きらきら星のばんそう者

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ピアノ 短編小説

 黒板の前で発言をするのは、優等生と相場が決まっている。一度も染めたことがないだろう黒髪を、きっちりと二つに結んだ副委員長を従えて、学級委員の眼鏡の少年が、か細い声を精一杯張り上げている。

 私は不自然にならないように、辺りを窺った。こういうときの身の振り方で、クラスでの立ち位置が変わってくるのである。

 真面目に話を聞いている人間は、一割くらい。斜め前に座っているルミなんて、我関せずとばかりに雑誌に目を通している。

 副委員長が、ルミを睨みつけて、ぴるぴると震えている。委員長は頑なに、彼女に視線を向けない。

 ルミの爪は今日も長く、きれいに彩られている。ブルーのグラデーションに、トップコートを重ねてつややかだ。薬指にはストーンが、きらきら。

 黒板には丁寧な字体で、『流浪の民』と書いてある。有名な合唱曲だ。来月の合唱コンクールで、うちのクラスが歌うことになった曲だ。先日、音楽の授業のときに一方的に押し付けられたので、思い入れは特にない。

 力強いピアノ伴奏はリズミカルで、なのにどこか物悲しい旋律を奏でる。歌詞は古めかしくて、古文に四苦八苦している私たちの力だけでは、解読できそうにない。

 先生も、もうちょっと協調性のある二、三年生にこの曲を歌わせるべきだった。入学してから半年にしかならない、それも学年で一番、まとまりのないやる気のないクラスに、こんな難曲。

 ソロパートを歌う人間が、一人。そして指揮者と伴奏者。指揮者は仕方がない、と委員長が引き受けてくれたが、その後がなかなか決まらない。ロングホームルームが終わってしまう。

「立候補、立候補いませんかー? いなければ推薦ー」

 焦りを感じている委員長の声に、「お前やれば?」「なんでだよ!」とさざめく声が教室中に広まっていく。

 私は頬杖をついて、窓の外を眺めていた。九月になってもまだ暑い。グラウンドから湯気が上がっているように見える。風が吹いてもべったりと肌に貼りつくだけだ。

 合唱コンクールの頃には、涼しくなっているだろうか。いや、そもそもこのクラスは、無事に合唱コンクールを迎え、終えることができるのだろうか。

半田はんださんを、ソロに推薦しまーす」

 やんちゃなグループの男子がプッシュしたのは、クラスでも目立たない、おとなしい子だ。背が低くてぽっちゃりしているので、よくからかわれている。

 今も、「あ……え……」と、人間を前にしたゾンビのような声を上げている。それを見かねた優等生グループの中で正義感に溢れる子が、

「半田さんはおとなしいんだから、ソロなんてムリだよ」

 と言った。半田さんは黙って、下を向いてしまった。男子も本気で言っていたわけではないので、「へいへい」と、それで話は打ち切り。

「はい、委員長」

 律儀に手を挙げて、発言権を求めている少年の声に、一瞬反応が遅れた。私とは真逆の、廊下側の一番後ろに座っている彼は、私にとってのアキレス腱のようなもので、つまり。

「ピアノ伴奏だったら、若山わかやまさんがいいと思います」
「ば……っ」

 かじゃないの、と続きを叫びそうになったけれど、ぐっと我慢した。高校に入学してからの彼と私は、ただのクラスメイトなんだから。大げさな反応をすれば、勘繰られる。

 委員長は少年の提案を受けて、すっと私の方を見た。おどおどした目つきだった。私は委員長たちの真面目優等生グループとは相性が悪い、ギャルのグループにいるから、怖がられている。

「ワカってピアノ弾けんの?」

 ルミは興味なさそうだが、一応友人のよしみとして尋ねてきた。きれいな爪が、ページを捲る。

「まさか」

 即座に否定すると、ちらりとこっちを向いて、ラメで光る唇を持ち上げた。

「だよね。似合わないし」

 似合わない。そうか。そうだな。染めた髪の毛も、化粧で原形をとどめていない顔も全部、ピアノというお嬢様イメージとは似つかわしくない。

「弾けるわけないじゃん。杉崎すぎさきの勘違いだよ」

 ははは、と笑って流した。そして会議も流れた。確率統計がどうだかは知らないけれど(私は生粋の文系だ)、一クラスに一人くらい、ピアノが弾ける人間がいてくれてもいいじゃない。ねえ。

