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<17話
カッターをどうしようか。ポケットの中で、カチカチと刃を出し入れしながら考える。
引っ越し後の段ボールの解体のためだけに購入したものだ。使う機会も少ないだろうし、百合子の汚い血がついた物なんて、使う気にもならない。
夏織はごくごく自然な動作で、ポケットからカッターを取り出し、何度も訪れたことのあるコンビニ前のゴミ箱に投げ捨てた。
日差しは強く、収まりつつあった悪阻がぶり返しそうだ。早く家に帰って、シャワーでも浴びてゆっくりと休みたい。夕方には起きて、美味しい料理を作って、疲れた文也を出迎えるのだ。
「ふふ。パパもきっと、喜んでくれるよね……?」
にっこりと微笑んで、夏織は腹部を撫でた。何の反応もないが、この間の検診でも、順調だと言われた。そのときは複雑な気持ちであったが、今は素直に嬉しいことだと感じられる。
百合子の口さえ封じてしまえば、この子の父親は、文也で確定だ。文也と付き合いながら、彰とセックスしていた事実は、さすがに明美にも話していない。彼女は夏織が、とっくに彰に見切りをつけていると思っている。
踊るように夏織は歩き、商店街を歩いているときには、「こんにちは」と機嫌よく、店員たちと挨拶を交わす。
凶行に及んだとは思えないほど、夏織は普通に買い物をして、帰路を辿る。今日の夕飯は、ごちそうだ。
マンションに着き、オートロックを解除しようとしたとき、背後から、「夏織」と名前を呼ばれた。
はい? と振り向いて、夏織は硬直した。そしてすぐに、荷物を投げ出して、逃げた。さっきまではあんなに軽い足取りだったのに、今は腹の中の子供が重くて、思うように動けない。
どうして。どうしてここにいるの?
「夏織、夏織!」
名前を呼びながら追いかけてくるのは、彰だった。久しぶりに会った男の目は、ギラギラと欲望と憎悪に輝いて、異様だった。
「! いや! 離して!」
男の体力と足の速さに、妊婦の夏織が敵うはずもない。手首を掴まれて、夏織は振りほどこうともがく。爪が食い込み、小さく悲鳴を上げた。
彰は夏織の腹に触れた。その瞬間、本能でわかった。
「なぁ夏織。お前、妊娠してんだってな?」
囁かれてぞっとする。気づいてしまった。このお腹の子は……。
「俺の子供なんだろ?」
「違うわ!」
違う。違ってくれなきゃ困る。しかし、撫でられた腹の子が、文也のときにはほとんど何にも言わないのに、彰に撫でられた途端、動いた。父の手を感じた、歓喜の気持ちを表すように。
「離してよ! 私は、幸せになるの! この子と、文也と!」
そのためには、彰は邪魔だ。
夏織はカッターナイフを捨ててきたことを、後悔した。この男も刺さなければだめだ。百合子よりも深く。
殺さなければ、夏織の平穏な未来はない。
「……俺を、捨てるのか?」
ぽそりと彰は言った。手首を掴む力が緩み、夏織は彼の手から逃れることに成功する。
「捨てる? ええ、捨ててやるわよ! あんたみたいなゴミ男、今までどうして、何度も拾ってきたんだろう! 早く消えて! もう二度と、私の前に現れないでよ!」
ヒステリックに叫び、その場を離れるべく、夏織は彰に背を向けた。
そのときだった。
どすん、と体当たりをされた。最後まで女に縋りつく、情けない男。そう思った。でも、違った。
鈍い痛みが腰に走る。え、と声を上げると、遅れて何かが体内から引き抜かれるような感触。今までの人生で、そんな経験など一度もしたことがないのに、はっきりと、そうされたことがわかる。
夏織は悲鳴を上げることもできずに、そのまま転がった。仰向けにされて、絶望の中で、男の顔を見上げる。
彼は泣いていた。ぐちゃぐちゃの顔で、
「俺にはお前しかいないんだよ、夏織ぃ……」
そう言いながら、夏織の腹を何度も突き刺す。
「俺の子、俺の子だ……はは、俺の子……」
大きなナイフが振り下ろされる。夏織が使ったカッターナイフとは違い、その辺で簡単に入手できるものではない。
おそらく彰は、最初からこうする可能性もあると思って、やってきたのだ。夏織を無理矢理、流産させるために。
ひゅう、と夏織の喉から空気が漏れた。夏織ごと、彰は子供を殺す。嫌だ。苦しい。死にたくない。
視界の端で、人々が騒然としている。その中に、文也の姿があった。
あき、ら。
夏織は手を伸ばした。ぴん、と指先に力を込めたが、すぐにだらりと弛緩し、地面に落ちた。
最期に呼んだのは、文也の名前ではなかった。
救急車とパトカーのサイレンが、夏の空気を震わせている。
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