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<29話
にこにこと笑っている女性を前にして、千隼は冷や汗をかいていた。
頼みの九鬼はといえば、気を利かせたのかなんなのか、ドリンクバーに三人分の飲み物を取りに行ってしまった。
千隼は深く頭を下げた。自分が謝罪をしなければ、話は進まない。
「本当に、このたびは申し訳ありませんでした……! すべて俺の勘違いでした! えっと、その、ち……ち山先生には、ご迷惑をおかけしまして……」
ビジネス街の昼間のファミレスで、ペンネームを堂々と呼ぶことは憚られた。
気にしているのは千隼だけらしく、先ほど九鬼なんかは、「乳山先生は、アイスティーですか。ガムシロップは?」などと言っていた。
彼女自身もまったく気にならないらしい。さらっと、「今ダイエット中なんで、無糖で」と、オーダーしていた。
失礼な態度と言動を取ったことを謝罪したいと言うと、九鬼はすぐにアポを取ってくれた。ひとりでも謝れると主張した千隼だったが、九鬼もくっついてきた。今は、それでよかったのだと思う。
男子校育ち、おまけに専門学校も男ばかりだった千隼には、エロ漫画界の売れっ子美女という、理解の及ばぬ乳山に立ち向かう度胸はない。
乳山は、千隼のつたない謝罪を受け入れてくれた。
「恋人のいる人を、あんなところに連れ出した私も悪かったですから。今後はひとりで行きますので、大丈夫ですよ」
「いや、そこは九鬼をぜひ、連れてってください」
ふわふわした小動物にしか見えない彼女には、番犬が必要である。
そうですか、と乳山は言い、意味ありげな視線を千隼に向けて、微笑んでいる。
「あの、何か」
彼女はちょいちょいと手招きをして、千隼を呼ぶ。耳を傾けると、内緒話の体勢で、彼女は言った。
「あなたの持っているおもちゃ、全部入れ替わってますよ」
「は?」
意味がわからずにいると、乳山は追い打ちをかける。
曰く、九鬼はあの日、たくさんのアダルトグッズを買って帰ったのだという。自分の知らぬところで買ったもので、千隼が自らを慰めていると思うと、腹が立つ、とのことで。
「自分の前で使わせてやるって意気込んでましたね」
あ、もう使いました?
楽しそうな乳山に、千隼は絶句することしかできない。
そこにタイミングよく戻ってきた九鬼は、千隼の顔色を見て、「どうした?」と首を傾げた。
「……なんでもないっ!」
熱くなった頬を隠すために、千隼は突っ伏した。
無口で無愛想で無表情なのに、とんだ独占欲の持ち主だ。まさか、ひとり遊び用の性具にすら、嫉妬するなんて。
けれど、そんな九鬼に、ぐっと来てしまう自分も大概だ。
「もう……九鬼の馬鹿!」
なぜ怒られているのかわからない九鬼は、千隼の隣に座り、何くれと機嫌を取ろうと世話を焼く。
向かいに座った乳山は、ぽつりと言う。
「次に描く漫画のヒロインは、意地っ張りな子にしようかしら」
(終わり)
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