 声をかけるタイミングが、難しかった。向こうはぼんやりと一人でいることが多いので、主にこちらの事情だけれど。こういうとき、どうしてべったりなグループに入ってしまったんだかなぁ、と思う。

 ようやく私が一人になれたのは、学校最寄り駅から乗換えの駅に着いたときだった。ストーカーよろしく、少年の後をそれとなくついてきた。見失わないうちに、白いシャツの背に手を伸ばす。跡がつけばいいな、と思って、ぱしん、と強めに叩いた。

「っ、て……」
「ちょっと、たける。顔貸して」

 痛みに顔を顰めていた少年は、私の姿を認めると、すぐに笑顔で頷いた。

 駅から出て、すぐのところにあったコーヒーショップに入る。こちら方面から同じ高校に通う人間はあまりいないので、同級生と出くわす可能性は低い。

「で? 話ってなに?」

 わかっていて、そう話を振ってくる猛のことは、少し苦手だ。ずっと小さい頃は、「ことちゃんことちゃん」と言って、私のワンピースの端っこを掴んでいたのに。

 ことちゃんがいないとぼく、むりだよお。そう言った情けない泣き顔ばかりを見てきたのに、今やどうだ。

 誰からも疑われないが、本心を悟らせない。人畜無害を装った飄々とした顔を、私は睨んだ。しかし効果はいまひとつのようだ。

琴音ことねはミルクティーでいいんだよね、はいどうぞ」

 にへ、と気にした様子もなく笑う猛に、一瞬毒気を抜かれそうになったが、違う、なごんでどうする、と自身を叱咤する。

 まずは落ち着こう。冷静に話をしなければ。買ってきてもらったミルクティーに口をつける。すっきりした甘さが喉を潤す。グラスを置いて、私は今度こそ、反応を引き出すべく彼の目を見て、話を始める。

「どういうつもり」
「どうって」
「合唱コンクール」

 ああ、と彼はカップにポーションミルクを落として、スプーンで掻き混ぜた。食器と当たって音を立てるなどという間抜けなことはしない。楽しそうに黒と白を合わせると、カップに口をつけた。

 どうでもいいけれど、二つも三つもミルクを入れるくらいなら、私だったら最初からカフェオレにするね。

「クラスの誰も、ピアノが弾けそうになかったし。何より」

 勿体つけた言い方が好きな奴だな。幼稚園からの知り合いだけれど、猛がこういう風になったのは、背が伸びて大人っぽくなった、高校生になってからだ。つい最近の話だからこそ、イライラする。

「琴音のピアノが、一番くるから」

 ここに。

 猛は親指で、自分の胸元を示した。ぞわぞわしちゃう。なんてキザ、サムイ男! こんな風になるなら、発表会の度に泣いていた弱虫のままでいてくれた方がよかった。

「……とにかく! 私は絶対にやらないから!」

 ずぞぞぞ、とお行儀悪くミルクティーを一気に吸い上げる。Sサイズでよかった。お腹が痛くなってしまう。

 財布から五百円玉を取り出して、テーブルに置いた。こういうときは、ぴったり出そうとしてもたもたしていたら格好がつかない。びしっと猛の方に滑らせてから、私は席を立った。さよなら私の一二〇円。

「琴音」

 スカートの裾を引かれた。小さな頃と同じ、きゅ、と掴むようなやり方だ。思わず立ち止まって、振り返った。

「絶対その気にさせるから、明日の放課後、付き合ってよ?」

 彼の笑顔は、有無を言わせない。店内だということもあって、私は頷かざるをえなかった。

 女子高校生のスカートを引っ張るって、一歩間違えば犯罪だよね、と帰りの電車の中でむしゃくしゃしながら思い返していた。

 帰宅してから、着替えるのもそこそこに、ベッドに倒れ込んだ。

 ――琴音の演奏が、一番くるから。ここに。

 猛はそう言ったけれど、私から見れば、あんたの方がよっぽど、だ。どうして猛、私と同じ高校に通っているんだろう。

 私と猛は幼馴染ではあるけれど、今まで同じ学校に通ったことはなかった。行ったことはないけれど、家はそう離れていない。でも、公立の小中学校は、校区が違っていた。

 じゃあどんな接点があったかというと、通っていた音楽教室が同じだったのだ。そこの先生は、個人でバイオリンとピアノを教えてくれた。専門はバイオリンらしかったけれど、ピアノほどの需要はなくて、両方やっている。

