夏織(7)

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6話

 それからの一ヶ月あまりは辛いものだった。

 身に覚えがないのに、役所のメールアドレスには、夏織のことだとわかるようにクレームが入る。電話も同様だ。

 その度に夏織は叱責され、どんどん信用をなくしていく。絶対に百合子のせいだとわかっているのに、彼女はなかなか尻尾を掴ませない。

 すでに文也に相談済みだが、彼が百合子に話をしても、はぐらかされてしまったという。

 証拠は? そう返されれば、夏織の話を聞いて判断しているだけの文也は、百合子をそれ以上、問い詰めることはできない。

 窓口に立てばクレーム沙汰になる。かといって事務作業に回しても、周囲の目は厳しかった。無論、ミスの大部分は夏織のせいではなかったが、周りからのプレッシャーで、本当に凡ミスを繰り返してしまうこともあった。

 次第に夏織には、子供でもできるような簡単な仕事しか回ってこなくなった。

 課長は「古河さん、お茶」と、今までは自分で淹れるか、百合子が率先してやっていたことも、夏織がするのが当たり前だと思っている様子で、命令してくる。

 給湯室に入ると、朝一番に沸かしてあったはずのポットの電源が切られていて、すっかり冷めてしまっていた。

 ここまでするのか。

 夏織はイライラしながら再沸騰のボタンを押し、茶葉の入った缶の蓋を、カポカポと開け閉めした。

 遅い、茶も満足に淹れられないのか。明確に中傷されるわけではないが、彼らの目が夏織を罵るのだ。

 ポットの中ではプクプクと泡が弾け始めた。

 四年制の大学を卒業して、こんなことがしたいわけじゃないのに。母親世代のキャリアウーマンたちの不満が、今の夏織には、手に取るようにわかった。

 茶葉を急須に入れて、湯飲みを用意する。

「古河さん。課長、もうお茶いらないって」

 シュンシュンと音を立てて、もうすぐ沸騰するポットを今か今かと待っていたら、百合子が後ろから、声をかけてきた。

「こんなに時間がかかるなら、自分でコンビニに買いに行った方が早いって言ってたわよ」

 彼女の口調は、さらりと歌うようだった。

 カッとなって、「あなたのせいでしょう!?」と、夏織は叫んだ。百合子はすらっとぼけて、「何のこと? お湯を沸かし忘れたのは、古河さんでしょ?」と言った。

「とぼけないで!」

 夏織が詰め寄ると、百合子は「ああ怖い」と芝居がかった様子で、身体をくねらせた。女優が舞台でやれば、セクシーかもしれないが、豚のように肥えた女がやっても、滑稽なだけだ。

「殴るの? 殴ったら言いつけるからね!」

 誰に、と百合子は言わなかった。だが夏織にはわかった。対象は上司ではなくて、文也だ。

 血の気が引いていくのを感じた。手の先が冷たくなって、震える。

 婚約者が職場で暴力沙汰を起こしたら、優しい文也であっても幻滅して、婚約破棄を言い渡すに違いない。彼は暴力も嫌いだ。アクション映画にも、難色を示していたくらいだから。

 百合子は勝ち誇った笑みを浮かべ、給湯室を大股に去って行った。

「お茶、いらないって……」

 ひとまず戻らないと、また嫌味を言われてしまう。

 一歩踏み出した瞬間に、夏織の意識はすっと闇に引っ張られて、遠のいていった。どたん、という音を立てて倒れる。

 立てない。どうしよう。

 もう、どうでもいいか。

 夏織は目を閉じて、すべてを闇に委ねた。

 ポットの中の湯が沸く音は、すでに止んでいた。

8話

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