オメガに説く幸福論(18)

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(17)

 目を覚ました。

 ……なぜ? もう二度と目を開け、現世の景色を見ることはないと覚悟して、意識を飛ばしたはずだった。

 なのに、目が開いた。リッカの視界にまず映ったのは、ここにはいるはずのないひとだった。

「リッカ!」

 涙の痕を隠さないで、起き上がろうとしたリッカに抱きついてきたのは、兄・カイリである。国元にいるはずで、しかも出産を終えて時間もあまり経っていない。彼がどうしてエルフの国にいるのか。本当の自分はやっぱり死んでいて、今の状態は夢なのかもしれないとも思うが、感じる重みや体温は確かだった。

 生きている。あれだけの傷を負い、なぜか自分は呼吸をして、カイリの背におずおずと手を伸ばしている。

「なんで」

 その問いは、兄と自分との間では齟齬が生じた。

 リッカは「なぜ自分が生きているのか」と問いかけたのだが、カイリは「どうして兄上がここにいるのか」という疑問だと受け取った。

「本当は、母上が来ようとしていたんだが、さすがに臨月間近ではな。代わりに俺が来たわけだが」

「兄上だって、子どもが」

 乳離れもまだまだ先の赤ん坊を抱えた兄だって、長旅は身体に堪えただろう。子どもはさすがに国に置いてきたようだが、リッカ自身も経験した旅程だから、どれだけ大変だったか想像がつく。

「子どもも大切だが、可愛い弟たちがひどい目に遭っていると聞けば、身体に鞭打って来るに決まっているだろう」

 刺されたことによって怪我をする前から、カイリはエドアールやキルシュからの報告書を見て、エルフ国でのオメガの、リッカの扱いを知り、出産後すぐにここに来る算段を取り付けていたらしい。

「もちろん、母上も同じ気持ちだ」

「嘘だ」

 間髪入れずに否定する声は、震えていた。

 母は、子どもをつくることのできないオメガである自分を、疎ましく思っていたのだ。オメガ族の、母の寿命を延ばすことのできるエルフの秘薬だって、自分が思っていたようなものではなかった。

 兄やアンジュは可愛がられても、自分は決して、母のためにならないのに。

「何を勘違いしているのか知らないが、母上が一番に愛しているのは、お前だよ。リッカ」

「何を……」 

 兄から手渡された手紙の字は、紛れもなく母のものだった。驚いて顔を上げれば、「読んでごらん」と勧められる。何が書かれているのか恐ろしい。勘当の通知かもしれない。

 リッカは読み進めていく。だがそこには、リッカが想像していたような罵り、失望する文言は一切なく。

『リッカ。あなたが自分のことをひどく責めているのは知っています。何もできなかった私を許してほしい。こんなに辛い目に遭わせるのなら、産んでしまって申し訳ないと、避けてしまったことを謝ります』

 顔も知らぬ自身の父は、とある人間族の男だという。

 すでに何人も、各国の貴人との間に子をもうけていた母は、その国の王族と関係をもつつもりでいた。アルファ因子を持つ者を見定め、誰との間に子孫を作るのが最適なのかを考えていた母の目に、リッカの父が初めて映った瞬間、母は自分の役割を忘れたそうだ。

『恋でした。初めての。私は夢中になり、あの人との間に子をつくった。嬉しかった。それがあなたなのですよ、リッカ。あなたに望むことは、昔から、たったひとつ。あの人の忘れ形見であるあなたが、無事にオメガの国に帰ってくること。たったそれだけなのです』

 便箋に涙が落ち、インクが滲んだ。慌てるリッカに、兄がハンカチを差し出す。

『自分の役割を果たし、帰ってこい』

 母の言葉に、裏の意味などなかったのだ。リッカが勝手に深読みをしていただけだった。母に気を遣い、父親のことを聞いたこともなかったのも、災いした。

「ほら。愛されているだろう?」

「うん……」

 どこか震える筆跡は、体調不良を推して書いたことが窺われた。早く帰っておいで、と。ただそれだけを願う、母の親心が痛いほどに伝わってくる。

「なら、すぐにでも帰ろう」

「兄上、待ってください」

 リッカも早く帰りたかった。帰って、母に「ごめんなさい」と謝って、抱き締めたい。

 けれども傷が癒えるまでは行動に移せない。

 ……傷?

