鮮やかな蟹

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ホラー

「海、だ……」

 呆然とした僕の呟きを、疲弊した彼女は拾えなかった。

 え? と僕の顔を見上げ、それから視線の先に目をやって、初めて意味を理解し、「ああ……」と、溜息をついた。そのままへたり込んだのを、慌てて支える。

 白い砂浜、青い海。この世のものとは思えない、物語の最後の楽園のような場所だ。ここに来るまでの間に割ってしまった眼鏡はポケットの中で、もっとよく見たいと思った僕は、波打ち際に近づこうと歩みを進めた。

「待って」

 存外はっきりとした声と、小さな温もりに引き留められる。繋いだ手を通じて、僕の心臓の音が早鐘を打つのが伝わるのではないかと思うと、太陽にじりじりと焼かれただけじゃない熱が、頬に集中した。

「海は危ないわ」

「あ、ああ。そうだね……」

 こんなにも美しい海を見たのは久しぶりだった。人を飲みこんでしまう恐ろしい海しか知らなかった。だが、警戒をしてもしすぎることはない。僕は彼女に従い、横に腰を下ろした。

 日差しを遮るもののない、炎天下。アスファルトよりはマシか。わずかに存在した岩場に、僕らは黙って並んでいる。

 彼女はホッとひと息ついて、ぼんやりと海を眺めている。寄せては返す波の音のリズムは心地よく、これまでの苦労がすっかりと洗われていく錯覚に陥る。

 どんな顔をしているのだろう。もっとよく見たいと思った。どうして僕は、不注意で眼鏡を割ってしまったのか、悔やまれる。〇.一を切る僕の視力は、どこまでも続く水平線を凝視していたら、回復したりしないだろうか。

「……なに?」

 ふいにこちらに顔を向けられて、驚く。しまった。表情を見たくて、近づきすぎていた。

 パッと身を離して「なんでもない」と視線を外す。彼女は僕に興味をなくし、「そう」とだけ言って、再び海を見つめた。

 これからどうしようか、という相談は無意味だ。どうしようもない。無言を貫くことしかできない自分が情けない。

 僕と彼女は、研究室の同期であった。恋人ではない。

 今だってこのふたりきりの楽園で、アダムとイブになろうという気はあっても、行動に起こせないままでいる。

「あ、それ」

 大学二年の秋、研究室の見学のときに初めて彼女――……浅浦あさうら未海みみと出会った。

 急に話しかけられて戸惑う僕に、未海はスマートフォンを取り出して、ケースに挟んだステッカーと、僕のポケットから垂れ下がっていたマスコットチャームを交互に指す。

「好きなの? しめじマン」

「まぁ、はい」

 十年くらい前に流行したスマホゲームのキャラクターだ。「やったことある」とか「懐かしい」とか、そういう反応は多かったが、まさかこうして、今も現役でキャラクターグッズを使用している同級生に出会うとは思わなかった。

「この研究室を選んで来るくらいですから、きのこ全般好きですよ」

 農学部生物資源学科の中でも、僕たちが今から門を叩こうとしているのは、菌類を専門に扱う研究室……メインはきのこ研究である。

 見るからに怪しい毒きのこに見えるのに、実は食用だったり、その逆もあったり。きのこはとにかくスリリングで、興味が尽きない。食べられるものは歯ごたえも風味もあるうえに、食物繊維が豊富で健康にもいい。まさに最高の生物だと思っている。

「こんな風に、可愛いキャラクターにもなりますし」

 ポケットから財布を取り出し、しめじマンを揺らすと、未海はカラカラと笑った。外見はお嬢様風なのに、決して気取ったところのない笑い方に、むしろ好感を持った。

「確かにね! 私もしめじ、好きだよ。もちろん、食べるのも」

 チャーミングな表情に、僕は一目で恋に落ちた。

 見学を終えた後に、「それじゃあお互いに、来年は研究室で会えることを」と、未海は言った。希望者が多いと、抽選になってしまうのだ。僕らは連絡先を交換することなく別れ、そして春になり、研究室で再会した。

「よかったね。これで思う存分、きのこの勉強ができる」

 お互いの運をたたえ合い、けれど僕らが特別に親しくなれたかというと、そうではなかった。

 理系の研究室は、女子が少ない。生物系だからまだマシな方だが、未海のような楚々とした美人はレアだ。白衣を着て、ほとんど化粧をしていない状態であっても、彼女は他の女子学生とは際立って見えた。

