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<21話
重苦しい空気を打ち破ったのは、桜花がぱん、と一度手を打つ音だった。
「ひとまずこれで、終わりにしましょう? お姉様からいただいた乾菓子もありますし、何かお飲みになりませんか?」
女房を呼び出し、てきぱきと指示を与えて湯の用意をさせる。父の持たせた菓子を、桜花は露子と帝にも勧めたが、露子は甘い物が得意ではない。首を横に振って、いらない、と伝えると、帝も同様だったらしく、桜花は少し寂しそうな顔をする。
「もう。そんなところだけ意見が一致なさるんですから」
「桜花様のために持ってきたものなんだから、召し上がってください」
露子の言葉に、桜花は照れ笑いをして、それでは、と口に運ぶ。口にした瞬間に、とても幸せそうな笑顔を浮かべるものだから、露子も帝も釣られて笑んだ。俊尚の見解については食い違う二人は、目配せし合ってわかり合い、苦笑する。
和やかな雰囲気が部屋を包んだ。そう思ったときだった。
「ぐ……ううぅ……ッ」
細い月しか出ていない夜の闇に、獣が唸った。野犬かしら、と露子は思わず外を見た。影が映る。なんだろうと思っていると、それは明らかに、獣ではない。揺らめく炎のような、巨大な影。
嫌な気配がした。違う。これは影ではない。触れることのできない、煙のようなものだが、確かにそこに、「いる」。
鳥肌が立った。冷気を感じた。まだ寒くなるには早い。びしり、と音がして壁が揺れる。
「ひっ」
ガタガタガタ。雷鳴のような地響き。けれど、雨も降っていなければ、稲妻もない。天変地異の類であれば、周囲がもっと騒がしくなるはずだ。すなわちこれは、この部屋にのみ起きている、怪異。
帝と桜花は無事か。帝は腰が抜けた様子で、部屋を心細げに見渡しているが、大丈夫そうだ。露子は続いて、桜花を振り返った。
しかしそこにいたのは、すでに桜花ではなかった。
「ぐるるるる、があああああ」
常に穏やかに笑みを浮かべる唇を、裂けるほど大きく開けて、牙が覗く。部屋の中には風が吹いていないのに、彼女の長く真っ直ぐな黒髪は逆立ち、禍々しく揺れている。
目は金色に輝き、焦点が合っていない。鬼だ。いや、そんなことあるはずがない。鬼なんて、現実には……。
鬼の形相のまま、桜花は露子と同じく、動けないでいる帝に襲いかかった。悲鳴を上げた帝の首を締め上げる。鋭い爪が、彼の頬を傷つけた。帝の苦しそうな顔を見て、露子は咄嗟に動いた。
桜花の腰、胸をわしづかみにして必死に引きはがす。引き倒し、て上に馬乗りになって押さえつける。
桜花は獣じみた咆哮を上げて、腕を振り上げて抵抗する。爪が露子をひっかいて傷つけたが、そんなこと構っていられない。こちらも命がけだ。
「逃げてっ!」
恭しい言葉遣いなど捨てた。礼儀も何もかも、命の二の次だ。
「何してるの、早く!」
暴れる桜花を必死に押さえつけながら、露子はもたついている帝を振り返った。目に入ったのは、帝ではなく、その背後。
悪霊、と思わず露子は呟いた。先ほど見えた煙のような黒い揺らめきが、大きく育っている。数も増えた。ガタガタという音も止まない。
逃げられない。黒い揺らぎが、帝を包もうとしている。桜花の抵抗はいよいよ凄まじく、露子の限界が近い。
誰か助けて、などと、露子にしては非現実的なことを考えた。後宮は秘密の場所。帝以外の成人男性は入ることのできない、禁じられた場所。誰も来るはずがない。
腕に噛みつかれた。痛みで怯んだ隙をついて、桜花の腕が伸びてくる。逆に押し倒され、か弱い姫君とは思えない指の力で、首を絞められる。苦しい。息が、できない。
「露子!」
意識が朦朧とする中、露子ははっきりと、自分の名前を呼ぶ声を聞いた。もしかしたら俊尚の声かもしれない……いいや、違う。
だってこの声は、聞いたことのある声だから。
>23話
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