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<7話
「おめでとうございます」
給湯室で昏倒したところを発見され、病院を訪れた夏織に対して、医師は祝福した。内科やら外科やらの問診を元に、最後に回されたのは婦人科だった。
ストレスなのか、それとも何か大きな病気なのか。その二択しか答えを持ち合わせていなかった夏織は、虚を突かれて、反応できなかった。
おめでとう、の意味を自分の中で噛み砕いてから、夏織は「あの……」と、医師の言葉の続きを促した。
「妊娠十二週から十三週ですね」
妊娠? 十二週? 誰の子? ……私の子だ。
医師は何の「妊娠」という二文字を、何のわだかまりもなく、あっさりと告げた。当然と言えば当然で、レイプされた結果でもなく、夏織は女子高生でもない。
二十八歳。夏の終わりには、二十九歳。ひと昔ふた昔前ならば、行き遅れとひそひそ話の対象になるような、立派な大人だ。
医師は、夏織のお腹の中に育ちつつある子を、望まれない子だとは思わない。産むんでしょう、という確認すらなされなかった。
ほくほく笑顔の医師に、夏織は頭を下げた。もう堕ろせないんですか、とは聞けないまま、診察室を出て、ぼんやりと支払いを済ませた。
病院の出入り口を出てすぐに、夏織はスマートフォンを確認した。文也から何通もメッセージが来ているのに気がついたが、真っ先に連絡をしたのは、明美であった。
『どうしよう。妊娠しちゃった』
まだ日が高い時間だったが、すぐに既読がついて、祝福のスタンプが飛んでくる。
『おめでとう。何が、どうしよう?』
その問いかけに、夏織は答えなかった。
明美に連絡をして、どうしたかったのだろう。夏織は病院の軒先で、ぼんやりと考えた。
彼女に根掘り葉掘り聞かれたら、確実に墓穴を掘ることになると、わかっているのに。付き合いが長い彼女は、夏織の学生時代からのことを知っていて、ピンと来るに違いない。
どうしようもない。文也に話さないわけにはいかない。彼は、婚約者だ。そして、お腹の子供の……父親。
深呼吸をして、文也からのメッセージに返信をする。
『お話があります』
丁寧な文体になったのは、心の奥底のしこりが原因としか、考えられなかった。
喫茶店に姿を現した文也は、顔を強張らせていた。夏織の病状が、思わしくないものだったという報告を、想像していたのだろう。
向かい側に座った文也がコーヒーを頼んだのを確認して、夏織は声を絞って、言った。
「……妊娠、してるんだって」
文也は一瞬、虚を突かれた表情を浮かべて、「本当に?」と言った。
こういう場面で、男の本性は表れるのだと、夏織は知っている。
過去に付き合った男たちに、エイプリルフールの冗談で、「子供ができたみたいなの。産んでいい?」と尋ねたことがあった。その反応は、皆それぞれではあったが、喜んでくれた男なんて、一人もいなかった。
いや、無理、と金を出そうとした男はまだマシな方で、本当に俺の子? とまで言った奴までいた。
夏織の恋愛遍歴の中、文也だけは違うと思っていた。けれど、このきょとんとした顔を見れば、予測が違っていたことが、わかってしまった。
今回は、あのときとは違い、嘘ではない。実際に夏織は子供を身籠っている。一人で産んで育てる勇気は、ない。
だが、視線をテーブルに落としている夏織の頭上にかけられたのは、喜色に満ちた声であった。
「やった! ありがとう、夏織さん。すごく嬉しい!」
顔を上げた夏織の目に映るのは、偽りでなく、正真正銘の笑顔を浮かべた文也だった。おっとりとした口調を崩さない彼が、珍しく、興奮を隠さずに早口になっていた。
そんな彼を見ていて、夏織の胸には温かい気持ちとともに、苦いものが広がっていく。
初めて、夏織は彼のことを愛おしいと思った。流れで結婚前提の交際を始めることになったが、親しみは覚えていても、愛はさほどなかった。
今まで付き合ってきた男たちとは、まるで違う。誠実で純粋で、愛すべき男なのだということを知れば知るほど、夏織は自らの恋愛遍歴を、過ちだと後悔する。
夏織が口を開く前に、真顔になった文也が、夏織の手を握った。温かい掌から、彼の愛情が伝わってくる。
「結婚してください。僕を、きちんとお腹の中の子のお父さんにしてください」
「あ、はい」
間抜けな返事をするのに時間を要したのは、文也の言葉の真意を、深読みしてしまったからだった。
まるで、夏織の腹の中にいる子供が、自分の種によるものではないことを、疑っているような、含みのある言い方だと思ったのだ。
だがその後、「いつ入籍しようか?」とわくわくしているらしい文也の顔を見て、夏織はほっと、肩から力を抜いた。
大丈夫。彼は私を疑ったりなんてしない。一ミリたりとも。そう、お人よしで、恋人の言葉ならばなんでも信じてしまうんだから……。
「夏織さん? 話、聞いてる?」
話しかけられて、夏織ははっとした。マタニティブルーかな、と笑われた。
「ごめん。ぼーっとしちゃって」
「ううん、いいよ。それで、これを機に、まずは一緒に住みませんか?」
文也曰く、同棲をしていた方が、結婚の準備もスムーズだろうということだった。なるほど、確かに離れているよりも、いつも一緒にいる方が、合理的だ。
「それと」
続いての提案は、同棲よりもよほど、夏織を喜ばせるものだった。
「仕事、辞めてもいいよ。ううん、違うな。辞めてください」
その言い分は、仕事を生き甲斐とする女性には禁句だろうが、夏織はそうではない。それに文也は、夏織を束縛しようというつもりで言ったのではなかった。
「百合子さんと一緒にいたら、ストレスでしょう。お腹の子にも、夏織さん自身にも、悪影響だから。ごめんね。僕がもっときちんと、守ることができればいいんだけど」
と、謝罪された。夏織は首を横に振った。文也はよく、夏織のことを信じて守ろうとしてくれた。それだけでよかった。
「今日倒れたのだって、赤ちゃんができてたからもあるだろうけれど、だいたい百合子さんのせいでしょう?」
その通りだ。辛い記憶に、夏織が涙目で頷くと、文也は細く長い溜息を吐いた。
「もう、すぐ辞めて、うちに来てください」
「はい」
夏織は大きく頷いた。
妊娠したと聞かされたときの陰鬱さは、鳴りをひそめていた。
>9話
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