 深呼吸すると、枕の匂いがする。少し汗臭くて、もう洗わなきゃだめだな、と身体を起こした。大きなクローゼットが目に入り、私は慌てて目を逸らした。

 制服や日常使う洋服は、プラスチックの衣装ケースや、別に買ったハンガーラックにぶら下げてある。クローゼットの中には、非日常が詰まっている。

 活発な子供だった私が、ワンピースを着るのは特別なときだけだった。親戚の結婚式や、誕生日のお食事会。そして、ピアノの発表会のとき。

 子供の頃の猛の記憶はすべて、発表会と結びついている。だから私の中では彼はいつも、緊張して冷たい手をしていたし、きっと彼の記憶の中の私は、いつだって一張羅のきれいなワンピースを着ている。

 自分のソロ曲だけじゃなくて、私は猛の専属伴奏者だった。ことちゃんじゃなきゃ、いや。先生が伴奏をすると言ったのに、猛がそんな我儘を言うものだから、私は毎年、二曲も特訓をしなければならなかったし、レッスンの時間も猛に合わせなくてはならなかった。

 ――ドードー、ソーソー、ラーラー、ソー。

 小学一年生のときに、猛と二人で、『きらきら星変奏曲』をやった。最初は嫌々やっていたはずなのに、発表会本番のステージの上で、私は不思議な気持ちになった。

 ――ファーファ―、ミーミー、レーレー。

 私の鳴らした鍵盤の音と、猛の弾いた弦の音がぴったりと、しっくりと噛みあったのだ。練習のときにはなかった。なんだろう。もっと、もっと弾きたい。そう、胸が熱くなった。

 目の前には楽譜が置いてあって、音符が書いてある。その玉ひとつひとつが、本当に星のように、きらきらと輝いて見えた。

 ――ドー。

 発表会が終わってから、猛は私に、「ことちゃん、ずっと僕の伴奏して!」と言った。今思えば、可愛らしいプロポーズのようにも感じた。いいよ、と私は言った。

 猛のバイオリンには、確かに才能があった。めきめきと腕を上げていき、県の音楽コンクールで金賞を受賞した。そのときも、私が彼の後ろでピアノを弾いた。

 バイオリンという楽器は、女性の身体に似ているとよく言われる。まさしく彼は、彼女バイオリンを抱いて、ともに歌っていた。胸が焼けるくらい、素晴らしいこえで。

 音大附属高校を受験するのは、当たり前の流れだった。それは、猛にとってだけではなく、私にとっても。

 一日に何時間でもピアノを弾いたし、筆記試験の対策も、夜遅くまでした。両親はクラシック音楽が大好きで、娘が演奏家の道を進むのだと思って、応援してくれた。

 でも、違うの。私は猛の伴奏をしたかっただけ。猛がきらきらした音を奏でる、その手助けをしたかっただけ。

 そんな心構えで受験した私が、合格できるはずなんてなかった。猛は合格した。私は、可も不可もない私立高校の二次募集に応募し、通うことになった。

 特に音楽関係の部活が強いわけではない。距離が離れているので、中学の同級生は誰もいない。だからここに決めた。

 音大附属に絶対合格するんだ、と言い張っていた私を知る人が、同じ学校にいるなんて恥ずかしかったのだ。

 猛は音大附属に行ったと思ったのに、なぜか同じクラスにいる。目立たぬように、しかし埋もれない程度に、教室で微笑んでいる。

 のそのそと部屋を出て、リビングへと向かった。母が夕飯の支度をしていて、私の姿を認めてぎょっとした。

「なによ琴音。帰ってたなら言いなさいよ」

 丸顔で顔のパーツの一つ一つが小さい、どこにでもいるおばさん。クラシックなんて趣味を持っているとは、とても思えない母。

 髪を染めようが、化粧をしようが、両親は何も言わなかった。父はいきなりぐれた娘を遠巻きにしているだけだったが、母はなんとなく、私が苦しんでいるのを知っている気がする。

