用なステップを刻む、みっともない自分のダンスを、エドアールは嗤わなかった。微笑みを浮かべて、踊りやすいように巧みにリードしてくれた。最後にはリッカも微笑み、彼を信頼し、身を任せた。
ああ、あのときのダンスは、楽しかった。あれこそが、幸せだった。
アンジュの番じゃなくて、僕の番に。僕の傍にあってほしいという本心は、彼をアルファにできないのだからという諦念で封じ込めていた。
もしも自分がオメガじゃなかったのなら、会うことのなかったひと。
しかし、オメガじゃなかったとしたら、何の憂いもなく、恋心を抱いていただろうひと。
夕焼け色の瞳で、いつも優しく見守ってくれるあなたが……。
改めて問われたリッカの胸に溢れた感情は、まごうことなき、恋慕であった。
「僕は……何も残せなくても、あなたといることは、幸せだと思う……こんな欠陥品のオメガでもよければ、どうかお傍に……」
ようやく告げた本心に、にっこり笑っていたエドアールだったが、リッカの言葉を最後まで聞かなかった。唇をむにゅりとつままれ黙らされる。
「欠陥品なんて、自分のことを貶めるな。……俺は、アルファになんて、なれなくてもいい。とにかく君を愛している。君が欲しいんだ」
熱烈な告白に、おずおずと頷くリッカを、エドアールは強く抱く。首筋に鼻を埋めるようにする彼に、自分のフェロモンを嗅いでもらいたかったなぁ、とリッカは思った。
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