 研究室は年功序列だ。教授がトップで准教授、助手の先生。博士課程、修士課程の院生の先輩たち。僕ら学部三年生は、一番下っ端だ。未海と親しくなりたいと思っても、年長者たちのガードが堅い。

 あっという間に、彼女は研究室のお姫様へと上り詰めた。同級生でも、いわゆる陽キャというか、するっと人の輪に入り込んで、邪見にされることのない稀有な才能の持ち主は、取り巻きのひとりになることができたが、僕は全然ダメだった。

 彼女との唯一の繋がりであったゲームキャラのしめじマンだって、未海のスマホケースを見た先輩たちが真似をして、グッズを買いあさるようになった。研究室は空前のしめじマンブームで、僕らだけの繋がりではなくなってしまった。

 未海以外にも女の同級生や先輩はいたが、みんな苦笑するか、冷ややかに男子たちの動向を見ていた。自分があの立場に成り代わりたいという身の程知らずはおらず、自然と研究室は、未海たち・そこに近づけない学部生男子(陰キャの集まり)・女子学生たちの三グループに分かれていった。

「しっかし、朝浦さんは本当に美人だよな」

 溜息交じりに一軍連中を眺める同期に、僕は微かに頷くにとどめておいた。隣には、四年の女性の先輩が座って、レポートを執筆している。もうちょっと気を遣ってあげてほしい。

現に、にらまれているじゃないか。僕らだって、自分がどんな研究をしたいのかというテーマ決めを迫られているから、研究室の蔵書を漁っているというのに、雑談をしている暇はない。

「しかし、先輩たちはわかるんだけど、なんだって教授まで彼女に夢中なんだろうな」

 確かに不思議だった。学生がレア中のレアである美人学生に夢中になるのはわかるけれど、教授までもが未海のことを気にかけているのは、おかしな話だ。まさか単位の代わりに愛人に……なんて、三流のアダルト映画の筋書きみたいなことを考えて、首を横に振った。うちの教授は、愛妻家で有名なのだ。絶対にない。それに、未海も優秀な人だし。

「……あんたたち、知らないの?」

 レポートに集中していた先輩の一言に、心臓が跳ねた。まさか、話しかけてくるとは思ってもみなかった。僕よりも、ぺちゃくちゃと喋っていた仲間の方が驚いて、しどろもどろになっている。

 まともに口が回らなくなってしまった彼に代わって、僕が先輩に、「知らないって、何をですか?」と、聞き返した。

 朝、顔を洗うときにしか使わないようなタオル地のヘアターバンで前髪をガッと上げ、つるつるのおでこがむき出しになっている先輩は、眼鏡の奥の目を光らせた。

「朝浦さん、東大の教授の娘さんなんだよ。専門は藻類だけど。うちの教授、権威には弱いからねぇ」

 悪い人じゃあないんだけどね、と付け足した彼女のもたらした情報に、僕は納得した。学生相手には常に上から接する教授たちが、未海に対してだけはどこか下手に出ているのは、彼女の背後にいる父親のせいだったのだ。

「ふへー。お嬢さんなんっすねえ」

「そうねぇ。お父さんとは違う分野とはいえ、生物研究に興味が向くあたりは、サラブレッドって感じかしら?」

 たぶん同級生が言いたいのはそういうことじゃなく、いいところのお嬢さんという言葉以上の意味はなかったはずだが、先輩は研究者の卵の卵としてしか、未海に興味がない様子だった。

 肩を竦めて目を合わせてきた友人を、「僕らも真面目にやらないと、怒られるぞ」と無視して本のページに目を落としたが、いまいち集中することができなかった。

 未海は僕には到底手の届かない高嶺の花であることを本格的に実感したのは、秋の学会のときだった。

 ちょうど、持ち回りでうちの大学がメインとなって運営しなければならない年で、右も左もわからないようなひよっこの僕らも手伝いに駆り出された。もちろん、自分の研究や勉強も進めた上で、仕事が追加される。先輩たちよりも学問は大変じゃなかろうと、僕ら三年に多大なタスクが押し寄せてきたのは、言うまでもない。