 私は変わりたかったのだ。ピアノを弾くことしかしてこなかった中学時代を、誰も想像できないような私に、なりたかったのだ。

 でも、結局私は私でしかない。ピアノという心のよりどころがあった中学時代よりも、今の私の目はきっと、淀んでいる。

 リビングに置いてあるアップライトのピアノは、埃を被っている。払う気にもなれなかった。

 逃げようとしたのに、彼は帰りのホームルームが終わってからすぐに、ぬるりと私の席までやってきた。いつもどおりの笑顔を浮かべて、封筒を渡してくる。なによ、と目で問うと、幼馴染の勘のよさで、「一二〇円」と言った。

 昨日のミルクティーのおつりだ。本当に律儀な男。そして私もまた、お金を返してもらったのだから付き合わなければならないと思ってしまうので、難儀な女だ。

 一緒に教室を出ていこうとすると、後ろから囃し立てられる。

「杉崎と若山、仲いいじゃん」

 振り返るとにやにやしてこっちを見ている男子。脳内はきっと、いやらしいことを考えているに違いない。男と女を見たら、必ずそっち方面に繋げるなんて、小学生で卒業しとけ。

 口を開こうとしたが、先手を打ったのは猛だった。

「うん。そうだね。でも君たちには関係ないね」

 絶句する男子を後目に、私たちは廊下へと出た。ざまあみろ。からかおうと思っても、ちょっとやそっとじゃ動揺しないのだ、この男は。

 猛が私を連れていったのは、音楽室だ。私にとっては鬼門といってもいい場所で、回れ右したくなる。

 振り返った猛は、扉を開ける前に、「静かに、ね?」と唇に人差し指をあてた。中に誰がいるっていうんだろう。とりあえず頷いて、私たちは音楽室の中に侵入する。

 合唱部は練習日ではないらしい。複数人の声は、しない。けれど誰かが、歌っている。

 それは、音楽の授業で聞いた『流浪の民』のソロパートの歌詞だった。ソプラノの伸びやかな声に、ぞくりと鳥肌が立った。

 上手い。誰が歌っているの? 先生が?

 そっと顔を覗かせると、見覚えのある顔だった。背が低くて、ぽっちゃりとした、だるまさんみたいな同級生。思わず私は、「半田さん?」と彼女の名前を呼んでいた。

 呼んでしまってから、「静かに」と言われていたことを思い出して、あわわ、と両手で口を隠した。私の慌てっぷりに猛は笑うと、それからその笑顔を半田さんに向けた。

「上手だね」

 彼女は真っ赤になって視線を逸らした。そんなことないです、とぼそぼそ否定する。普段の彼女の声は、とても小さい。

 でも先ほどの歌声は、朗々と音楽室内に響いていた。音楽のテストのときだって、彼女は先生から、「声出てないよ!」と注意されていたのに、まるで別人だ。

 猛はにこにこしているだけだし、私は半田さんと仲がいいわけではない。というか、たぶん怖がられている。

 しばしの無言を挟んで、猛の笑顔攻撃に耐えられなくなった半田さんが、口を開いた。

「本当は、歌うのが好きで……」

 中学時代、歌のテストのときに彼女は堂々とソプラノボイスを披露した。賞賛されるべきなのに、幼稚な同級生たちは、彼女のころっとした体型と合わせて揶揄するようなあだ名をつけた。半田久美子くみこ、半クミ。グルメで豊満な肉体を持つソプラノ歌手のあだ名をもじったのだ。

