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<(16)
後宮入りに応じる代わりに、リッカはいくつか要求を突きつけていた。
エルフ国内にいる他のオメガたちの自由を保障すること。オメガの国への進軍を絶対にしないこと。アンジュの怪我の慰謝料を支払い、彼を国元へ帰すこと……など。
キルシュはきちんと王に近い者に書状を届けてくれたらしく、次の日には迎えが来た。だが、リッカはぴしゃりと扉を閉ざした。
まずは自分の要求を理解したのか、認めるのかを文書にして持ってこいと追い返すが、何度も何度も、手ぶらでやってくるものだから、エルフの国の中枢がこんなに愚かで大丈夫なのかと、他人事ながら心配になった。
ようやく書面で返答が来たのは、リッカの手紙からなんと十日後のことであった。埒があかないと、今回迎えに来た文官は、しっかりと文書をしたためてきた。
これで駄目なら処罰を受けるかもしれないと、文官は青白い顔で冷や汗をかいて、リッカの前に立っている。椅子に座ったまま、わざとえらそうに見えるよう、リッカはふんぞり返って書面を確認する。
いくつかの確認事項――主にアンジュの帰国についてである。慰謝料の総額をわざと書かないあたり、この文官も卑怯な手を使う――の擦り合わせをして、リッカは一度、目を閉じた。
時間は稼げた。アンジュの怪我も癒えた。彼の帰国については、キルシュとランをはじめとした護衛と世話係をつけることも認めさせた。
――もう、じゅうぶんだろう。
リッカは文官に笑いかける。地味だとは言わせない。男に愛されることを知ったオメガだけが醸し出す色を持って、自分が上であると示す。
「わかりました。参りましょう。陛下の元へ」
準備はすでに整っている。と言っても、もともと帰国するつもりでいたリッカの荷物は少ない。旅装束や母が持たせてくれていた貴金属の類は、アンジュに渡してある。
「兄上」
荷物を取りに行くと、部屋からアンジュが出てきた。リッカは弟の頬に触れ、頭の上の耳に触れ、傷を確認する。
医者には少し痕が残るかもしれないと言われた。その分、自分があの忌々しい王に傷手を負わせてやろうと決心した。
「兄上、ごめんなさい。僕のせいで」
「何を言うんだ。アンジュは全然悪くない」
ぎゅ、と抱き合う。兄弟の最後の抱擁になるかもしれないと思えば、名残惜しい。弟の肩に顔を埋めて、リッカは大きく息を吸った。
大丈夫。この子のためならば、何だって我慢できる。
別れを惜しみつつ、リッカは城へと向かった。離宮と城はそれほど離れていないので、歩いてである。これはアンジュが輿入れしたときも同じで、そのときはリッカが彼の後ろについていった。しかし、今日はリッカひとりである。迎えの文官と、離宮の警護をしていた騎士ひとりをともに、リッカは敵地へと向かう。
「それではこちらで、夜までおくつろぎください……」
短い道中、ずっと嫌味を聞かされていた文官は、疲れ果てた顔で、用意された部屋にリッカを残して行った。
エルフらしい質素な部屋である。弟にあてがわれたのと同じ部屋であろうか。使い回し。兄弟ならいいだろうとでも思っているのか。
リッカは肩をぐるりと回した。
夜まで、と注釈がついたということは、もう今夜、王は自分をものにするつもりでいるのだろう。
知らず、拳を握って胸に当てていた。
「エドアール様……」
彼には何も知らせていない。どこの国にいるのかはわかっているし、たいして距離もない。十日もあれば手紙を出せた。彼は何も知らない。知らないままでいい。
戻ってきたときには、自分はもしかしたら、生きていないかもしれない。
それでも、エドアールが傷つけられることを思えば、たいしたことないと言い切れる。
ああ、自分も立派なオメガなのだな。
愛した男を守るためなら、自分の身を投げ出すことすら厭わない。
リッカは大きく溜息をつき、頭をふるりと横に振る。
迷うな。覚悟をしてここに来たのだろう。
ゆっくりしろと言われたが、寝て過ごすわけにもいかない。あの王のためと思うと気乗りしないが、風呂に入るなり、あれこれと準備をしておかなければならない。
リッカは使用人を呼ぶ鈴を鳴らした。
シャルル王が、リッカのいる寝室を訪れたのは、夜がすっかり更けてからだった。
ノックもなしに入ってきた背の高い男に、部屋の暗さもあいまって、リッカは悲鳴を上げそうになった。シャルル王と会うのは謁見の間で、離れた椅子に座った状態であったから、その人が国王陛下であることに、気づけなかった。
逃げようとして足をぶつけたリッカを見て、呆れかえったエルフ王は、その魔力を使って部屋を明るくした。
