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結局、キルシュとランが正気を取り戻した状態で出てきたのは、三日後であった。
ランの首筋には、何度も執拗に噛んだ傷痕が残っていた。食事の差し入れやらなんやらで、何かと目をかけていたアンジュが「おめでとう」と言えば、はにかんで笑った。
「キルシュ殿……本当に、ありがとうございました」
頭を下げるリッカに、キルシュは疲労が濃く浮かびながらも、男として一皮剥けたような、決意に満ちた表情で、首を横に振った。
「いいえ、リッカ様。私は嬉しく思っているのです」
聞けば、部屋で対峙した瞬間、ランの考えていることが手に取るようにわかった、と。
彼の感じる運命に共鳴し、震えた。抱けば抱くほど、ランとの間にある境目がなくなり、混ざり、ひとつの生き物になっていくように馴染んでいったのだと。
その話を聞いていたアンジュが、頬を赤らめていた。未通のオメガには、刺激が強い。無論、リッカもである。
「望外の喜びでありました。これから一生を、ランに尽くし、愛してまいります」
リッカはむずむずする気持ちを抑え、ランにも目を向ける。
「ラン。お前もキルシュ殿に尽くし、愛して添い遂げるのですよ」
少し偉そうな口調は、母を意識してのことだった。若いオメガが、自らの運命と出会い、番として結ばれたことを、彼は祝福する。そして、今後ともに励むように言い渡すに違いなかった。
ランは歓喜の涙にむせびつつ、「はい、はい……!」と、何度も頷いた。隣に立つキルシュが肩を抱き、流れる涙を指で拭う。
なんとも似合いのふたりである。愛しくてたまらないと、キルシュの眼差しが雄弁に語っている。
「リッカ様も、どうかエルフの国で、よき運命に出会えますように」
ランの祈りに、リッカは笑った。空虚にならないように努力はしたが、はたして実ったかどうか。
他のオメガたちのところにも謝罪に行くふたりを送り出し、アンジュも彼らに着いていった。
リッカは部屋に、エドアールとふたりきりだ。
「……君は、自分には運命などありないとでもいう顔をしていたな」
男の呟きは独り言と見なし、リッカは振り向かない。早足で立ち去ろうとするが、騎士団長は瞬発力が違う。
くるりと前に回り込まれて、顔を覗き込まれる。ふと揺れる、赤い瞳。 ああ。今、自分はいったいどんな顔をしているんだろうか。
エドアールと視線を合わせないように俯いた。
他の者と違う彼の目は、何もかもを見透かされそうで、美しいと同時に、少しだけ怖い。
過去の傷も、自分の中の劣等感も何もかも、彼の前では白日の下に晒される気がした。
運命の相手は、オメガにとっては喉から手が出るほど欲しいものだ。
出会えば一目でわかる。神様が決めた、最良の相手。なかなか巡り会うことは少ないのだけれど、必ずどこかにはいるそうだ。
オメガに生まれついた者は、おとぎ話のような運命の番の話を聞いて育つ。
運命は勝手に用意されるもので、リッカが気づいたとしても、何も言わなければ、向こうは気がつかない。それでいい。
リッカが運命に出会うことは、一生ない。
「……エルフの国で、僕もアンジュも、運命に出会えることを祈っていますよ。そのために、来たのですから」
悲壮感溢れる本音をそのままエドアールに伝えることは、憚られた。部下の幸せな姿を見ている彼の夢を、壊したくない。
一礼とともに紡いだ祈りの言葉に込めた拒絶を、エドアールは正しく受け取った。もう制止はなかった。部屋を離れて、ようやくリッカは、肩の力を抜いた。
危惧されていた盗賊による襲撃もなく、オメガを載せた馬車の一団は、予定から五日遅れて、エルフの国へとたどり着いた。
オメガ国は大陸東端、つまり海の国だ。夏には太陽が照りつけ、冬は凍てつく波が激しく港に打ちつけてくる。季節によって明暗、陰陽の移り変わりがわかりやすい土地柄である。
対して、初めて見るエルフの国の印象はといえば、穏やかな木漏れ日であった。木々に囲まれ、葉が陰をつくる。秋が深まれば、どれほど美しく紅葉するのだろう。
「これが、世界樹……」
もう急ぐことはない。エルフ国の領土に入った馬車を、騎士たちはのんびりと走らせ、初めてこの地を踏むオメガたちに、あちこちを見せて回った。
リッカが特に感銘を受けたのは、エルフ国を象徴する世界樹であった。これほどまでに大きく、太い樹木を見るのは初めてで、あんぐりと口を開けて、見上げてしまう。
他の少年たちも似たり寄ったりの反応で、アンジュなど、幹に抱きついて、「僕が何人いたら一周できるんだ!?」と、はしゃいでいた。
世界樹の葉、それから樹液は万能薬の材料になる。高い魔力適性を持つエルフにしか加工できないため、自然と独占状態になる。各国には、数量限定で馬鹿みたいに高い薬が卸される。有事に備えて、オメガ国でも常備してあった。
「世界樹、か……」
リッカは世界樹の幹に触れた。
この森にしか育たないのだろうか。枝をもらって、オメガの国で接ぎ木をして育てることができないだろうか。魔力適性がないと扱えないというが、もしもこれから、それこそキルシュとランの間に子どもができたとき、オメガのエルフが誕生するかもしれない。その子なら、成長した暁には、世界樹を扱えるようになるのではないか……。
「リッカ? そろそろ」
あれこれと思考を巡らせていたリッカは、エドアールの呼び声にハッとした。慌てて手を離したその拍子に、捲れて硬くなった樹皮に指先をひっかける。
万能薬の元になる木で怪我をするなんて、馬鹿馬鹿しいにも程がある。自分の迂闊さと、ちくちくする痛みに、リッカはなんだか腹が立ってくる。
「大丈夫か?」
血の滲んだ指を、エドアールはごくごく自然な動きで、舐め取った。
「は……っ?」
思わず間抜けな声が漏れたのは、仕方のないことだろう。治療ともいえない行為で、子を愛する親なら、抵抗なく傷を舐めるだろう。だが、リッカは仮にも王族で、母にされたことはない。エドアールだって同じだろうに、なぜか彼は、滑らかな動作で、リッカの指を食む。
目を細めているその表情を、うっかりまじまじと見つめてしまう。よもや吸血種なのかと疑いを向けるが、特段美味しそうにしているわけではなかった。
「うん。血は止まった」
口から離した指先を丁寧に検分して、「あとで薬を塗ろう」と、何でもないことのように言う。
「ん。リッカ? 顔が赤いが……どうした?」
「馬鹿!」
反射的に罵倒したが、自分は悪くない。罵倒の語彙がほとんどないリッカでは、その後口論にすらならなかった。
きょとんとした顔のあと、エドアールは声を上げて笑った。
「笑わないでください!」
「はは、わかったわかった。照れてるんだろう? わかってるよ」
「ちっともわかっていらっしゃらない!」
怒気を上げるリッカだが、しかし、何をこんなくだらないことでカリカリしているのだろうとふと冷静になり、口を噤んだ。
笑いが落ち着いたところで、エドアールもまた、真顔になる。
「さて、オメガ国第二王子のリッカ殿下。これから国王の元へご案内しましょう」
エルフ国の王弟、王位継承三位としての顔で、エドアールはリッカに手を差し伸べた。
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