 久美子、という名前なら〇〇クミというあだ名になることは一般的だと思う。エンクミだっているし。しかし、その言い方には明らかに、からかいの気持ちがあった。

 それ以来、半田さんは人前で歌うのが怖いという。

「でも、昨日ソロを押しつけられそうになって……合唱コンクールできちんと歌えたら、私、変われるような気がしたんです」

 俯いた彼女の表情を思い出す。からかわれて赤面していたのではなく、勇気がなくて、「私がやります」と言えなかったことを、後悔していたのか。

 自信をつけるために、練習をしようと思って……ぽつぽつと語る半田さんはいじらしくて、可愛い。

「じゃあ、僕たちが付き合ってあげるよ、練習」

 勝手に「たち」にされてしまったけれど、まぁいいでしょう。猛はこちらを見ているけれど、ピアノを弾くつもりはない。

「いや、私は聞いてるだけで……」

 ちぇ、と猛は唇を尖らせて、鞄から楽譜を取り出すと、グランドピアノの前に座った。半田さんは目を丸くして、「杉崎くんはピアノが弾けるんですか?」と言った。

 男子でピアノを弾けるのは珍しい。そういえば中学時代の合唱コンクールも、どのクラスも伴奏者は女子で、指揮は男子だったことを思い出す。

 猛は専門はバイオリンだけれど、ピアノも人並み以上に弾きこなしてみせる。ついでに勉強もできるのが、厭味ったらしい。運動神経だけは私が勝っているけれど、猛が悪すぎるだけなので、比べても意味がない。

「弾けるけど、伴奏は下手なんだ。それでもよければ」

 前奏からね、と猛は言って、じゃじゃーん、と最初の和音を奏でてみせた。あまりの大音量に、鍵盤がビリビリいう音がする。さてはこの学校、調律をさぼっているな。古いピアノ特有の、びーん、と耳鳴りのような音が裏でしている。

「ん……うん。調整が難しいね」

 再び彼は大音量で和音を奏でた。じゃじゃーん、じゃじゃーん、じゃじゃーん、じゃじゃーん。軽やかなリズムに、半田さんの歌声が乗る。

 ……ああ、馬鹿。そこなんでフォルテにするのよ。強弱記号って知ってる? 知ってるわよね? 一人の歌声に対しての伴奏とは思えない音を出さないで! ああっ、テンポがどんどんずれてってる!

 ……半田さんは、よく歌い切ったと思う。頑張った。こんな自分勝手な伴奏、信じられない。

 猛は根っからのソリストなのだと思った。バイオリンが伴奏に回ることは、ほぼないだろうけれども、オーケストラにいてもたぶん、はた迷惑なタイプ。

 あんたのバイオリンの後ろで、再現してやろうかぁ! と思ってピアノ前に座る猛を見ると、悪びれもせずに「ほらね」と肩を竦めた。

「伴奏するにも、経験と才能がいるんだよ。ただ、ピアノが弾けるだけじゃだめなんだ」

 歌いにくかったでしょう、と彼は半田さんに尋ねた。真っ赤なほっぺの半田さんは、うつむいたまま「はい」と、正直者だ。

「合唱を、彼女のソロを輝かせるのは……俺は、ことちゃんしかいないと思う。っていうか、ことちゃんじゃなきゃ、やだ」

 突然子供返りしたような我儘を言い出す猛に、半田さんは驚いている。でも、私にとっては懐かしい口調だ。

「……でも」

 音大附属の受験に失敗してから、もう半年以上経つのだ。私はその間、まともに鍵盤に触れていない。

 楽器を本格的に習ったことのある人なら経験があるだろう。武道などでもいい。一日でも鍛錬を怠れば、それを取り戻すには三日かかる。

 半年も弾いていない私は……考えるだけで、ぞっとした。合唱コンクールは来月の開催だ。不完全な状態でステージには上がることができない。

 下を向いた私の手を、いつの間にか傍に来ていた猛が取った。骨ばった男の子の手だった。発表会で一礼するとき、手を繋いだ幼児の頃の、ふくふくしたものとはまったく違っている。

 彼は私の手を見ながら、言った。

「琴音は、ピアノに未練があるでしょう。俺は知ってるんだよ」

 弦を押さえ、バイオリンという恋人を扱う指が、私の小さな爪に触れた。やすりで削って整えただけの、いわゆる素爪の状態の、私の爪を。

「爪。伸ばさないのって、そういうことでしょ?」

 ああ、と溜息が漏れた。私はルミの、きれいに色分けされた爪を見るのが好きだった。ワカはワインレッドとか、大人な感じのが似合いそうだよね。そう言われて勧められたけれど、私は曖昧に笑って、一度もマニキュアを塗ることはなかった。