 へとへとになりつつ、無事に学会は終わり、その後の懇親会。立食パーティには豪華な食事が供されている。海老に蟹、肉、肉、肉。

 僕らはいわば黒服に徹していなければならず、一口も食べられないけれど。残ったらもらえたりするのかな、と友人と話していた。

 未海は教授に連れまわされていて、全国各地から集まった研究者たちに挨拶をしていた。その途中で、僕が持っていたトレイからシャンパンを取った。一瞬だけ目が合ったと思ったが、気のせいかもしれない。

「ああ、あなたがあの、浅浦教授の!」

 教授が紹介した相手は、例外なくそう言う。

 研究室で先輩に話を聞いてから、僕は未海の父親のことを調べていた。

 浅浦光太郎こうたろう。東京大学で教鞭を執る、日本の藻類研究の第一人者である。様々な企業の支援も取り付けており、政治手腕も優れているらしい。次の学長選に打って出るかどうか……みたいなことが、ネット記事に上がっていた。研究者しか読まない論文だけじゃなく、一般の書店で簡単に買える新書もたくさん出版している。

 教授の隣にいる彼女は、リクルートスーツだというのに、多くの男たちを侍らせている女王様みたいだった。

 僕と一緒にキャラクターやゲームの話で盛り上がることは、二度とないだろう。

 この日、そう悟ったのだった。

 海を見つめてうつらうつらしている彼女の手に、スマホはない。どこかに落としてしまったし、あったとしても意味がない。

 僕のポケットの中には、かろうじて財布が入っており、初対面のときに未海と盛り上がったマスコットも、まだくっついている。

 二度と触れられないと思っていた大輪の薔薇が、隣でそっと佇んでいる。ボロボロの姿であっても、彼女は美しい。

 世の果てで二人きりの今、手折ることは簡単なのに、僕はできずにいる。こんなヘタレだから、この年になっても彼女のひとりもできたことがない童貞なのだ。

 目を閉じた未海の顔色は悪く、疲労が色濃く残っている。無理もない話だ。

 ――最初に異変が起きたのは、東京大学附属の、とある研究所であった。海洋生物、プランクトンの研究を目的に建てられた研究所は、一般的な鉄筋コンクリート製の建造物である。

 なのに、一夜にしてボロボロになった。コンクリートも何もかも、まるで食い荒らされたかのように崩れ落ちた建物は、ネットニュースからテレビにまで飛び火して、連日報道された。

 周辺地域の人たちの恐怖、そして遠く離れた人間たちの好奇心をよそに、様々な建物が廃墟化していく。ついには、人的な被害も出た。

 崩落に巻き込まれたと誰もが思ったが、実はそうではない。ずっと後になって知らされたのは、家と同じく、食い破られていたということ。

 原因は、比較的すぐに解明された。鉄筋コンクリートもプラスチックもそれから動物性たんぱく質も、無尽蔵に食べ荒らすのは、新種の植物プランクトンであった。

 未海の父・浅浦教授が発見し、培養していたものの一部が、突然変異を起こした。事故だと思われていたが、事実は異なる。

 貪欲に何もかもを飲みこみ消化するプランクトンを発見した彼は、咄嗟に「金になる」と思った。折しも、世界的にもSDGsの機運が高まっている。

 世界中で問題となっている海洋プラスチック、あれをこのプランクトンが溶解することができるようになったら……と、彼は様々な研究を積み重ねた。

 研究と言っても、ビジネスとは切っても切り離せない。僕がしている毒きのこの無毒化だって、新たな食用きのこが誕生するかもしれないと応援してくれている企業がある。まだ院生だし、結果が出ていないにも関わらず、話を聞いてくれていた。誰だって、寄付という名の稼ぎが欲しいのだ。

 最終的に、新種のプランクトンの遺伝子を弄り回し、彼は進化させてしまった。悪夢のプランクトンの誕生である。

 最初は、封じ込められていた。海辺からの避難、それから火炎放射器による一斉駆除。所詮は海洋性植物プランクトン。存在できる場所は限られている。

 しかし、奴らはこちらの思いもよらぬ進化速度を見せつけてきた。突然変異で真水に侵入できるものが現れると、前の種は駆逐されていく。さらには生物に寄生することまでも覚えて、内陸へと侵略を開始する。

 人類は、成す術がなかった。生みの親であるところの浅浦教授は、各方面から激しく攻撃されて、最終的には首を吊り、一抜けしまった。彼がいなくなって、ますます勝ち目がなくなった。

 どこに悪夢のプランクトンが生息しているかわからない。今喋っている相手が、実は寄生されており、リアルタイムでじわじわと食べられているのかもしれない。

 人間は、無力だった。協調性などなく、自分が助かることしか考えない僕らは、プランクトン以下の存在だ。

 世界平和? 協調? 助け合い? 