 リッカはハッとした。

 あれだけ深く腹を刺された。死ぬと思っていたのだから、今もズキズキと痛みを覚えていなければ、おかしい。なのに、恐る恐る触れてみたリッカの腹は、傷ひとつないきれいなものだ。包帯なども巻かれていない。

 おかしい。自分はシャルル王に、確かに刺されたのだ。それがなかったことになっている? いいや、ならば兄がこの場にいて、泣いているのは筋が通らない。

「カイリ兄上、僕は。僕は、どうやって助かったのでしょうか?」

 最初の問いかけを蒸し返したリッカに、兄はぴくりと反応し、無表情になった。

「兄上?」

「……入りなさい」

 リッカの呼びかけを無視して、兄は扉の外にいる誰かを呼んだ。本当は、呼び入れたくないという顔をして。

 誰だろうと扉の方をぼんやり眺めていたリッカは、入室した男の顔を見て、ベッドから下りようとする。

「エドアール様!」

 慌てて兄に押しとどめられたリッカは、ぽたぽたと涙を零す。

 よかった。無事だった。自分が命を張った甲斐があった。

 リッカはエドアールに縋り付きたいと手を伸ばしたが、彼は一定の距離を保ったまま、ベッドから離れてリッカのことを見下ろしていた。

 辛そうな瞳の色に、リッカも不安になる。

「エドアール様?」

 覇気がない。いつもより血の気のない顔をしている。いいや、それだけじゃない。大きな見落としがあったことに、リッカはようやく気づく。無事なんかじゃない。

 嘘。どうして。

「……腕、は。どうなされたのですか……?」

 エドアールの左腕が、肘から下半分、失われている。シャルル王によって処されたのかとも思ったが、違う。

 自分の腹から消えた刺し傷。なくなってしまったエドアールの腕。

「まさか」

 絶句したリッカの先の問いに答えてくれたのは、兄だった。しっかりとリッカの身体を抱き締めながら、振り絞った声で言う。

「エドアール殿は、エルフの秘薬を……」

 ――原材料は、世界樹の葉と、エルフの血肉。

 短命種の病や怪我をすべて癒やし、エルフと同じだけの寿命にする秘薬。運命の恋人にしか効かない、それも昨今ではほとんど作られたことがないその秘薬によって、リッカの命は救われた。

「どうして?」

 僕に、左腕を捧げるだけの価値なんて、あるわけがない。

 利き腕は右とはいえ、剣を操るのに片腕でいいはずがない。隻腕の豪剣士など、伝説だ。これでは、エドアールに騎士団長は務まらない。

 視線を合わせようとしないエドアールは、ぽつりぽつりとあの日の顛末について語った。

 傷つき意識を失ったリッカに、エドアールはひどく動揺した。野生動物の討伐などで、部下が傷つく場数は踏んできたはずなのに、リッカの腹から血が止まらないのを見て、名前を呼ぶことしかできなくなっていた。

 キルシュたちがなだれ込んできて、倒れているリッカを見て、急いで万能薬を使ってくれた。傷はそれで塞がったが、それまでに流した血が戻ってくるわけではない。リッカの命は危険に晒されたままだった。

「俺がすぐに判断できていたら……」

 右の拳を握るエドアールの苦しみが、リッカにも伝わってくる。

 ならば、左腕を捧げたのは懺悔から? そんなものいらなかった。僕は、あなたを守れればそれでよかった。

 リッカはベッドを下り、床に足をつけた。今度は兄も止めなかった。

 あれから何日が経過したのか知らないが、久しぶりに歩くせいで、膝が震えた。まともに歩くことができなくとも、エドアールまでは三歩の距離だ。

 飛び込むように彼に近づいたリッカを、エドアールは片腕で抱き留めた。右腕だけでも力強く、リッカのことを愛し、守ってくれる逞しさに、胸が震える。

「あなたのせいじゃないのに、なんで僕なんかを……っ」

「君が、俺の運命の恋人だからだ。リッカ。君に死なれたら、俺も生きていけやしない」

 フェロモンを発することのない、相手をアルファに変え、父にしてやることのできないオメガに、運命の番が用意されているわけがない。

 けれどエドアールは、リッカを「運命」と言い切る。

「運命は選び取り、掴むものだ。俺は君を運命だと選んだんだ。オメガだとかダークエルフだとか、そんなことはどうだっていいんだ。君が君でいてくれるのなら、俺は……」

 なんて深く、潔い愛なのだろう!

 リッカの心は、彼に共鳴している。あるかどうかわからぬ、神のお仕着せの運命ではなく、自分で選んでよいのだと。

 母だって、選んだ。身分の低いリッカの父を。きっと多くの反対があっただろうに、契りを交わし、リッカを産んだ。ふたりは運命の番ではなかったかもしれないけれど、紛れもなく、互いに互いを「運命」だと信じた。

 その結晶が、自分なのだ。

「愛している。リッカ。勝手なことをしてすまない。それでも俺は、君を手放せない」

 離さないで、とリッカは彼の胸に縋る。何があっても決して。

「僕も……僕も、愛しています。エドアール。あなたにもらった命を、あなたに捧げさせて……」

 一生をともにする。

 リッカの求愛に、エドアールは感極まり、深く口づけた。蕩けるようなキスに、リッカの思考は彼一色に染まっていく。

 ……兄の前で披露するには、濃厚なラブシーンだった。

 そう気がついたときにはすでに、空気を読んだ兄は、部屋を出て行ってしまっていた。いつの間にいなくなったのかわからないでいると、「もう終わったか?」なんて暢気な声が扉の外からかけられて、リッカはエドアールと顔を見合わせて、笑ってしまった。

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