急に眩しさを感じて、リッカは目を細める。
「あ……陛下」
居住まいを正し、リッカは恭しく頭を下げた。シャルルは挨拶を返すわけでなく、鼻で笑った。髪にも肌にも染みついた酒精の臭いがして、したたかに飲んできたらしいことがわかる。
この状態で説得をしても無駄か。だが、一応はきちんと事前に話を通しておかねばならない。前の婚姻のときは自覚がなかったが、今は自分の病気についてもきちんと理解している。説明なしで詐欺だ、と訴えられるのは、もうこりごりだった。
ベッドの上に座った男は、「足」と命令した。何を言っているのかわからずにぼんやりとしていると、靴を履いた足が投げ出され、脱がせろという意味であったことを理解し、リッカは跪いた。
「遅い」
リッカとてオメガ国の王子である。侍従の真似事は初めてで、のろのろした動きに苛立ったシャルルは、まだ脱げていない左足で、リッカの頬を軽く蹴った。
ぐっと堪えて、「申し訳ございません」と早口に謝罪したリッカは、多少慣れた手つきで脱がせ終える。
王の足下に跪いたまま、リッカは国王に向かい、床に手をついて頭を下げた。謝罪、懇願。どちらでもいいが、いずれにせよ、貴人のする行為ではない。
「……なんだ?」
話だけなら聞いてやるという態度に、若干の苛立ちを感じつつも、リッカは正直に、自分のことを告白した。
「こうして後宮にお招きいただいたのはありがたく思いますが、私はお役目を果たすことができません」
「うん?」
リッカはかいつまんで、自分の病状について告げる。もちろん、過去に嫁いだことがあることは伏せた。
「それから、背中には醜い傷がございます。とても見られたものでは……」
これで萎えてくれればいい。暴力ならば、あとでいくらでも賠償金を請求してやる。抱かれる覚悟はしていても、あくまでも最終手段だった。
見上げたリッカの目に映るのは、にやりと笑う男の顔だ。
「っ」
足先で顎を上げさせられ、息を詰める。国王たるものがする行動ではない。気品なく、暴力的だ。
にたにたと不気味に笑う男は、持っていた小瓶をリッカに手渡した。
「これは?」
「飲め」
質問には答えてもらえずに、エルフの王はただ、リッカが命令どおりに行動することを待つ。
仕方なく、おずおずとリッカは飲んだ。中身をすべて腹に収めると、シャルル王は嗤った。
「それはな、発情促進の薬だ」
「!」
「私をアルファにできずとも、発情すればあさましく股を濡らす。それがオメガという生き物なのだろう?」
ゆっくりと身体を起こしたシャルルが、リッカの身体を組み敷く。即効性はないようで、まだ熱を持たぬ肉体だが、もともとの体格差はいかんともしがたい。
「おやめください!」
「なぜだ。なぜそこまで、エドアールに操を立てる?」
「当たり前でしょう!」
「なぜ」
リッカの胸元をなぞりながら、彼は純粋に疑問であると、目で訴えてくる。
「エドアールは私になんでもくれたのだ。好きな食べ物も、気に入っていた侍従も何もかも」
なのになぜ、お前だけ手放すのを拒むのかが、わからない。
リッカの顔をぺたぺたと触り、「なんてことのない顔。たいしたことのない身体。それに、お前の言葉通りであれば、オメガとしても役に立たない。なぜあれは、お前に固執する」と、首を捻る。
その有様が、なんとも恐ろしい。大きくなっただけの子どもが、玉座に座っているのだと、唐突に理解した。
「離してください!」
声だけは意気盛んに抵抗を示すが、その実、身体は薬が回ってきたようで、熱を持っていた。発情の兆候に、シャルルはリッカの首筋の匂いを嗅ぐ。だが、特に何も感じていない顔をして、ぷちゅぷちゅと唇を押しつけた。
番になることはない。けれど、首は急所でもある。あまりのおぞましさに、「やめて! やめて!」と、両手を突き出し抵抗するが、ひとまとめに括られてしまう。
「誰か……誰かッ!」
「誰も来ない」
ここは後宮。王のための女を集めて住まわせる場所。昼は政務に励み、夜はこちらで房事に励むのが、王の務め。だから助けは来ない。わかっていてもリッカは、叫ぶしかなかった。声が嗄れるまで。いや、嗄れ果てたとしても。
「助けて! エドアール様っ!」
愛しいひとの名前を呼べば、ベッドで他の男を想っていることに激高したシャルル王が、リッカの細い首を捕らえた。
「んぐうっ」
きつく、きつく絞められて、もう駄目だと思ったそのときだった。
「リッカ!」
――ああ、来てくれた。
ここには絶対に来ないはずの男の声に怯んだシャルルの下から、エドアールはリッカの身体を引っ張り出した。
「んあっ」
