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<(18)
「兄上、ご相談がございます」
兄はリッカが使っている離宮に泊まっていた。リッカの傷はもういいが、薬が馴染み、完全回復するまでに十日ほどかかっていたため、足腰の衰えは否めない。走れるようになるまでは、と兄はエルフ国に滞在してくれていた。
せっかく来たのだから、と勤勉にエルフの国の政治や文化、様々な学びに忙しい兄の隙間を縫って、リッカは彼の元へ訪れていた。
「エドアールを、我が国に連れていけないでしょうか」
リッカの相談に、兄はほんのわずかに顔を歪ませた。難しい。表情が物語っている。
オメガの国は移民を歓迎しているが、アルファ因子を持つ者に関してのみ、例外であった。発情期のオメガに反応して襲いかかられては困るからだ。因子を持つ者は、正式にオメガと番ったアルファとなるまで、入国が一切禁じられる。
リッカとしか関係するつもりのないエドアールは、いつまで経ってもアルファそのものにはなれない。だが、それでもリッカは彼を、オメガ国に連れて帰りたい……エルフ国にいさせたくない理由がある。
シャルル王は、仮にも他国の王族であるリッカを殺しかけたことにより、退位させられていた。リッカを刺した衝撃による混乱はいまだ治まらず、気がおかしくなってしまったこともあり、蟄居させられている。
問題は次に誰が玉座に着くかであった。正統な血筋を望むのなら、アルファになれるエドアールが最適だと推す声もあったが、彼は隻腕や、これまで政(まつりごと)にあまり関わってこなかったのを口実に、辞退している。
王になることよりも、リッカの隣にあることを選ぶ。彼はそういう男だ。
残るはクロードとベルジャンだったが、後者はシャルルの後ろ盾なしには何もできない腰抜けだ。今度はクロードに媚びを売っている。
必然的に、クロードが王となる。彼はエドアールに対して冷淡で、片腕になったことについても呆れられたと、当人は気にしていない様子であった。
隻腕の騎士団長で、兄王に疎んじられている王位継承者。微妙な立ち位置であるし、特にこの国に未練が残るようなこともないだろう。
「……オメガ国に行けないのなら、技師を派遣していただけますでしょうか」
他の国で暮らすことも考えた。しかし、オメガの国は技術大国でもある。亡命者の中には、腕のいい技術者が大勢いた。義手を製作する職人もいる。
精巧な義手が罪滅ぼしになるかわからないが、リッカはどうしても、彼に左手を取り戻してほしい。
「派遣くらいならできるけれども、エルフの王はなんと言うかな」
リッカは唇を噛みしめた。
そうだ。エルフは自然を自然のままに愛する種族だ。恋人のために腕を斬ったのは自己責任、取り戻そうとするなどもってのほかだと、許可が下りない可能性もある。
だとすればどうしたらいいのか。
リッカは何日も何日も考えていて、いい考えが浮かばないまま、兄が帰国する前日となってしまった。リッカはエドアールのことがあるので、今回は一緒には帰らない。
「リッカ。一緒にお風呂に入ろうか」
兄に誘われて、リッカは頷いた。またしばらく会えないから、名残惜しかった。
さっさと脱いだ兄の背中を、リッカはぼんやりと眺めた。きれいな、シミひとつない肉体だ。
「先に入っているよ」
「はい」
彼はリッカが、背の傷を気にしているのを知っているから、ゆっくりと入ってくるように言ったのだった。
そっと衣服を脱ぎ、リッカは浴室へと入る。すでに流し湯を終えて、兄は浴槽へと浸かっていた。
「エルフの国は、温泉があることだけはいいよなあ」
産後の疲労回復にも効果があるようで、兄はここに来てから、日に二度も風呂に入っていた。さすがのリッカも付き合いきれなかった。
鼻歌まで聞こえてきたのに苦笑して、リッカは髪や身体を洗う。