 そんなもの、どこにもなかった。

 人の居住区は次第に失われていき、そして浅浦教授のひとり娘である未海は、責任を取れと詰め寄られ、暴力にさいなまれ、追い出された。

 僕はたまたま同じ地域にいて、彼女を追いかけた。表情を失った未海に、「なんで?」と聞かれたが、上手に答えられなかったのが、今でも悔やまれる。好きだと言っていれば、死ぬ前に彼女と愛し合うことができたかもしれない。

 結局のところ、僕も自分勝手な人間のひとりなのだ。未海を慰めるフリで、実際には、欲望を腹の底に抱え込んでいる。

 目の前でうつらうつらとしている未海の髪に、そっと触れようとする。このくらいは許されてもいいだろう。僕は彼女のために、見張りの時間も長く請け負ったし、食料を探すのも僕。

 居住区を転々として、日本とは思えない美しい浜辺に出てきたのは、運命なのかもしれない。

 指が触れたか触れないかで、パッと未海は目を覚ました。慌てて引っ込めるあたり、本当に、僕という奴は。

「? どうかした?」

「いいやなんでも」

うまいごまかし方を考えつつ、ふと地面を見ると、砂浜を動くものがいた。

「……蟹?」

 独特の横歩きで、えっちらおっちらと、何の警戒心もなく移動しているのは、色鮮やかな蟹である。片方のはさみが異様に大きく、テレビや図鑑でしか見たことがない、なんとかガザミ、とかそういうやつだ。あいにく、海のことは詳しくない。

 僕の言葉に視線をやった未海も、蟹の存在に気がついた。僕らに見つめられているとはつゆ知らず、蟹は砂の上を歩いている。波打ち際にはなるべく近寄らないようにしているのは、生存本能のなせる業か。

 今は穏やかで、何事もない青い海だが、いつなんどき、殺人プランクトンが押し寄せるかもわからない。蟹もまた、理解しているのだろう。海はやつらの本拠地だ。人間が気づくよりも先に、被害が出ている。

「蟹って、食べられるかな」

 ぽつりと呟いた未海のせいで、空腹を思い出した。居住区では、わずかながら配給があったが、僕らが前の場所を出てきてから、三日。ほとんど何も口にしていなかった。生物も非生物も等しく摂取し、消化するプランクトンがうらやましいと思ったのも、一度や二度ではない。

「焼いたりゆでたりすれば、食べられると思うけど……食べたい?」

 万が一、プランクトンに寄生されていたとしても、奴らは結局のところ植物だ。火にかければ、死滅する。まあ、その場合はすでに食い尽くされていて、中身はないかもしれない。

 少し考えて、彼女は微かに頷いた。

「最後の晩餐かもね」

 そう、不穏な言葉とともに。

 普段、相手をしているのは物言わぬきのこたちであるが、山に実際に採集に出かけるときは、様々な生き物と出会う。虫だとか蛇だとか、少し危険な生き物たちにも比較的慣れており、いくらはさみが大きいとはいえ、蟹を捕まえるのは楽勝であった。

 未海が「すごーい」と、パチパチ拍手でほめたたえてくれたのも嬉しかった。

 胴体を掴まれて、足を宙で動かすだけの蟹を、彼女はまじまじと見つめた。今この時点で生きているこいつを、これから火にくべて食べるのだ。躊躇する気持ちが芽生えたかと、僕は気遣う。