薬で無理矢理発情させられた身体は、エドアールに服の上から触れられるだけで、びくりと反応した。甘い香りはなくとも、荒い息や震える身体から、リッカの状況を正しく判断したのであろう。エドアールは、自分が着ていたマントを着せてくれた。寝間着だけでは防御力皆無であったため、リッカはありがたく、前を掻き合わせた。
床にへたりこんだままのリッカを、エドアールは背中に庇った。
「兄上。俺があちこち飛び回っている間に、何をしているのですか」
声だけでわかる。彼は本気で怒っている。兄に対してはいつだって、何だって受け入れてきた弟が、リッカに無体を働こうとしているのを見て、激怒している。
彼がここに来られたのはきっと、キルシュたちのおかげだろう。ランが夫に進言したのかもしれない。リッカの顔色を読み、本当に望むことを叶えようとした。彼らの優しさに、泣きそうになる。
エドアールの怒気に、シャルルが驚きたじろいだのは一瞬だった。はは、と哄笑し、ベッドから下りて相対する。
肌の色も髪の色も違う。なのに、彼らは纏う雰囲気がよく似通っていた。ならば、エドアールが王として立つ未来もあったのではないか。
先に動いたのは、シャルルだった。拳がエドアールの頬を狙って飛んでくる。エドアールはあえてよけずに受けた。これから繰り出すのは、報復。正当防衛であると主張できるように。
エドアールに反撃されるのは、初めてだったのかもしれない。シャルルは怯んだ。が、すぐに顔を真っ赤にして、大暴れする。
兄弟喧嘩の範疇に治まっているのか、アンジュや兄との間でここまでの諍いになったことがないリッカには、わからない。
ただ、エドアールの目にあるのは、それまでに見えていた兄への憧れや思慕ではないことだけはわかる。
愛する男を奪われそうになった、ひとりの男として、憎しみの感情を爆発させる。あまりにも大きすぎて、罵りの言葉にすらならず、拳を振るうだけ。
リッカは何もできなかった。やめて、と言うことすら憚られた。圧倒され、見守ることしかできなかった。
何度目かで、シャルルの腹に掌底が入った。
「ぐっ……」
短い呻き声とともに、男は跪いた。
「エドアール様……」
か細いリッカの呼び声に、はぁはぁと肩で息をしながら兄を見下ろしていたエドアールはハッとして、振り返る。
「リッカ。大丈夫か? 身体は……」
転がっている瓶を拾ったエドアールはだいたいのことを察して、わなわなと震える。
「ん、大丈夫。もう、帰る……」
「俺の屋敷に行こう」
そんな風に話をしていた。油断をしていた。
エドアールはすでに兄を超えたと思い、シャルルに背を向けていた。
背後でその兄が、ものすごい形相をして、懐から光るものを取り出したことに気がついたのは、リッカであった。
短剣だ。
武器を持ちだしたら、喧嘩では済まない。エドアールも騎士姿で、帯剣したままだ。攻撃されたらきっと、反射的に抜く。そして万が一にも王を傷つけたとしたら、反逆者扱いだ。内乱になる。
正直なところ、エルフの国がどうなろうと、リッカには関係ない。
けれど、この国にいるオメガは。番となったエルフもまた、戦争に巻き込まれる。筆頭は騎士団にいるキルシュで、運命の番であるランもまた、彼のために無茶をする。
もしもこの身ひとつで、すべて丸く治まるのなら。
リッカは夢中で飛び出していた。
突然のリッカの行動に、さすがのエドアールも反応が遅れた。両手を広げて彼の背を守るリッカの腹に突き刺さった刃。エドアールのマントは緋色で、彼の瞳にもよく似た色。だから、血が飛び散ってもわからない。
痛い、よりも先に、熱い、が来た。
深く内臓を傷つける。本能で、「あ、無理だ」と悟る。
「っ、は」
けほ、と咳き込むと同時に吐き出された鮮血に、最初に戦いたのは、まさかの刺した張本人であるシャルルであった。
「あ、あ……!」
ひとの肉を刺したことは、これまでになかったのだろう。いいや、獣ですら彼は、狩ったことがない。隠し持っていた短剣は、自身の強さや賢さをひけらかす目的だった。すべて反転し、弱さと愚かさを露呈する結果となった装飾品は、リッカの腹に刺さったままだ。
「リッカ!」
後ろ向きに倒れる身体を、エドアールが抱き留める。傷口に触れる手が震えている。
リッカは最期の力を振り絞り、エドアールの頬に触れた。褐色の肌が血に濡れる。
「あい、してる……」
そして目を閉じたリッカの耳に、慟哭が響く。
神の遣いが迎えに来たときに吹くラッパに変じるのを待つ間もなく、リッカの意識は深い闇へと沈んでいった。
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