 カラフルな爪は、ある程度の長さがあってこそ、魅力的に見える。凶器レベルに長く尖っている必要は無論ないが、雑誌に紹介されているネイルアートのやり方にしても、長めの爪に施されている。

 それは、ピアノを弾くのに邪魔だ。濃い化粧をしていても、鍵盤に触れることはできる。けれど爪だけは、どうしても今以上に加工する気には、なれなかった。

「それにさ、俺、琴音の伴奏じゃないと嫌だって、秋の発表会、断ってるから」

「はぁ? なんで! 小林こばやし先生怒ったでしょ!?」

 っていうか音大附属蹴ったのも、相当激怒してるんじゃないの? なし崩しに辞めてしまったけれど、私は演奏の楽しさを教えてくれた小林先生が大好きなのだ。

「だってさ」

 猛が見つめてくる。甘ったれた子供じゃなくて、甘い大人の男の視線で。

 ――ドドソソララソ。

 私の脳裏に、またあのメロディが流れてくる。かなりの速度と、きらきらした音色を伴って。技巧的には今の方がずっと優れているだろうけれど、いつだって思い出すのは、拙い子供の演奏だ。

 ――ファファミミレレド。

 今彼の頭に流れているのが、私の奏でる伴奏だったらいいな。実際ありえないけれど、猛の目を見ていると、なんだか私たちは今、同じ音を聞いているような錯覚に陥る。

「いつだって、俺の演奏をきらきらさせてくれるのは、ことちゃんだからさ」

 きっと猛は素晴らしい演奏家になるだろう。輝く粒ぞろいの音を奏で、人々に音楽の楽しさを伝えることができる、音楽家だ。

 いつか、私という伴奏者じゃなければコンサートを開きません、という無理難題を押しつけても許されるくらいの、日本クラシック界をしょって立つ男に……なんて、言いすぎだろうか。

「……ほんとに、わがままなんだから」

 でも、ありえない話じゃない。なら私がやることはひとつ。高校は失敗しちゃったけど、大学で再チャレンジすることはできる。プロの伴奏者として、彼の演奏をもっと、きらきらしたものにする。

「いいよ。一緒に、行く」

 そう言うと、彼は破顔して、掴んだ指先にそっと力を籠め、私をピアノの前に引っ張っていき、座らせた。

 目の前には『流浪の民』の楽譜。白と黒の鍵盤に、指を載せる。硬くて柔らかい。そんな矛盾した二つの感触を持っているものを、私は他に知らない。

 目も指も追いつかないけれど、二人の歌声を聞きながら、どうにか弾ききった。

 そして私は、思い知った。

 私はピアノが好きで、猛の後ろで伴奏をすることが、何よりも、喜びなのだということを。

 相変わらず、会議は遅々として進まない。委員長は困っている。

「あの! 本当に誰か伴奏とソロ、いませんか!」

 このままだと伴奏は、先生に頼まなければならなくなる……頭を抱えた委員長に、私は、「委員長」と声をかけた。彼よりも先に反応したのは、半田さんだった。彼女は私を、はらはらした顔で見守っている。

「なんですか、若山さん」

 指名されて、立ち上がる。それから猛を振り返った。彼もじっと私を見つめていて、小さく頷いた。

 私は再び、半田さんに目を戻す。彼女は真っ赤な顔をして一度俯いたが、すぐに顔を上げた。その横顔は、決意が秘められている。

「半田さんがソロを、私がピアノ伴奏をします」

 一瞬静まった教室の空気を破ったのは、拍手の音。まばらだったそれが、どんどん広がって、一体化していく。

 見なくても、わかった。口火を切ったのは、彼だ。

 私は自分の手を見つめた。指が特別長いわけでもない、ピアノに向いているとは口が裂けても言えない、手。

 でもこの手が、導いてくれる。猛となら、私も行ける。

 素晴らしい音の世界へ。私はいつか、辿り着くのだ。

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