浴槽に入るときには、長い髪が邪魔だ。濡れ髪を簡単に束ねて、さて入浴しようとしたところで、兄が驚いた顔でリッカを指していた。
「お前、リッカ、それ……」
「え? なんです?」
まったく心当たりがなく、首を傾げていると、兄は大きな声で叫んだ。浴室内に反響する。
「背中の傷、治ってる!」
「えぇ?」
自分でも視界に入れて楽しいものではない。鏡に映して工夫しなければ見えないので、あえて無視していた。浴室の鏡に背を映し、無理矢理首を捻って見れば、確かに傷は消えていた。
「嘘。なんで」
あれだけひどく残り、母の目を涙で曇らせた大怪我である。一朝一夕で、今さら消えるわけがない。
ひとまず浴槽に入って、あれこれと原因を考えていたところ、兄が手を打った。
「そうだ! エルフの秘薬!」
エルフが運命の恋人と定めた相手の、あらゆる傷や病気を治す――それは、新しい出来たばかりの傷や、今実際にかかっている重篤な病のみならず、古傷にも効くのではないか。そうすると、背中がきれいになっていることにも、納得がいく。
「なるほど、そうかもしれませんね」
温かい湯の中にいるリッカは、心地よさにぼんやりして、疑問が解決してよかったとしか考えていなかったが、兄は違う。まだ思案顔をして、口元に手をやる。
「兄上?」
「なぁ、リッカ。もしもエルフの秘薬が」
命に関わるわけじゃない病まで、完璧に治してくれているとしたら?
カイリの予想に、リッカは息を詰める。
「それって」
自分の抱える持病も、治っている可能性があるということでは。
リッカは考えるよりも先に、慌ただしく湯の中から出た。まだ完全に温まっていないけれど、おざなりに身体を拭き、服を着る。
「エドアール様!」
詰め所に、濡れたままの髪でいかにも湯上がりです、という風情で現れたリッカに、騎士たちはぎょっとした。エドアールはすぐに駆け寄り、部下たちの視線から恋人を守るように抱き留める。
「どうした、リッカ。そんなに慌てて。何か用事でも……」
「僕たち、番になれるかもしれない!」
興奮して、声を小さくすることを忘れた。言ってしまってから、ここがどこか思い出したリッカが目をやると、騎士団員たちは気まずそうに視線を逸らした。
「……詳しい話は、俺の部屋で聞こう」
促された執務室で、リッカは兄と立てた仮説について、口早に述べた。エドアールは黙って聞いていてくれて、うんうんと相づちを打つ。
「それで、それで、エドアール様。もしも本当に、僕たちが番になれたら。一緒にオメガの国で暮らしましょう!」
目を瞠るエドアールに、リッカの膨れ上がった気持ちが萎んでいく。先走りすぎた。
「あ、ごめん……エドアール様の意見を聞いてないのに、勝手なことを言ってしまって」
赤面してきびすを返そうとするリッカを、背後から右腕一本でエドアールは抱いて引き留めた。
「違う。驚いただけだ。……もちろん、リッカと番になって、一緒に過ごせるのは嬉しい。でも」
「でも?」
「確実ではない、だろう?」
リッカは口を噤む。そうだ。推測にしか過ぎない。期待して、期待させておいて、やっぱり駄目でした、では悲しすぎる。
きゅう、と抱かれていると、彼の胸から心音が伝わってくる。刻む鼓動が、先走っていたリッカの精神を落ち着けてくれた。
「あの……それでも僕は、試してみたい。だって」
あまりにも子どもじみた言葉が出てきて、リッカは赤面した。恥じらう自分に対して、エドアールはからかい混じりに、「だって?」と、先を促すのだ。
「やっぱり番になれなくても、あなたは僕を、死ぬまで愛してくれるんでしょう?」
延びた寿命を、永久に。
リッカの問いに、エドアールは微笑み、「もちろんだ」と口づけた。
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