夏織(17)

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16話

 昼休みの時間を狙い、夏織は元職場であるところの、市役所へと向かった。ソファには必要な書類を待つ市民の多くが、スマートフォンを片手に座っている。誰も、夏織を見咎めることはない。

「あれぇ? 古河さんじゃないですかぁ」

 甘えた声は、相変わらずだった。後輩は首を傾げて、「何か用事ですかぁ?」と言ったきり、押し黙った。怯えたような表情で、彼女は夏織を見つめ、ぱっと視線を逸らした。

「……百合子さんは?」

「えっ? え、ああ……えっと、私と入れ違いに、食堂に行きました、ケド……あの……古河さん? どうしたんですか?」

 夏織は「そう」とだけ一言告げて、彼女に背を向けた。重い身体を引きずって、ぬるぬると夏織は食堂へと向かった。

 カチ、カチ、カチ。ポケットの中の物がしっかり使用可能かどうかを確認しながら階段を上る。

 五階で働いている文也とは、出くわさなかった。幸運だった。見つけられてしまったら、すべて暴露してしまうかもしれなかった。それほどまでに、夏織は追い詰められていた。

 食堂は、そこそこ混みあっている。ゆっくりと辺りを見渡せば、すぐに百合子は見つかる。今日も体型に見合った食欲を発揮している様子で、彼女の辞書には夏バテという言葉はないらしい。

 夏織はゆっくりと、近づいていった。餌を貪るのに夢中な豚は、気づかない。百合子の周りの職員たちの方が先に気がついて、ざわつき始める。

 誰も夏織に声をかけることはない。百合子の背後に立ったときには、そこだけ奇妙な空間ができているほどだった。

 夏織は百合子の、丸々とした背を叩いた。肉が厚すぎて、反応が鈍いのか、一瞬遅れて百合子は振り返り、ぎょっとした表情を浮かべる。

 夏織はそんな彼女を、上から見下ろし、睨みつけた。腹を抱え、撫でる。

「この子は私と、文也の赤ちゃんよ……他の男の子供なんかじゃないわ……私は、幸せになるの。愛される妻、可愛い子供の母親として!」

 徐々に静まって行った室内に、低い声はよく響いた。

「な、なに言ってんのよ」

「ごまかしたって無駄よ! あんたでしょ、いやがらせの手紙を送りつけてきてんの!」

 夏織の糾弾に、それでも百合子は「知らない、私じゃない!」と叫んだ。

「しらばっくれないで!」

 金切り声をあげて、夏織はポケットに隠し持っていた物を取り出し、振り下ろす。

 百合子は呆然としていた。自分の身に何が起きたのかわからぬ彼女の頬を、二度目の衝撃が襲う。

 そこでようやく百合子は、夏織の持ち込んだ大振りなカッターナイフによって切りつけられたことを知り、つんざくような悲鳴をあげた。

 もっと深く傷つけるはずだったのに。夏織は舌打ちし、来たときとは裏腹に、足早に食堂を後にする。

 人は思いもよらぬ事態に遭遇すると、沈黙してしまうものだということを、夏織は初めて知った。目の前で刃傷沙汰が起きたというのに、誰も夏織を制止しようとしなかったし、百合子に駆け寄る人間もいなかった。

 もうこれで、百合子が生活を脅かすことはないだろう。夏織は晴れ晴れとした気持ちで、庁舎を堂々と退出した。

18話

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