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<29話
星月夜の裏口から入る。今日もまた、あの獰猛な小動物のような青年に嫌味な視線をぶつけられるのだろうと思ったが、出くわさなかった。彼だけではなく、他の人間とも会わなかった。偶々なのだろうけれど、なんとなく嫌な予感がした。人払いされているのだとしたら。誰もいないところに呼び出して、牛島は何をするのだろう。
以前ならばドキドキと胸を興奮に高鳴らせていたところだが、あの一件以降、貴臣は牛島のことを手放しで信用する気にはなれない。
二人の秘密の部屋の前で貴臣は立ち止まる。深呼吸、のちノックをして、「どうぞ?」という牛島の声に不安になりながらも扉を開いた。
「なんだか久しぶりだね」
牛島はどこも変わっていなかった。優し気なのに何かを企んだ微笑みも、「何か飲む?」と貴臣の返事を聞く前にミネラルウォーターを注いでくれるのも。
変わってしまったのは、俺? いつから、どこから。わからないほど、随分と遠くへと来てしまったような気持ちになる。どこで選択肢を誤ったのだろうか。運命が狂ったのはあの日、エステサロンと間違えてゲイビデオの撮影現場に行ってしまったことだけれど、今こうやって落ち着かない気持ち、得体のしれない恐怖を味わっているのはあの日のせいではない。
もしかしたらもっと前。昴に憧れて俳優になろうと決断した日。同じ場所にいなければ、近づかなければこんな苦しい気持ちになることもなかった。
――そもそも、昴のファンになど、ならなければ……
出会わなければよかったのだ、と貴臣は思う。不意に目覚めて母親の用意していった食事を摂りながら、ドラマを見なければよかった。眠っていれば、自分のこの気質も眠ったままだった。
しかし仮定を繰り返しても、何ら意味のないことだった。貴臣にとっても昴にとっても、これが現実なのだ。貴臣は男とするセックスなしでは最早性欲を発散させる術はない状態まで堕ちてしまったし、ゲイフォビアの昴がそんな貴臣を軽蔑して縁を断ち切ってしまうのも当たり前なのだ。
受け入れなければならない。けれども貴臣は牛島に、聞かなければならないことがある。
ミネラルウォーターをしばらく見つめていた貴臣だったが、一気に飲み干した。そういえば牛島の前ではいつも、緊張で喉が渇いているような気がする。
空になったグラスが貴臣の手から消える。触れた指に息が詰まった。これまでとは違う緊張感。
「どうして、あんなことしたんですか」
声が震えるかもしれないと思っていたが、そんなことはなかった。むしろいつもよりも硬く、静かな声が出た。牛島からの視線を感じたが、貴臣は頑なに目を合わせなかった。そうすることによって、自身の怒りが伝わることを期待してのことだったが、牛島はまるで意に介さないように「あんなことって?」と軽く聞いた。
カッとなった貴臣は顔を上げて「わかってるくせに!」と喚いた。そうすると自分が想像していたよりも近い場所に牛島の顔があり、たじろぐことになる。
牛島の声は笑みを孕んでいたのに、目は笑っていなかった。射抜く程の強さは嵐の前の静けさのごとく、冷たく澄んでいる。言いなりになりそうになった心の弱さをぐっと我慢して、貴臣は牛島を睨みつける。
「約束が違うでしょう。俺があなたの奴隷になったのは、この部屋だけで完結する関係だって聞いたからです。なのにあんな……あんな!」
昴に見られた羞恥とそのときに覚えた怒りまで思い出して、貴臣は言葉に詰まった。牛島を睨みつける目だけは強いのだが、牛島が近づいてきてベッドに突き飛ばされると、後ずさった。
牛島の目は笑っていない。なのに口ぶりだけはいつも通り柔らかい。そう、セックスの最中に責め立てるのとまるで同じ声音だったから、わからなかった。
「でも先に裏切ったのは、君の方だろう? ご主人様の前で、他の男を見てうっとりした顔をして」
もっとベッドの中でひどいことをして、気絶させてしまえばよかったかな、と牛島はとんでもないことを言い出した。それが、出演ドラマの最終回を見た日だということに気が付く。二人でこのベッドの上で、自分の出ているドラマを見た。
「そんな顔、してな……!」
「それだけじゃない。その後スマホで、誰とやり取りしてた?」
見透かすような視線に射すくめられて、貴臣は動けない。隙をついて牛島は貴臣の頬に触れた。ひんやりと冷たい指先は、寒気しかしない今の貴臣には、毒にしかならない。全身に回った毒素が貴臣の身体を麻痺させる。
「彼だろう? 相手は」
神矢昴……と牛島の唇が動きかけた瞬間に、貴臣はぎゅ、と目を閉じて「その名前を言うな!」と叫んだ。言ってしまってから青ざめる。主人に対してなんていう口をきいてしまったんだ、と思ったあたり、調教が行き届いている。
ぐ、と牛島が体重をかけて貴臣を押し倒した。ベッドのスプリングが弾む音が耳に響く。
「お仕置き……」
耳にふ、と息を吹き込まれるように囁く声は、色気のある低さではあるものの、性的なものよりもふつふつと煮えたぎるような怒りが込められたものだったが、貴臣の反応はいつも通りだった。びくん、と身体を震わせて硬直した。
「しないと、ね?」
頷くことも、抵抗することもできなかった。
>31話
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