夏織(10)

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9話

 現在文也が暮らしているマンションに移るだけなので、準備にそう人手はいらない。

 夏織の主張は通らなかった。妊娠してから、文也はとても過保護になった。まだ安定期じゃないんだから、と諭された。

「ごめんね、明美。休みの日に手伝いに来てもらっちゃって」

「いいって」

 持って行く食器を、緩衝材で梱包しながら明美は言った。女手があった方がいいと文也に言われたが、夏織には明美以外に頼る相手がいなかった。

「宅配便で送るんだっけ?」

「そのつもりだったんだけれどね。文也くんが、知り合いから軽トラック借りてきてくれるって……あ、噂をすれば」

 ピンポン、とチャイムが鳴った。ゆっくりと立ち上がり、夏織は彼を出迎える。

「どうぞ。まだ散らかってるけど」

 室内に促すと、文也と明美が対面する。写真すら見せたことがなかったので、明美は文也の顔を見て、何か言いたげな表情で、夏織を見た。

 言いたいことはわかっている。顔を見て、改めて文也が夏織の元彼たちとは全然違うのだと実感したのだろう。

 ワイルドで性的なアピールに特化していた男たちは、恋人にするにはよいが、結婚相手としては信用できない。三十年近く生きてきて、文也と出会ってようやくわかったのだ。

 幸せは、平凡とほぼイコールであるのだと。

小野田おのだ明美です。夏織とは、大学時代からの友人で」

 よろしく、と差し出された手を、文也は特に気にすることなく握った。

「浅倉文也です。夏織さんから、お話は伺ってますよ」

「あらやだ。悪口かしら?」

「明美!」

 止めなければ、何を言われるかわかったものじゃなかった。鋭い一声に、明美は肩を竦め、鞄の中から財布を取り出した。

「どこ行くの?」

「そろそろお昼だから、買い出し。なんか食べたい物ある?」

 それなら僕が行きますよ、と文也は言ったが、明美はにやにやと笑った。

「いいえ~。私、お邪魔虫ですから~」

 そう言ってスタスタと部屋を出て行ってしまうものだから、夏織は文也と顔を見合わせ、苦笑する他なかった。

「なんというか……面白い人だね」

「マイペースなのよ。昔っから、そう」

 洋服の海に埋もれたまま、夏織は明美の話をした。学生時代から今に至るまで、彼女の笑えるエピソードはたくさんある。その一つ一つを順を追って紹介すると、文也は声を上げて笑った。

 会話をしながらも、文也の手は止まらなかった。不用品としてあらかじめ除けてあった物を、大きなゴミ袋に分別していく。

 それを横目で見ながら、夏織は引っ張り出してきた洋服たちを吟味する。

 しばらく働くこともないだろうから、これを機に、かっちりしたスーツの類は処分してもいいのではないだろうか。マタニティドレスも買わなければならないし、文也の家のクローゼットを占領するわけにもいかない。

 洋服の仕分けに没頭している夏織の耳に、不用品と格闘している文也の「あれ?」という声が耳に入った。

「どうかした?」

「いや、夏織さん、喫煙者だったかな、と思って」

 文也の手の中にあるのは、灰皿だった。

 しまった。先に捨てておけばよかった。

 だが、今更後悔しても遅いので、夏織は顔に出さないように努めて、笑顔で「ああ!」と言った。

「昔、よく泊まりに来てた友達が喫ってたのよ。その子が持ち込んで、そのままになってるだけ」

「捨てていいの?」

「いいのよ。どうせ、もう取りになんて来ないわ」

 決して嘘ではないが、罪悪感は残る。込み上げてきた苦い物を、ごくりと飲み下して、夏織はさっさと洋服の整理に戻った。

 半分くらい分別が終わったところで、明美がコンビニから戻ってくる。はい、と渡されたのはビニール袋だけではなかった。

「これは?」

「帰ってきたら、郵便受けからはみ出てるのが見えたから、持ってきちゃった」

 白い封筒には、宛名が書いていない。夏織は首を捻り、裏返してみたが、送り主の名前も書いていなかった。

 匿名の手紙は、夏織の部屋の郵便受けに直接投函されたということだ。

「何かしら……」

 不気味な予感がして、夏織は二人に覗き込まれないように、中身に目を通した。

 一瞬だけ息を詰めて、それから夏織は、ビリビリに手紙を引き裂いた。小さく破いて、ゴミ袋にそのまま放り投げる。

 そのあまりの素早さに、文也と明美は目を丸くしている。

「どうしたの?」

「何でもない。ただの、ダイレクトメールよ。それより早く、お昼にしましょ」

 今度は明確に、嘘をついた。つき通さなければならない。

 コピー用紙には、たった一言、こう印刷されていた。

『すべて知っている』

 と。

11話

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