 けれど未海は、首を横に振った。

「ううん。食べる。食べるよ。蟹って高級品でしょ」

「どうかなあ、こいつはそんなに金にならなさそうだけど」

 金にはもはや、価値などないのだが。

「蟹ってもっと赤いのかと思ってたけど、違うんだね」

 それはゆでたときだけなんじゃないかな、と思った。世間知らずのお嬢様だから、仕方がないか、とも。僕が捕まえた蟹は、鮮やかな青い色をしている。

 もっと南の海にいる奴のイメージだったが、生態系も狂っているのだろう。虫も魚も何もかもを、あいつらは捕食する。

 逃げた先の環境に適応できた者だけが、種として存続できるのだ。

「とりあえず火は……」

 火をおこすことができるかどうかで、生き延びることができるかどうか、変わってくる。ライターは持っていたけれど、オイルの残りが少ない。ここで焼き蟹に使ってしまうと、次に遭遇したときに、対抗する手段がない。

 未海の方を見ると、彼女は首を横に振った。

「持ってはいるけれど、もうあんまりないの」

 じゃあ、どうやったらこの蟹を焼くことができるのか。原始的に、木と木をこすり合わせるにしても、僕らはサバイバルに挑戦したことがこれまでなかった(突然文字通りの生か死かの状況に放り込まれて困っている)ので、そうした技術がない。

 何かないか、とポケットやカバンの中を漁っていると、指先に硬いものが当たった。

 道中、レンズがひび割れてしまった僕の眼鏡である。近視のため、眼鏡がないと不安なのだが、割れたままかけていて、万が一転んだとなると、眼球を傷つける可能性もあるため、外していた。

「そうだ」

 百パーセントとは言わないが、きりもみ法よりは成功する可能性が高い。森と浜辺の境目で、乾いた枝を拾い、太陽の位置を確認した。近視用レンズにより、光を収斂する。火災の一因にもなる、物理現象だ。虫眼鏡でノートを焦がす実験をしたのは、小学校のときだ。うまくいくだろうか。

 僕が何をしようとしているのか、未海はすぐに理解する。さすがは東大教授の娘というか、才媛である。口さがのない連中は、「どうせ顔だけ」と陰口を叩いていたが、未海は飲み込みも早く、思考力もある。

「こっちの方がいいんじゃない?」

 未海の言葉通りに移動すると、すぐに光が集まってきた。ポケットの中に入っていたホコリを種火にして、草や木に火をつける。

「でき……た!」

 やってみるものだなあ、と未海とハイタッチをした。彼女の小さい手は、手入れも何もできなくなって傷だらけだったけれど、まだじゅうぶんに柔らかい。

 火をおこす間、蟹は未海のかばんの中に入れていた。ブランドものの小さなバッグだ。まさか蟹を入れられるとは、デザイナーも思わなかっただろう。もうすでに、これを作った人間が生きているかどうかもわからない。

「それじゃあ、いくよ」

「うん」

 火の中に、蟹を放る。当然、熱さにじたばたと抵抗し、逃げようとするが、蟹の歩く速度なんてたかが知れている。手を火傷しないように、食べるものだけど、足で蹴り飛ばして、火の中へと戻す。

 やがて蟹は、自らの生を諦め、おとなしく火の中で焙られていた。生きたまま焼かれるのと、生きたまま食い破られるのとでは、どちらがより残酷なのか、わからなくなった。

 完全に動かなくなった蟹を、僕も未海も無言で見つめている。

 彼女の言葉通りに、これが最後の晩餐となるかもしれない。ならば僕は、想いを伝えるべきなのではないか。

 僕の迷いを打ち消すように、腹の虫が鳴いた。顔を見合わせた。未海の頬が赤くなっているが、きっと僕の腹からの催促である。

「食べようか」

「うん」

 鞄の中には、すぐ取り出せる位置にナイフが入っている。プランクトン相手には役に立たないが、人間相手には有効な武器だった。

 あち、あち、と言いながら蟹を火から取り出して、荒熱を取る。そして足とはさみをすべて切り落とした。

 未海の前に二本多く渡すと、「平等に半分こでしょう」と怒る。首を横に振って、僕は胴体を手にした。

「僕はこっちも食べるから」

「……食べるところ、あるの?」

 どうも未海は、お嬢様のわりに蟹を食べた経験がほとんどない様子である。かにみその美味さを知らないのか。ならば胴体の方を彼女に分けるべきか、と開いて中を見せると、嫌な顔をして、未海は首を横に振った。ビジュアルがお気に召さなかったらしい。

 調味料はないが、海辺を先ほどまで歩き回っていた蟹からは、潮の香りがする。運よく寄生を免れていた様子で、足も胴体も、ぎっしりとまでは言わないが、身がそこそこ詰まっていた。

「いただきます」

 蟹の足から、どうにかほじくり出した身を食べる。美味い、と久しぶりに感じた。蟹とはこんな味だった。前回食べたのは、いつだっただろう。学生がおいそれと食べられるものではなくて、正月の帰省のときだっただろうか。そのときに食べた輸入ものの冷凍タラバガニよりも、断然美味い。

 夢中になってむさぼっていたら、未海の存在が頭から消えかけていた。彼女は僕ががっついている姿を、観察していた。急に恥ずかしくなって、「冷めないうちに食べなよ。美味しいから」と、促した。

 未海は頷き、おそるおそる、蟹に口をつけた。一口飲みこんで、目を輝かせる。

「美味しい! 初めて食べた!」

 蟹を食べるとき、人は無口になる。特に、まともな道具がない今は、真剣にほじくり返さなければ、勿体ない。蟹の外殻で指が傷つくのも厭わず、僕らはひたすらに、蟹を食べた。

 ふいに彼女の手が止まる。

「最後に、食べれて、よかった」

 声は普段の未海のものとは違い、ヒューヒューと嫌な音が混じっていた。

「浅浦さん?」

 俯く彼女の顔を上げさせて、あっと驚いた。真っ赤に腫れあがり、普段の美貌のかけらもそこには見当たらない。呼吸音もいよいよおかしく、激しく咳き込んで苦しそうにしている。

 アナフィラキシーショック。

 蟹を生まれて初めて食べたのは、好き嫌いでもなんでもない。命に係わるからだったんだ!

「浅浦さん! どうして……」

 アレルギーだと知っていて、なぜ自分から蟹を食べようなどと言ったのか。激しいアレルギー反応に苦しむ未海の身体を抱き寄せて、成す術なく呆然とする。ぶつぶつと蕁麻疹だらけになった手を、彼女は僕に伸ばしかけて、やめた。気持ち悪くなんてないからと、僕はその手を握り締める。

「だって、もう無理だもの……食べられて死ぬよりも、食べて死ぬ方が、マシ」

 震える指先を、海に向けた。僕には美しい青い海にしか見えない。ハッとして、壊れた眼鏡をかけて、もう一度よく見る。

 ……ああ、未海。君はずっと、この光景を見つめていたのか。

 裸眼の僕には見えていなかったもの。彼女を絶望させるのに、必要十分であったもの。

 それは海面に繁茂して、波打ち際まで押し寄せてくる、緑色の悪夢であった。

 しばらく経って、僕の腹は決まった。彼女の亡骸とともに、海に入る。

 もう、無理だ。未海がいるからと虚勢を張っていただけだ。彼女亡き今、動けない。助けなんて来ない。

 さあ、食らえよ。新鮮な肉だぞ。

「……どうして?」

 海面を埋め尽くしたプランクトンは、僕らを避ける。生きながら食らわれるのは、どれほど痛いだろうと考えていたのに。

 なぜ、プランクトンは僕らを食らわないのか。

 未海なんてもう、動かないんだぞ。反撃の可能性もないのに。

 彼女と僕を繋ぐもの。それは、今しがた食べたばかりの蟹であった。

 そうだ。こんなにプランクトンが繁殖している場所に、蟹なんているはずがない。とっくに食われていなければおかしい。

 それが動いていたということは、あの蟹はきっと、プランクトンが忌避する「何か」を持っていた。そして食べることによって、僕らにその性質が移った。

「あはは……ははっ」

 助かる。この身体を、彼女をしかるべき場所で検査してもらえれば、抗体が作られる。

 助かるんだ。助かるんだよ、僕たち。

 抱きしめた未海は動かない。

 蟹を食べて死んだ彼女。蟹を食べなければ、プランクトンに貪られていた。

 いずれにしても、彼女は。

 僕はどちらの道を選べばいいのか。取って返し、救助を待って自分たちの身体を実験台とし、プランクトン駆除の役に立てるべきか、それとも。

 腰まで浸かった海は、僕の周辺だけ、もとの美しい色を取り戻している。

 (了)

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